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絵・富永商太

武田・上杉家 週刊武春

武田信玄53年の生涯をスッキリ解説【家系図付き】戦国ロマン溢れる甲斐の虎、そのリアル

更新日:

2017年11月、戦国&幕末ファンにとって衝撃的なニュースが流れました。

高校の日本史教科書から
武田信玄
・上杉謙信
坂本龍馬
吉田松陰
といった人気者たちの名前が消える――というのです(朝日新聞デジタル)。

突然のことに賛否両論あるようですが、歴史の流れを重視すれば武田信玄と上杉謙信が削除されるのは致し方ない部分もありましょう。

確かに彼らは強かった。
戦国ファンの心を躍らせる戦いを幾度も繰り広げた。

しかし、織田信長豊臣秀吉徳川家康の「三英傑」とは異なり、日本史全体に影響を与えたわけではありません。

むしろここで考えたいのは、
【なぜ武田信玄と上杉謙信は、別格扱いされるのか?】
という点ではないでしょうか。

人気だけならときに三英傑も上回る、甲斐の虎と越後の龍。

本稿では無類の強さを誇った武田信玄の生涯をマトメたいと思います。

なお、本稿は信玄の事績を【流れで追う】ことに主眼を置き、その他のちょっとした疑問等については別項目でマトメております。

よろしければ最後までお楽しみください。

 

名門・甲斐源氏の重厚感

まず、信玄が別格扱いされる理由を少し掘り下げてみますと、
【名門・甲斐源氏】
というイメージも作用している気がします。

それはおそらく我々だけでなく、信玄が生きた戦国時代も、周囲への威圧という面で有利に働かせられたでしょう。

実際、信玄が関東の佐竹氏に助力を求める時、書状に
「ご先祖様は一緒でしょ」
という一節を入れたりしております。

では、そのご先祖様とは誰なのか?

源義光です。

新羅三郎とも呼ばれる甲斐源氏の初代・源義光/wikipediaより引用

甲斐源氏は、もともと清和源氏を祖として甲斐に根付いた源氏一族の一つですが、その始祖が義光でした。

この義光は源義家の弟でもありまして。
義家の子孫には、あの源頼朝がおります。

つまり武田家は、将軍家と親戚にあたるわけですね(ただし頼朝には一族を誅殺されたりしている)。

ややこしいので系図でちょっと整理しておきましょう。

では信玄は何代目なのか?

源義光を初代として考えると、信玄は第19代甲斐源氏の当主となり、甲斐武田氏としては16代になります。

さすが名門と呼ばれる歴史の長さ。
その19代をサクッと確認してみましょうか。

生年-没年も付記しておきますので、平安時代から続く武家の重厚な血脈を想像してみてください。

【甲斐源氏の流れ】

1代 源義光 1045-1127(甲斐源氏の始祖・甲斐守)

2代 源義清 1075-1149(常陸国“武田”郷の地から甲斐へ)

3代 源清光 1110-1168

4代 武田信義 1128-1186(甲斐武田氏の始祖)

5代 武田信光 1162-1248(源頼朝と共に挙兵)

6代 武田信政 1196-1265

7代 武田信時 1220-1289

8代 武田時綱 1245-1307

9代 武田信宗 1269-1330

10代 武田信武 1292-1359

11代 武田信成 不明-1394

12代 武田信春 不明-1413

13代 武田信満 不明-1417

14代 武田信重 1386-1450

15代 武田信守 不明-1418

16代 武田信昌 1447-1505

17代 武田信縄 1471-1507

18代 武田信虎 1494-1574

19代 武田信玄 1521-1573

20代 武田勝頼 1546-1582

※源義光の子・源義業が初代佐竹氏(信玄とはかなり遠い親戚ですね)

どうでしょう?
読んでるうちに息苦しくなるほどの重厚感ではありませんか?

そんな一族の長というだけで特別な風格を伴うでしょうし、戦場においても伝統というのは目に見えぬカタチで相手を圧した……と思うところですが、実際はそんなにカンタンなことではありません。

信玄が生まれた頃、甲斐は混乱の最中にありました。

父・武田信虎が今川勢に攻められ、窮地に陥っていたのです。

 

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今川氏に攻められる最中に要害山城で生誕

甲斐国。
現在の山梨県は、四方を山に囲まれ、甲府盆地は、夏暑く、冬寒しという厳しい気候で知られます。

大永元年(1521年)。
この国を治める守護大名の武田信虎は28才になっておりました。
と、同時に彼はこのとき、大変な危機の最中にありました。

福島正成(くしままさなり)率いる今川勢に攻められ、敵軍が甲府まで迫っていたのです。
今川義元や今川氏真でお馴染み、あの今川です。

信虎は懐妊中の正室・大井夫人を積翠寺要害山城に避難させました。
甲斐には城がない――そんなイメージをお持ちの方もおられますが、躑躅ヶ崎館の背後に、峻険な山と要害山城があったのです。

※赤いマークが躑躅ヶ崎館で、紫が要害山城

同年の1521年11月3日、大井夫人は避難先で無事男児を産みます。
幼名を太郎(or勝千代)と名付けられたこの男児が、のちの信玄。以降、本稿では「信玄」に統一して表記します。

妻子がここまで追い詰められるほど窮地に陥った信虎ですが、領内での二度の戦いでようやく今川勢を撃退、甲斐国には平穏が戻りました。

信玄の幼少期については謎が多いです。
伝説的な話は残されているものの、史料そのものが少ない。

最初の結婚は天文2年(1533年)、相手は、関東地方の名門・扇谷上杉朝興(ともおき)の息女でした。
が、この正室は出産時に母子ともに亡くなってしまいます。

それから三年後の天文5年(1536年)、元服して晴信と名乗ります。
室町将軍・足利義晴から「晴」の字を偏諱として賜り、同年七月には、左大臣・転法輪三条公頼(きんより)の二女、通称・三条夫人を継室に迎えました。

扇谷上杉と京都の公家という、2人の結婚相手を見てみますと、両家共に名家であり、信虎が嫡男を重要な位置づけとしていたことが窺えます。

信玄の初陣は『甲陽軍鑑』によれば元服と結婚と同じ、この年のこと。
武田家嫡男としてデビューを飾った記念すべき1年と言えるでしょう。

要害山城の復元予想図(お城野郎連載より引用)

 

父の追放

信玄の父・信虎は、なかなか苦労をしてきました。

わずか14才で家督を継ぎ、叔父はじめ国人の叛乱を抑え、甲斐を統一。
そのあとは周辺諸国に進出し、今川氏や北条氏と争いを繰り広げてきます。

天文10年(1541年)。
この信虎が、信玄によって追放されるという事件が起こりました。

父が子を殺し、子が父を殺すと云われる戦国時代ではありますが、しかしそこまで頻繁に親子が対立していたわけでもなく、信玄の父追放は悪逆非道の行為として、上杉謙信はじめ多くの人から非難されてきました。

しかし、そこに至るまでには様々な理由がありまして。

武田信虎/wikipediaより引用

【関連記事】武田信虎

『甲陽軍鑑』によれば、信虎は信玄ではなく弟の信繁を偏愛していました。
廃嫡すらしかねない状況に信玄が父の追放を決めた、とされています。

信虎が残忍な性格で、妊婦の腹を切り裂くような悪行を重ねていた、という話も伝わっています。

こうした動機は、後世の後付のような創作を感じさせます。

妊婦の腹を割くというのは悪逆人物の行動テンプレートのようなものです。
信玄の行為を正当化させるための脚色ではないでしょうか。

また、近年の研究では、百年に一度と言われるほどの飢餓が、この事件の背景にあったとも言われています。

信虎追放まで数年間、凶作、災害が相次いでしました。
にも関わらず、戦は止むことなく、ありとあらゆる階層において高まる不満。

このタイミングで信虎を追放し、強制的に領主を交替、それと同時に【交替に伴う徳政】を実施する……そうすることで、クーデターに対する理解を得ようとしたわけです。

代替わりでの徳政(借金チャラ)は当時ちょいちょい見られたものです。
冷静で合理的な判断のもと、信玄は父を追放したのでした。

 

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信濃攻略

天文11年(1542年)。
父を追放し、家督を相続した信玄は、いよいよ攻勢を開始します。

まず攻めたのが、諏訪頼重です。
諏訪家には妹の禰々が嫁いでおり、夫妻の間には嫡男・寅王丸が生まれたばかりでした。

姻戚関係を結んだ相手を攻めるとなると、なかなか悪どいように思えますが、信玄にも言い分はあります。

頼重は信虎追放の混乱の最中、同盟していた信玄や村上義清と無断で、敵方であった上杉憲政と講和。
先に裏切ったのは諏訪だ――という言い分が成り立ちます。

信玄は諏訪に侵攻すると諏訪頼重を切腹に追い込みました。

諏訪氏は寅王丸に継がせることとなっていました。
が、信玄はこれも反故にします。

頼重の妹である諏訪御寮人を側室とし、彼女との間に生まれた男児(のちの武田勝頼)に諏訪家を継がせるのです。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

諏訪を取った信玄の信濃侵攻は止まりません。

・天文12年(1543年) 信濃国長窪城主・大井貞隆を攻め降伏させ、望月昌頼を追放
・天文13年(1544年) 北条氏との和睦に至る
・天文14年(1545年) 4月、伊那郡の高遠城主高遠頼継、福与城主・藤沢頼親を降伏させた
・天文14年(1545年) 今川氏と北条氏の対立である「第二次河東一乱」)を仲裁
・天文15年(1546年) 佐久郡の内山城主・大井貞清を降伏させる
・天文16年(1547年) 佐久郡の志賀城主・笠原(依田)清繁を攻撃。笠原を支援する関東管領上杉氏の連合軍も撃破する。同年、「甲州法度之次第」を制定した(26ヵ条本と55+2ヵ条本があり、今川仮名目録の影響を受けている)

順調に見えた信玄の道のりですが、この後、二度の手痛い敗戦を喫します。

最初は天文17年(1548年)。
村上義清を攻めた「上田原の戦い」において、重臣の板垣信方&甘利虎泰らを失う惨敗を喫しました。

この敗戦による影響は甚大で、信濃経営すべてがオシャカになるほどの危機に陥りますが、直後の「塩尻峠の戦い」で挽回、反武田の動きを封じます。

さらに天文19年(1550年)。
今度も村上義清方の城である「戸石城」を攻めるものの、一説によれば1千名もの犠牲を出し、撤退。
この大敗北は生涯唯一の軍配違い(作戦ミス)として知られ「戸石崩れ」と呼ばれました。

こうなると村上義清って何者ぞ?
と思いますが、むしろ信玄にも若さゆえの驕りがあったのではないでしょうか。

実際、村上義清の反撃もここまで、です。

信玄は、天文20年(1551年)に戸石城を落とし、天文22年(1553年)には葛尾城も陥落させます。
没落した義清は、越後の長尾景虎を頼り、落ち延びるほかありませんでした。

なお、このとき目覚ましい活躍したのが真田幸綱(真田昌幸の父であり、真田信之真田信繁兄弟の祖父)です。

ドラマ『真田丸』では、草刈正雄さん演じる昌幸が、信玄の幻影を追うように謀略の限りを尽くしておりましたが、幼き頃より信玄に仕え、目の前で神業のような采配を見ていたらそりゃあ憧れもするでしょう。

宗教的な立場の違いから、武田信玄のことをかなり嫌っていた宣教師ルイス・フロイスですらも
「信玄は家臣たちから大いに尊敬される」
と記しているほどです。

外交においても、その能力を遺憾なく発揮する信玄。
天文23年(1554年)、武田信玄と北条氏康、そして今川義元の三者は互いに婚姻関係を結び「甲相駿三国同盟」を締結させました。

もっともこれは今川家の軍師的僧侶・太原雪斎の発案とされておりまして。
武田、今川、北条ともに「敵を絞りやすくなる」というメリットを享受します。

後顧の憂いなく、信玄は北へ目を転じることができるようになるのです。

 

激突! 川中島

村上義清を追い落とし、勢いに乗る武田家。
しかし、それが正解だったのか?と問われれば、必ずしもそうとは言い切れないのが歴史の面白いところでしょう。

義清が頼った相手・長尾景虎とは、信玄の永遠のライバル・上杉謙信です。
本稿ではこの時点から上杉謙信と表記します。

イラスト/富永商太

天文17年(1548年)、兄・晴景を引退させて家督を継いだ謙信。
彼は武田に追われた村上義清、高梨政頼らを受け入れます。

このまま武田が勢力を伸ばすことになれば、越後も危ういのではないか?
自らを頼ってきた信濃の者を見捨てるわけにはいかないのではないか?

そう考えた謙信は、信玄との対決に挑みます。

両雄決戦の地は、戦国ファン以外にも知られている川中島。
信玄は川中島より北の信濃を領有しており、この地はいわば国境線上のボーダーラインだったわけです。

さて、冒頭の
「なぜ信玄と謙信は、日本史の教科書に掲載されるのか?」
という話ですが……。

最も大きな要因は、川中島の戦いの人気ではないでしょうか。
日本人にとって戦国ロマンといえば川中島の戦い――そんな意識すら感じてしまいます。

ただし、この合戦は人気と知名度ほど、歴史的に見て重要ではないと思われます。

天下の趨勢を決めたワケでもない。
京都のように政治的に大切なエリアでもない。

それでいて戦国ロマンには絶対欠かすことのできない合戦。

実は、何度、戦ったのか?ということすらハッキリしていません。

しかし、それを言い出したら始まりませんので、ここでは通説に従い、5度の戦いを端的にマトメさせていただきます。

それぞれの詳細については【城の奪い合い】という面白い観点から非常によくマトメられた「お城野郎さん」の記事リンクがございますので、個々にご参照ください。

第一次合戦:天文22年(1553年)
Alias(別名):「布施の戦い」あるいは「更科八幡の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信(謙信本人が出陣したかどうかは諸説あり)
When:天文22年(1553年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:武田信玄に追われた村上義清の旧領復帰を目指す
What:放火等はあったものの、本格的な戦闘には至っていない。武田側は、村上領が奪われることを阻止。上杉側にとって村上義清の旧領復帰は失敗したものの、北信濃国衆の離反を防ぐことができた

【参照記事】お城野郎の第一次川中島の戦い

 

第二次合戦:天文24年(1555年)
Alias(別名):「犀川の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信
When:天文24年(1555年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:「甲相駿三国同盟」締結で後顧の憂いをたった武田と、離反した善光寺奪回をめざす上杉の戦い
What:武田方は食料調達、上杉方は家臣離反といった不安材料に悩まされ、両者ともめぼしい戦果をあげられず。今川義元の仲裁により和睦

【参照記事】】お城野郎の第二次川中島の戦い

 

第三次合戦:弘治3年(1557年)
Alias(別名):「上野原の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信
When:弘治3年(1557年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:北信進出を目指す武田を上杉が迎え撃つ
What:両軍とも不完全燃焼、戦果をあげられなかった。武田方が優勢であり、信玄は北信濃への進出を強める

【参照記事】】お城野郎の第三次川中島の戦い

 

第四次合戦:永禄4年(1561年)
Alias(別名):「八幡原の戦い」
Who:武田信玄vs上杉謙信
When:永禄4年(1561年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:関東進出を狙う上杉を、武田が迎撃、激突する
What:最大の戦いで、一般的に「川中島の戦い」というと、大半の人がこの戦いを連想するハズ。ただし、軍記ベースで誇張され気味で、実態は不明な点がも多い。「啄木鳥戦法」が有名で両者多数の死者(武田:4千、上杉:3千)を出すものの、決着はつかなかった。これが両雄最後の直接対決となる
Notable Deaths(主要死者):武田信繁、山本勘助、室住虎光

【参照記事】】お城野郎の第四次川中島の戦い

 

第五次合戦:永禄7年(1564年)
Alias(別名):「塩崎の対陣」
Who:武田信玄VS上杉謙信
When:永禄7年(1564年)
Where:信濃国川中島(現:長野市南郊)
Why:両者にらみ合いのみ

【参照記事】】お城野郎の第五次川中島の戦い

総括としましては……。

川中島の戦いとは、どこまでの範囲が含まれるのか。
何をもって合戦とみなすのか。
その基準すら変動しかねないため、はっきりと特定できないというところです。

後世の人々がロマンを託したがゆえに、話を盛った創作部分が大きすぎて、実態がよくわからなくなってしまったふしもあります。

例えば信玄と謙信の一騎打ち。
立派な銅像までありますが、これも想像の産物とされています。

一般的に最も有名なのが、第四次合戦です。
一騎打ちも第四次でのことと考えられ、この戦いは信玄の弟・武田信繁や、山本勘助らが討ち死にする大激戦となりました。

両者ともに大きな犠牲を払った川中島の戦い。

結果からいうと、実質的には武田方の勝利と言えましょう。

激戦を通して、北信濃の支配を固めていったのは信玄です。
謙信は強いけれども、地域支配のために効果的な陣地や城を得られず、足場を固めたとは言えません。

善光寺にしても、謙信が仏像を奪ったのに対し、信玄は寺ごと甲府に移転させてしまっています。

甲斐善光寺

領地を切り取るということに関しては、信玄の方が上手だったのですね。

しかし川中島の戦いが終結する頃から、信玄の身辺には別の問題が起こってきます。

 

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義信事件

第三次川中島の戦いが起こった永禄3年(1560年)。
駿河に激震が走りました。

「海道一の弓取り」と名高く、信玄にとっては同盟相手である今川義元が織田信長に討たれてしまったのです。

いわゆる桶狭間の戦いですね。

これにより今川家の跡を継ぐのは若輩の上、不肖の息子とされる氏真に決まり、今川氏が斜陽化してしまうのは誰の目からもハッキリとしておりました。

なれば、同盟を反故にしてでも攻めたくなるというもの。
他ならぬ信玄生誕の頃に今川氏から攻められていたような過去もあり、領国経営という観点からすれば自然な選択かもしれません。

しかし、問題がありました。
嫡男の武田義信です。

彼の妻は、今川氏真の妹で、いとこにもあたる嶺松院でした。
義信は義兄・氏真の治める駿河を攻めたくはないわけです。

信玄と義信の対立は、これ以前にもありました。
川中島の戦いの時点で、父子の意見が一致しなかったことが。

武田・織田の同盟にも反対しており、勝頼の妻として信長の養女が嫁ぐことにも反発していました。

要するに、積もり積もった反発、外交面での不一致が決定的な父子不和となったのです。

永禄8年(1565年)正月、飯富虎昌が成敗されました。
義信を唆したとの理由。
そして義信は、籠舎(牢屋に入れられる)となってしまいます。

しかしこの二年後の永禄10年(1567年)義信は自害してしまうのでした。

武田義信が幽閉されたという甲府の東光寺/photo by さかおり (talk) wikipediaより引用

信玄も父を追放し、権力を握った人物です。
義信は血統もよく、申し分のない嫡男であったはずです。

しかし、我が身を省みて、実子の謀叛のおそろしさを痛感していたのかもしれません。

捨て置くことはできない――ゆえに苦渋の決断を下したとしても、無理はないところではあります。

義信の死後、嶺松院は駿河に送り返されました。
そしてその死によって、諏訪家を継ぐはずだった四男の勝頼が、後継者となるのでした。

なお、信玄のその他の子供たち詳細については、本記事の終盤に付記しておきます。

 

駿河侵攻

窮地に立たされた今川氏真も、無策ではありません。
上杉謙信と協力し、武田の背後を脅かすことを模索します。

しかし、越後では上杉謙信の家臣である本庄繁長が、永禄11年(1568年)4月から翌永禄12年(1569年)3月にかけて叛乱を起こします。
しかもこの年はめったにないほどの豪雪で、さしもの謙信も思うように身動きが取れませんでした。

さらに信玄は織田信長に使者を送り、ある策を使います。
将軍の御内書による甲・越和議の和睦斡旋を依頼していたのです。
川中島であれだけ死闘を繰り広げておいて、その数年後に和睦って……と驚かされますよね。

これも戦国の外交なのですね。
信玄を描く物語に奥深さが出るのも、こうした百戦錬磨の作戦を網の目のように張り巡らせているからでしょう。

むろん上杉謙信とて、簡単に首をタテには振れません。
織田信長と足利義昭の度重なる斡旋により、永禄12年(1569年)7月には和睦が成立しています(甲越和与)。

等持院霊光殿に安置されている足利義昭坐像/wikipediaより

信長と義昭から働きかけさせるなど、この辺も外交上手な信玄の為せるワザですね。
※ただし長くは続かず、元亀元年(1570年)には、この和睦は謙信によって破棄されます

いずれにせよ、背後の驚異がなくなった信玄の、駿河侵攻を阻むものは何もない状態。
調略にも長けている信玄は、斜陽の今川家家臣に対して盛んに誘いをかけ、ついに立ち上がるのでした。

永禄11年(1568年)12月。
信玄からすれば満を持して、氏真にとっては突如、武田の駿河侵攻が始まります。

あまりの侵攻の猛烈さに、氏真は駿府を捨てて掛川城へと逃走。
氏真夫人であり北条氏康の娘にあたる早川殿は、輿すら用意できず、徒足裸足(かちはだし)で逃げ出す羽目になりました。

これが北条氏康と北条氏政の父子を激怒させます。

北条は、武田との同盟を破棄し、今川に援軍を送りました。
また、北条の進軍に呼応して反抗する今川方の武将もおり、戦線はますます激しさを増してゆきます。

一方、信玄は、徳川家康の協力も得て、両軍で今川領に攻め入りみます。

徳川家康/絵・富永商太

遠江を攻めるのは徳川軍の予定。にもかかわらず、武田軍はしばしば遠江にも圧力をかけており、家康は抗議するほどでした。
家康の中には、信玄への不信があったようです。

永禄12年(1569年)5月、今川氏真はついに掛川城を開城し、徳川家康と単独講和を結んでしまいます。
氏真降伏後、家康は遠江を支配することになりました。

【関連マニア記事】信玄の遠江侵攻と死

 

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「死を三年秘すべし」

今川氏の滅亡後、各大名は複雑な同盟関係を締結し、互いを牽制しあいます。

徳川家康は、上杉謙信との同盟を模索。
元亀2年(1571年)、北条氏康が亡くなると、跡を継いだ氏政は武田との同盟を復活させます。

その一方で、密かに織田信長へ危機感をもって対処をするようになります。
表面的には友好を装いつつ、信長の敵対勢力に接触をはかるわけです。

更に信玄は
・足利義昭
・浅井長政
・朝倉義景
・松永久秀
本願寺と一向宗門徒
というように、次々に味方に引き入れ信長包囲網を構築していきます。

こうしてみると、信玄の策略はえげつないな、と改めて感じますね。

元亀3年(1572年)、準備万端整えた信玄は、いよいよ甲府を出陣し徳川領へ向かいます。
徳川は織田との同盟相手。
今川攻めでは互いに不信感を抱いた相手でもあります。

武田軍は徳川領を進撃し、ついに両軍は激突しまた。
三方ヶ原の戦い」です。

【関連マニア記事】三方ヶ原の戦い 合戦場を歩きながら諸説を考察!

この戦いで散々に徳川方を討ち破った武田軍は、赤備えで有名な山県昌景が家康の首を討ち取る寸前まで追い込みます。

そして信玄は
「同盟相手とはいえ徳川に援軍を送ったのは許せない」
として、織田に同盟破棄を通達するのでした。

元亀4年(1573年)、信玄は正月早々動き出し、徳川方の野田城を包囲します。

家康は救援のため出馬するも、武田軍とぶつかることはありません。
謙信に出馬を促すものの、雪に閉ざされ動くことのできない上杉軍。

武田軍は野田城を落とすと長篠城へ。

山と川に囲まれた、峻険な場所にあった長篠城

信玄の撒いた反信長の芽は今まさに花を咲かせる勢いです。

各勢力は、信長を相手に敵対行動を開始。
まるで炎が燃え広がるように、織田を苦しめる――はずが、肝心の信玄が、長篠城から動かなくなってしまいます。

重病に倒れたのでした。

信玄は長年、病苦に苦しめられていました。
常に医者を側に置き、養生に励むも、肺結核とも癌とも推察される病には勝てる術がありません(ちなみに侍医は御宿監物みしゅくけんもつ)。

一度は回復の兆しをみせたものの、ついに帰国を余儀なくされる信玄。
そして甲府に向かう途中、1573年4月12日に亡くなりました。

享年53。

死を三年間隠すこと。
戦を停止すること。
それを言い残し、武田信玄という巨星は墜ちたのでした。

 

甲陽軍鑑に記された遺言とは?

死の間際、信玄が遺したとされる「三年間隠すこと」はよく知られていると思います。

しかし、そんなことは実際可能だったのでしょうか?

以前から本人も、自らの死は意識していたのでしょう。
信玄は、事前に800枚もの紙を用意し、すべてに花押を記し、諸大名からの書状に対応するように命じたとされます。

花押は原則、本人のサイン。
そこだけ本物を入れておき、各大名に対する返書の文章は右筆などが記したのでしょう。

ご丁寧に「今は病気である」というような内容で記すよう遺言で伝えられたとのことです。

さらに遺言の中には、
「勝頼は、あくまで陣代(当主代行)であり、息子の信勝が家督を継承するまで武田の旗も使わせない」
というものもありますが、現実的には当主と認められていたと考える方が自然です。

武田勝頼/wikipediaより引用

織田信長が「勝頼は強い」と認めていたように(強すぎて退けずに長篠で突っ込んだという見方はさておき)、決して無能な人ではありません。

それよりも遺言で面白いのは、死後に上杉謙信との和睦を勧めていたことでしょう。

さすがに織田信長と徳川家康との対峙は避けられぬ――という考えだったようで、信長に対しては攻め込むのではなく防御を固めるように指示しています。

さて、こうした数々の気遣いがありながら、実際のところ信玄の死はすぐさま諸国へ広まっていたようです。
武田家としては、あくまで「病気」というスタンスを貫いておりましたが。

仮に信玄不在だとしても、この頃にはまだ山県昌景や馬場信春、高坂弾正昌信など歴戦のつわ者たちが残っています。
簡単にどうこうできるワケでもなく、事実、勝頼のもとで、武田家の領土は拡大していくのでした。

 

その後、武田騎馬隊はどうなったのか?

さて、その武田家を支えた武田軍。

精強な騎馬隊がよく知られております。
野原を縦横無尽に駆け巡り、敵をなぎ倒していく姿を思い浮かべることでしょう。

少し前まで、この騎馬隊に対する否定的な考え、つまり「馬に乗って戦うことはなかった」とする説が提唱され話題になっておりましたが、現在では「やはり戦っていた」という見方が有力視されてます。

将校クラスだけでなく、身分の低い者も馬に乗って合戦に参加し、その隊が組まれていることが史料から読み取れるのです。

ただし「武田信玄陣立書」には、
【鉄砲、弓、騎馬、槍】
といった順番で部隊の構成が記されており、騎馬だけが際立って凄まじい、と確定したものはありません。

実際は、他国の大名と同じような構成であったということでしょう。

基本的に合戦は、鉄砲と弓で遠距離攻撃を仕掛け合いながら、徐々に距離を近づけて槍隊の出番となり、戦況が動き始めたところで騎馬隊がトドメにかかる――そんな流れだと考えられております。

ただ、やっぱり武田家の騎馬隊が凄いらしい、という記述はありまして。
長篠の戦い】で武田勝頼と対峙することになった織田信長が、騎馬隊を警戒している、そんな一節が『信長公記』にも記されているのです。

実は、鉄砲隊の隊列を崩すには、騎馬で突入させて撹乱させるのが定石。
そんな状況もあって、大量の鉄砲を用意させた織田信長が、武田の騎馬隊をかなり警戒していたのかもしれません。

長篠の戦いでは、騎馬隊を次々に突入させて無駄死にさせた、ということで勝頼の能力を否定する見方が一般的かもしれませんが、本当はやるべきことをやっていた可能性が高いのです。

むしろ長篠の戦いは、兵力を少なく見せ、山を砦のように固めていた、織田信長の作戦勝ち。
勝頼の名馬も信長に奪われております。

 

正妻・三条夫人は悪妻だった?

かつて信玄のフィクション作品と言えば、正妻の三条夫人が悪者で、側室の諏訪御料人を美人で描く傾向が見られました。

義信が謀反騒動で討たれ、勝頼が跡を継いだ。
そうしたことから、諏訪姫&勝頼を持ち上げた方がストーリーを展開させやすかったのでしょう。

しかし、実際の三条夫人が悪妻であった可能性は低いと思われます。

【関連記事】三条夫人

まず、彼女は今川義元の斡旋によって輿入れが実現し、かつては敵対関係であった武田と今川の両家に緊張の緩和をもたらしました。

実際、今川の家督争い(花倉の乱)では、武田が義元を支持。
信虎の長女が義元の正室にもなり、武田氏は中央貴族や京都寺院との結びつきが強くなります。

後に信玄が信長包囲網を敷くときに、三条夫人を通じて石山本願寺と連携をはかったこともよく知られます。
三条夫人の妹が本願寺顕如に嫁いでおり、それぞれの妻を通じて義兄弟の関係になっていたんですね(ちなみに三条夫人の姉は管領・細川晴元に嫁いでいる)。

信長との争いの前には、本願寺(越中の一向宗門徒)を通じて、越後の上杉謙信を牽制する働きかけも行われております。

なにより信玄との間には、
・義信
・竜芳
・信之
・黄梅院
・見性院
と5人もの子供がおります。

三条夫人が悪妻かつ不仲であったら、さすがにここまでの関係を築くことは不可能だったのではないでしょうか。

彼女は内助の功だけでなく、外交という信玄の武器にも不可欠だったのです。

 

側室と子どもたち

武田信玄には、正妻・三条夫人の他に側室がハッキリしたところで3名、他に数名いたのでは?と考えられてます。

3名とは以下の通りで、
・諏訪御料人(諏訪姫)
・油川夫人
・禰津夫人
・勝沼氏の娘ほか数名(詳細不明)
それぞれ簡潔に説明しておきましょう。

側室で、最も印象深いのが諏訪御料人ですね。

実父の諏訪頼重と弟・竜王丸を信玄に殺されながら、武田勝頼という跡継ぎを産みました。
自身は二十代の若さで亡くなっています。

勝頼の息子・信勝が当主候補で、勝頼は代行に過ぎなかったという指摘(上記の通り甲陽軍鑑に記された信玄の遺言)もありますが、いずれにせよここで滅びてしまったので致し方ない話でしょう。

油川夫人の出身・油川家は、もともと武田家とは同族の名門です。

信玄の祖父である武田信縄(のぶつな)。その弟・油川信恵(あぶらかわのぶよし)が祖となって甲府の南部に勢力を張っておりましたが、信虎との争いに敗れて家は滅亡しました。

家柄も良いだけでなく、子宝にも恵まれ、仁科家を継いだ五男・盛信、葛山氏の養子に入った六男・信貞、木曽義昌に嫁いだ真里姫、信長嫡男の織田信忠と婚約した松姫、上杉景勝の妻・菊姫などがいます。

禰津夫人は、信濃の高遠一族の出身です。七男・信清を産んだこと以外は知られておりませんが、この信清は武田家滅亡後、姉である菊姫のツテで上杉景勝に仕えました。

こうして見ますと、冷静沈着に政略結婚を繰り返した――なんて思うかもしれませんし、実際そうなのかもしれません。
が、だからといって愛情がなかったとも判断できないでしょう。

信玄は、黄梅院を北条氏政の嫁に送るとき、実に10,000以上の騎兵を伴わせたと言います。
この数字はさすがに盛り過ぎのため、仮にその1/10だとしても1,000を超えるのですから、娘に対して深い愛情を抱いていたことがうかがえます。調度品も相当な品揃えでした。

ただ……。
駿河侵攻で黄梅院は離縁で甲府に戻され、失意のうちに急死してしまいます。
信玄は大泉寺に所領を寄進してまで、彼女の魂を弔ったと伝わります。

【参考:信玄の妻&側室と子どもたち】
三条・義信(廃嫡した嫡男)
三条・竜芳(海野二郎)
三条・信之(夭折)
諏訪・勝頼 - 信勝(孫)
油川・盛信(仁科五郎盛信)
油川・信貞(葛山十郎信貞)
禰津・信清(安田三郎信清)
三条・黄梅院(北条氏政室)
三条・見性院(穴山信君室)
油川・真理姫(木曽義昌室)
油川・菊姫(上杉景勝室)
油川・松姫(織田信忠と婚約)

※息子の多くが他家の養子となったのは、支配力を強めるためであり、武家の間では古くから行われておりました

 

キング・オブ・戦国大名

さて、こうして信玄の人生をみると、まさに戦国大名の代表という気がしませんか?
戦いと謀略にまみれている。

しかし、戦国大名の全員が戦いに明け暮れた、というワケでもありません。
特に信玄の息子世代より以降、豊臣政権から派手な戦なんてそうそうない。

例えば伊達政宗あたりなんかも、戦績は前半生の数年間のみに集中しています。

一方、信玄です。

戦いに満ちた生涯は、まさに「キング・オブ・戦国大名」。
乱世の申し子という印象を受けます。

しかも滅法強く、満を持した戦いではほぼ全勝でした(主な負けは村上、上杉、北条相手に都合4度)。
合戦だけではなく、外交や謀略にも長けていたのだから、そりゃあ戦国武将の中でも突出した人気を誇るわけです。

自らの無念の死ですら、強烈な存在感を強めている。
「ミロのヴィーナスは腕がないからこそ想像の余地があって美しい」と言われますが、信玄の人生も、同じように未完の美しさを感じます。

それは、まさに戦国ロマンそのもの――。

では教科書から削除されるのは不当か?
というと、私はそうは思いません。

ロマン補正を差し引くと、信玄の功績はあくまで有力な地方大名の一つ。
結局、教科書に掲載されていようがいまいが、歴史ロマンを求める人は自然に嗅ぎつけ、そうでない人には伝わらないというだけです。

もはや武田信玄という強烈な存在感の前では、教科書なんて些末なこと。

戦国史に興味を持てば、確実に武田信玄という大きな壁に突き当たり、感服せざるを得ない――それだけで十分ではないでしょうか。




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文:小檜山青

【参考文献】
武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)』笹本正治
武田信玄 (歴史文化ライブラリー)』平山優
武田信玄 (人物叢書 新装版)』奥野高広
武田信玄 謎解き散歩 (新人物文庫)』萩原三雄 (その他)

 



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