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鹿鳴館を描いた浮世絵/wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた

華族制度(公侯伯子男)はどうして生まれた? 意外な苦労や暮らしぶり

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明治四年に制定された「戸籍法」で、日本人は「みんな平等である」=「四民平等」ということになりました。

しかし、皆さんよくご存知のように、本当に身分制度がなくなったのはずっと後の話です。

明治時代は、大きく分けて華族・士族・平民となっており……今回は良くも悪くも特権を持っていた【華族】について見ていきましょう。

 

もともとは清華家の別称だった「華族」

華族は元来、公家の中の「清華家」と呼ばれる家々の別称でした。
これは、平安時代に栄華を誇った藤原氏の子孫である「摂家(五摂家)」の次にエライ家柄とされたもので、7家ありまして(後に9家※注1)。

そうした由緒正しい公家と、大政奉還廃藩置県の流れで(一応)特権階級の地位を離れることになった元大名たち=武家を合わせたのが明治~昭和前半の「華族」となります。

廃藩置県の後、「華族は東京に住むように」というお触れが出たため、公家と武家は一堂ならぬ一都に会することになりました。

地味な話ですが、おそらく日本史上初めてのことだったでしょう。
江戸時代まではほぼ「公家は京都」「武家は関東」というイメージが強く、お互いに協力し合うことも稀でした。幕末に和宮親子内親王が十四代将軍・徳川家茂に降嫁するときの話やら、降嫁した後の大奥でのアレコレやらがいい例ですね。

明治時代からは、互いの親睦を深めて協力する考えが強まり、中堅層の華族が「通款社」という団体を設立。
また、華族の中でも天皇の相談役である麝香間祗候(じゃこうのましこう)の座にあった人々が「華族会館」を作り、横のつながりを深めていきます。

通款社と華族会館は後々合流し、現在の霞会館になりました。
今でも旧華族の直系男子しか正会員になれないという、正真正銘のセレブリティたちです。
由来がそんな感じなので、今も皇室の行事に参加したり、日本の伝統文化や学問に関する活動を行っています。

というのも、華族会館は「皇室や国のための学問・討論のための機関」として作られたからです。これが学習院の基礎となり、華族同士の自治・統制機関ともなりました。
このうち統制については、明治十五年に宮内省の一部署として華族局ができたことにより、分離しています。

 

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江戸時代の領地や石高に比例

では、彼らの財産や収入はどのような扱いになったのでしょうか。

まず「華族の財産は江戸時代までの領地や石高の一部」とされ、元々財産の多い家はより豊かに、そうでもない家はそれなり……といったところでした。
当然のことながら徳川家や前田家などの大きな武家華族は、かなりの資産を持つ家が多かったようです。

公家華族は武家華族の1/10ぐらいというのも珍しくありません。
明治天皇も政府の中枢人物たちも、この点は密かに憂いていたようです。特に、岩倉具視は積極的に公家の経済状況改善に動いています。

「倉廩(そうりん)(み)ちて礼節を知る」という言葉があるように、まず経済基盤が整ってこそ、人の心は安らぐものですし、なにせ公家と武家の間には文化的な隔たりもありました。

そこで、明治九年(1876年)に「全華族の融和と団結」のため、武家と公家の区別なく、系図上の繋がり(血縁関係)によって「類」というまとまりで整理されることになります。

同じ「類」の華族同士は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つことで、団結していきました。
年に数回程度であっても、定期的に会っていれば、何となく親しみや協調性も出てくるものですよね。

さらに、明治十七年(1884年)には【華族令】が公布され、5つの爵位(公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵)や華族の立場、財産の処分などが明文化されました。
受験では「こう・こう・はく・し・だん(公侯伯子男)」で暗記する項目としておなじみですかね。

このときも、岩倉具視が特に公家華族の家政状況を憂いて、第十五国立銀行を設立したり、華族の共同出資で日本鉄道会社が発足したりしています。

 

「薩長土肥」が「勲功華族」として大量に登場

色々と制度が充実しても、生活が厳しい華族はおり、地方への移住を考える者もいたようです。

ただ、それでは「華族は東京で天皇の相談役及び学問に取り組むべし」とした政府の方針が達成できなくなってしまいます。
そこで明治十九年(1886年)に「華族世襲財産法」が制定され、華族は宮内大臣管理のもとに世襲財産を設定できるようになりました。

また、この法律でいわゆる「薩長土肥」出身者が「勲功華族」として大量に登場しています。

伊藤博文のように、「元の身分は低いけれども、明治維新の際に功績を上げたので、華族扱いにしましょう」という扱いを受けた人たちです。
これがまた公家華族や武家華族からすると煙たいというか、気の進まないものでした。

しかし、急激に身分が上がったことによって、経済的にキツくなった勲功華族も珍しくなかったので、どっこいどっこいというかなんというか。

さらに、明治二十二年の大日本帝国憲法制定によって、華族は皇族・勅選議員同様、貴族院議員としての政治的特権が確定します。
以降、華族は上院である貴族院を舞台とし、政治に関わっていくことになりました。

 

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爵位だけでなく進学や就職先も保証されていた

その他、華族の特権としては以下のようなものがあります。

・爵位の世襲
・有爵者の嫡出子は、成人時に従五位になる
・宮中席次の保有
・子弟の学習院入学

まとめると
「男性なら、華族の家に生まれて成人すれば爵位・官位を得られる上、進学先・就職先も限定的ではあるが保証される」
という感じですかね。

このほか「貴族院令の改正は貴族院の議決を経る」となっており、華族は制度的に自律自治の特権が保障されていました。
つまり、この時代の衆議院=民衆から選ばれた議員が「華族(もしくは貴族院議員)の人たちの◯◯を取りやめてほしい」と考えても、ほとんど口を出せる余地がなかったということになります。

現在の皇室典範が、他の法律と同じように国会で改正されるのとは異なっていますね。

これは後々まで尾を引き、大正時代からは「華族に特権ありすぎ!」という世論が高まりました。
そして華族制度そのものは昭和二十二年に施行された日本国憲法第十四条2項で「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と明記されるまで続いています。

その分、代々の天皇や世間から「国民の模範となるべき人々」として責任と義務も課せられていたのですけれどね。

 

セレブ扱いされた彼らにも、ときにスキャンダルもあり

華族はいわゆる「セレブ」扱いもされていて、華族の女性のグラビア写真が雑誌に掲載されたり、華族の生活が一般人のあこがれになったりしました。いつの時代も変わりませんねえ。

駆け落ちや心中などのスキャンダルもいくつか発生しています。
中にはミスコンで優勝して、学習院を放校されてしまった女性も……。

まぁ、華族の身分や特権目当てにどこぞの馬の骨が寄ってこないとも限りませんので、ある程度の制限や用心は必要なんでしょうけどね。

日本初のミスコン優勝者・末弘ヒロ子 学習院のお嬢さんが晴天の霹靂で退学に追い込まれる

この手のことについては、華族の女性たちがかなりの苦労をしていたようで。
こんな話があります。

学習院には女子部があり、これが途中で華族女学校になったり、また学習院に統合されたりといろいろあったものの、基本的な生徒の家柄は変わりませんでした。
当時は「学内では生徒を様付けで呼ぶ」というローカルルールがあったくらいですから、内部の空気がうかがえますね。

当然、武家華族の令嬢たちも学習院に多く通っていました。
そしてあるとき、新たに赴任してきた先生が、徳川家のとある女性を「徳川!」と呼び捨てにしたのだそうです。その女性は怒ることすら思いつかないほどに驚いて、ただ眼をぱちくりさせていたとか。
そうした「深窓の令嬢」が世間慣れしていくのは、大変なことだったでしょうね。

そんな感じで、やはり華族と一般人の視線は互いに異なるものでした。
学習院で体育の授業や体育祭が行われるようになった頃、「女子が屋外で運動をし、それを人に見せるなどはしたない」というような記事を書いた新聞もあったくらいです。

 

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戦争では看護婦に志願する女性も多かった

しかし、そうした「深窓の令嬢」も明治の前半までのこと。
男女問わず、だいたいの華族は自分の置かれた立場や、世間の目に対応していきました。
日清戦争日露戦争の際、自ら看護婦(※)に志願する華族女性も多かったといいます。

華族の男性はもちろん軍人として戦地に行くことになったので、
「父や兄弟、夫が危ないところにいくというのに、私だけ安全なところでのうのうとしているわけにはいきません」
「少しでも家族や好きな人の役に立ちたい」
と考える女性は多かったのだとか。
この辺は、なんとなく戦国時代や江戸時代の大名の妻などと同じような性質が感じられますね。

これは、クリミア戦争(1853~1856年)でフローレンス・ナイチンゲールが看護のやり方と看護婦のイメージを劇的に変えたことや、昭憲皇太后から赤十字へ毎年の下賜金を出していたことなども影響していました。

昭憲皇太后が通る 日本女性の服装を和から洋へチェンジさせた深窓の姫君

とはいえ、当時は「看護のためとはいえ、戦争に出ているような若い男と妙齢の女が身近に接するのはよくない」と思われ、「できるだけ年を取っていて、不美人な者」しか直接看護はできなかったといいます。
皇族や華族のトップクラスの女性たちが監督したこともあり、その手の不祥事は起きなかったようですが。

日清戦争後には、看護の功績を称えて、十人の看護婦が叙勲を受けました。これにより、看護婦はより一層「憧れの職業」というイメージが強まり、それまでまさに「奥様」だった女性たちにも「私達も、国や家族のために働くことができる」という希望を持たせることになります。
女性の叙勲には反対意見もあったようですが、少しずつ高貴な女性の社会参画が進んできた一例といえるでしょう。

(※)現在は男女関係なく「看護師」ですが、当時の「看護婦」表現にしています。

 

明治時代から神式=土葬に切り替わりお墓事情が大変に

何らかの理由で京都へ戻ったり、東京での移住を拒んだ華族もわずかにいました。

内訳は、主に公家華族や僧家華族です。
後者の場合はそもそも家=寺社=職場であることが多いので、放りっぱなしにしておくことはそもそもしにくいですよね。

公家華族の場合は、「病気療養のため東京への移住を延期してほしい」と願い出る者もいました。
逆に、一度東京に移り住んでから体調が悪くなり、住み慣れた京都周辺での療養を望むケースもあったようです。
文字通り「水が合わなかった」のでしょうか。

他に「父の看病をしたいけれど、京都と東京を行き来する生活は経済的にキツイ」など、もっともな理由がほとんど。
特に自身や家族の病気については、「もしも回復しなかった場合、先祖と同じ場所に葬ってほしい」との希望で……ということもありました。

東京に移り住んだ後、「自分の死後は東京の寺院に」と遺言した者もいます。
実は、これまた経済的な理由が絡んでいました。

江戸時代までは皇室も仏式=火葬を執り行っていましたが、明治時代から神式=土葬に切り替わっています。

そのため、東京に移った公家家族が東京で亡くなった場合、皇室に倣うとすれば土葬にするのが望ましいということになりますよね。
しかし、「死後は先祖と同じ土地に」と希望していたとしたら、当時の技術かつ鉄道が発展していない状況で、東京で亡くなった人を京都での土葬のために移動させるのはとんでもないお金がかかるわけです。
これによって、東京での葬儀を選ぶことになった者も多いでしょう。

現代の我々が「貴族」というと、いかにも苦労知らずで贅沢三昧だったかのように思ってしまいますが、彼らにも時代の変遷によるさまざまな苦労や心痛があったんですね。

長月 七紀・記

※1 清華家とは?
七清華
・村上源氏久我(こが)家、
・藤原氏閑院流の三条家・西園寺家・徳大寺
・摂家から分かれた花山院(かざんいん)家・大炊御門(おおいみかど)
・西園寺の分家である今出川(いまでがわ)
後に以下の2家が追加
・源氏の広幡(ひろはた)
・摂家の分家である醍醐

【TOP画像】鹿鳴館/wikipediaより引用




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参考:国史大辞典「華族制度」「華族令」「清華家」

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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