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日本史オモシロ参考書 明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた

版籍奉還と廃藩置県と地租改正の違いって? ややこしい明治の四字熟語をクリアに

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歴史が敬遠される理由の一つ、それは“漢字の羅列”でしょう。

せめて見た目が大きく違えばまだしも、四字熟語的なものが並んだ日にゃ最悪。
版籍奉還】だの【廃藩置県】だの【地租改正】だの、よくもまぁ同時期に繰り出してくれたもんです。

いずれも江戸時代の封建制度から近代国家へ進むために必要だったとはいえ、できれば一度で済ませられなかったんスかね……。

関係性や時間軸からすると
版籍奉還(1869年)

廃藩置県(1871年)

地租改正(1873年)
で見ていった方がわかりやすそうというわけで、まずは版籍奉還から!

 

版籍奉還とは?

まずこの言葉の意味は、
「各地の藩に属している領地と領民を天皇に返す」
ということです。

受験生の方は「版」の書き間違いにご注意ください。
「藩」ではありませんよ。
「版」です。
正直、これはトラップとしか思えませんわ~。

発端は戊辰戦争中、新政府の財源として各藩から領地を献上させようとしたことでした。
意外に思えるかもしれませんが、発足当初の明治政府は有力藩の寄り合い状態だったので、あまり資金があるとはいえなかったのです。

そこでまず長州藩と薩摩藩が自領の一部を献上し、さらに藩財政が危うくなっていた姫路藩が続こうとしました。

これに対し、伊藤博文が「姫路藩の行動はあっぱれなことであり、特別に褒美を出してもいいのでは」と提案。
木戸孝允がこれを聞いて版籍奉還の仕組みを考え、長州・薩摩に同意を求めました。

木戸自身も主君である長州藩主・毛利敬親(たかちか)を説得しています。

これに肥前藩主・鍋島直大、土佐藩主・山内豊範が同意し、他の藩も版籍奉還を申し出るようになりました。
そして新政府から許可が降り、他の藩にも版籍奉還を命じます。

明治二年(1869年)の旧暦6月ですから、箱館戦争が終わる数日前くらいのことです。

 

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藩と知事の財産を切り離した

これまたややこしいのが、「版籍奉還によって藩主たちがみんなクビになったわけではない」ことです。

中央政府でさえまだ完全でないのに、地方統治などがいわずもがな。
そのため、藩主だった者を改めて「藩知事」という役職に任命しました。

藩知事の財産は「藩の1/10」とし、藩と知事の財産を切り離したのも大きなポイントです。

江戸時代は、藩主の財産と藩政のための資金は境目がなかったために「藩主のぜいたくのせいで藩財政が火の車」なんて事態が起きました。
それをあらかじめハッキリ分けることで、明治政府は二の舞にならないようにしたのです。

収入をはっきりさせるため、石高や兵数や人口、地図などの調査なども行わせました。
また、それぞれの藩内で武士だった者は基本的に「士族」とし、武家内での身分格差をなくしています。

「格差の是正」というと聞こえが良い話ですが、これによって起きた事件(庚午事変)もあるのがなんとも言えないところ。

 

廃藩置県とは?

版籍奉還の次に行われたのが、廃藩置県です。
字面から見た印象では、これが一番わかりやすいかもしれませんね。

版籍奉還の後、各行政機関が整えられ、東京・京都・大阪を府とし、残りの政府直轄地を県とすることが決まりました。
これによって各地方は「大名や藩知事による半独立国家」ではなく、「政府によって藩知事が預かっている」という状況が作り出されたわけです。

また、江戸時代中からの窮乏などにより、自ら廃藩を申し出るところもありました。
明治政府はそうした藩を近隣に統合し、整理を進めていきます。これにより、江戸時代は飛び地だった場所などもまとめられました。

それでもこの時点で3府72県あり、現代の都道府県よりずっと多かったのです。
※明治21年までに3府43県となり、現在に近い数字になっています

そしてある程度整理が進んだところで、明治天皇から廃藩置県の詔(みことのり)を発し、藩知事を罷免。
全ての藩知事は華族として、東京府に属するようになり、大名時代の地元から切り離されました。

元大名たちが去った後、各府・県には改めて政府から知事が任命されています。

 

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台湾出兵を機に沖縄は日本へ

琉球(沖縄)については、少々異なる経緯をたどりました。

明治政府が成立して間もない頃、琉球からお祝いの使者が来たときに「幕府もなくなったし、言葉が通じ合う仲なんだし、この際、同じ国の一員になろうぜ」(超訳)という話が持ちかけられたのが始まりです。

そしてその話がまとまりきらない頃、とある事件が起きます。

宮古島から沖縄本島への税を運ぶ船が嵐に遭い、台湾に漂着したのです。
その時点で三人溺死してしまっており、残りの六十六人が助けを求めて台湾の村に迷い込んだところ、侵略者と勘違いされて五十四人が殺される……という凄まじい事件でした。

十二人は中国人に救助され帰国できたのですが、明治政府はこれに対する報復も兼ね、明治七年2月に台湾出兵を決めました。そして5月中に台湾へ「今後、日本人が漂着した際は害を加えないこと」を誓わせます。

これに対し、当時台湾を支配していた清(中国)から抗議がありました。最初のうちは折衝が行われたものの折り合いがつかず、イギリス公使の朝廷で日清互換条款が結ばれています。
この中で、「琉球は日本領であり、今回の出兵は自国民保護のために行ったこと」という認識が共有されました。琉球王国内でも日本領に入るか、清領の一部になるかでしばらく揉めるのですが。

その後、業を煮やした明治政府が琉球に軍を送って威圧したり、しばし対立が起きたのですが、最終的に琉球王国を廃止し、清への朝貢も辞めさせています。
この時点で清についてもいいことはなかったでしょうが、あまり気分が良くない経緯ですね。
ちなみに清側はこの経緯に納得しておらず、日清戦争まで尾を引いています。

 

地租改正とは?

まずは「租」という文字に着目しましょう。

祖先の「祖」ではありません。租庸調の「租」です。というとイメージしやすいでしょうか?
租庸調は、小学生の歴史でも古代史で必ず出て来る“税金”のことですね。

つまり地租改正とは「土地に関する税金の改正」となるわけです。

江戸幕府の収入が安定しなかった最大の原因は、米の収穫に依存していたことでした。
温暖な時代であればうまくいったかもしれませんが、地球的に寒い時代と被ってしまったという不運もあります。しばしば飢饉も起きていました。

これに対し、新政府では土地に税金をかけることにしました。
現代でもそうであるように、土地の価値は早々に変わることはありません。
よって政府の収入は安定するわけです。

もちろん地価に見合った収入を得られなければ、市民の生活も苦しくなるわけですが……これは現代も同じですね。

 

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農民から一揆が起こり税率を緩和

土地の価値を正確に知るため、明治政府による厳しい検査が行われました。

農民たちからすれば、税が上がりかねないことなので、一揆も招いています。想像以上に反発が大きく、改革の遅れに繋がることを危惧した政府も、当初はほんの少しだけ税率を下げることで収めました。

農民に対する融和策は思いつくのに、士族に対して同じことができなかったのは不思議なものですね。

いずれにせよ、これらの政策により明治政府の税収=財源は安定化していきます。

そして、日本は軍備や産業にお金と力を注ぐことができるようになっていったのでした。

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「版籍奉還」「廃藩置県」「琉球」「地租改正」

 

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