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源平 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

源義親の乱とは? 実質的な【平氏の台頭】を招いた暴れん坊源氏の所業

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血の繋がりというものは、思わぬところで表に出てくるものです。
ある程度の歳をとってから顔や声が親と似てきたり、ちょっとした癖がそのまんまだったり……。

歴史においても、それらしき例は多々ありまして。
家や血縁という、もっと大きなくくりで見ていくとそれは顕著です。

とりわけ「また物騒な事件か!」とツッコミたくなるのが清和源氏の面々。

例えば、鎌倉幕府の開祖である源頼朝の長子・頼家と次子・実朝は、いずれも母の実家である北条氏がらみで殺されてしまいました。
また、清和源氏の内輪揉めによって殺されてしまった人も多々います。

しかもその数が多すぎて
「この人どの時代の人だっけ? 他にも似たような事件あったよね?」
といった混同が起きるほどです。

今回の主役である【源義親の乱】もその一つ。
悪対馬守と呼ばれた源義親(不明-1108年没)の場合はもう一つ、大きな特徴がありました。

義親がこの世から退場するのと入れ替わりに、後に平清盛が生まれる伊勢平氏が台頭するのです。

普通、歴史の授業で平氏の台頭と言えば【保元の乱】や【平治の乱】からの~!という認識になろうかと思いますが、実質的には、この源義親の乱が与えた影響からと考えた方が自然です。

もちろん受験生の方は、テストでは求められる解答をお答えしてください。
あくまで、流れを把握するには、源義親さんという存在を認識していたほうがわかりやすいでしょう、ということです。

前置きが長くなりました。
時系列順に話を追っていきましょう。

 

頼朝や義家の曾祖父チャンです

源義親は、源義家の次男です。
源氏の正統なる一族で、ざっと親子関係の系図を確認しておきましょう。

【清和天皇】

第六皇子・貞純親王

経基王(源経基)初代

源満仲(安和の変)

源頼信(道長四天王)

源頼義(前九年の役

源義家(後三年の役主人公の父ちゃん

源義親(悪対馬守)今日の主人公

源為義(保元の乱)

源義朝(平治の乱)

源頼朝・範頼・義経

頼朝や義経兄弟から見て、曾祖父チャンになりますね。

義親の父である源義家は、前九年の役・後三年の役で勝利を収め、清和源氏が関東の豪族たちに支持されるきっかけを作った人として有名です。
※前九年と後三年は別の記事にマトメておりますので、記事末のリンクを合わせてご一読いただければm(_ _)m

源義家(菊池容斎)/wikipediaより引用

後三年の役は朝廷から見ると「義家が勝手にやった戦」でした。
義家の武力や統率力は認められたものの、ときの治天の君・白河法皇からすると鬱陶しい新興勢力と映ったのです。

院政の記事でも触れましたが、そもそも白河法皇は藤原摂関家の影響を断ち切るために、院政という政治形態を確立させました。
もしもここで義家ら清和源氏が、武力と功績に加えて政治力までつけてしまったら、第二の摂関家になりかねません。

白河法皇としては、何が何でも避けたい事態です。

その後のことを知っている我々現代人からすると
「結局、鎌倉幕府ができるんだから同じじゃね?」
とも思えてしまいますが、当時としては未来の話ですからね。

 

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いつの頃からかグレ始め……

そんなわけで、この時点での清和源氏は、たとえ官位官職位階)をもらえたとしても、遠隔地の受領がせいぜいでした。
受領とは、現地へ赴任する国司(行政責任者)であり、下級貴族に与えられるような官職です。

官職と二官八省がバッチリわかる! 日本史が3倍ぐらい楽しくなる官位の仕組み

父・義家は、功績と勝手な行動を相殺されて“前(さきの)”陸奥守のままでした。
義親は対馬守といったように、中央政府とは遠いところに赴任させられています。

そうした背景や状況のためなのか、それとももっと直接のきっかけがあったのか……詳しい経緯は不明ですが、義親はいつの頃からかグレてしまいます。

いったい何したんや?
と思われるかもしれませんが、それが文字通り、対馬守在任中に一般庶民をブッコロしたり、税を横領したり、山賊のようなことをやったといわれています。
成り行きは不明ながら、大宰府のナンバー2である大宰大弐(だざいのだいに)・大江匡房(おおえ の まさふさ)が陳情を行っているので、濡れ衣やデッチ上げでもなさそうです。

そこで朝廷は、まず義家の部下で義親の顔なじみでもある豊後権守・藤原資道を説得に向かわせました。
が、彼は見事に「ミイラ取りがミイラに」なってしまい、義親の味方に与してしまいます。おいおい。

 

「流罪に決定!」「んなもん知らんがな」

『こりゃ穏便な解決は無理じゃないか?』
そう悟った朝廷は、義親を隠岐島への流罪に決めました。

が、実際には行かなかったようで、数年後に義親が出雲で殺人や強奪をしていたことが記録されています。
そりゃあ、とっ捕まえてもいないのに流罪にしようとしたってムリがありますよね。

ついでに、ほぼ同じ時期に義家の四男・源義国vs義家の弟・源義光(よしみつ)との間で「常陸合戦」と呼ばれる別の内輪揉めが繰り広げてられます。

息子と弟がガチの戦争を始めて、涙目どころではないのが源義家。
彼は67歳という老齢に、激しい精神的ダメージを受け、間もなく亡くなってしまいます。
嗚呼、親不孝モンが(´・ω・`)

義家の長男・義宗は幼くして亡くなっていたため、源氏の頭領・義家の跡を継ぐとしたら、義親が順当……なわけですが、上記のように地方で暴れまわっている状況ではそうもいきません。

また、三男・義忠はこの時期に何をしていたのかよくわかっていない(=大して重んじられていなかった)ようです。

 

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伊勢平氏の平正盛に白羽の矢が立つ

そうこうしているうちに、白羽の矢が立ったのが伊勢平氏の平正盛でした。
彼は朝廷から義親追討を命じられます。

もはや「源氏同士にまかせていてもラチが明かん。別の家に任せよう」という理由だったのかもしれません。

一方、正盛からすれば千載一遇のチャンスです。

伊勢平氏は元々常陸平氏(更に遡れば桓武平氏)の流れを汲む家柄でしたが、関東で河内源氏が勢力を伸ばしてから「あんなヤツらの傘下に収まるなんて勘弁!」(超訳)として伊勢に移ったという経緯があります。
その後、白河法皇の皇女の供養のために領地を献じるなど、地道な努力を続けていました。

ここで武士の筆頭だった河内源氏の混乱を収めることができれば、伊勢平氏がその立場に取って代わることも不可能ではないわけで。
正盛はかなり気合いを入れて事に当たったと思われます。

平家物語の異本「源平盛衰記」によれば、
「正盛は京都から出陣する際、義親の屋敷に向かって三度鬨の声を上げ、三度、矢を放って出発した」
とか。

超ザックリ言いますと「義親絶対殺すマン」みたいな感じですかねぇ。

 

義親の首が晒され、河内源氏はお通夜状態に……

半月ほどで正盛軍は出雲へ到着。
さらにそこから半月程度で義親と側近五人の首を挙げ、乱を治めた……といわれています。

出雲という場所、そして正盛の身分のためか、戦闘の詳細な記録は残っていません。

白河法皇は正盛からの知らせを受け取ると大いに喜び、帰還の前に官位を引き上げるという異例の論功行賞を行いました。
正盛軍が入京したときも、京都市民と白河法皇のテンションはダダ上がりだったとか。
義親の首は七条河原で晒されました。

白河天皇/wikipediaより引用

その陰で、文字通りお通夜状態だったのが河内源氏です。

身内でバカみたいな騒動を起こしたばかりか、他所の家にようやく治めてもらったわけですから。
しかも、かつては傘下に近い立場だった平氏の一族に、です。

現代より遥かにメンツや誇りというものの価値が高かった時代のこと。
一族全員が憤死してもおかしくないレベルだったでしょう。

 

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源氏はワシのもんや!と立ち上がる義光

しかし、ここでタダで終わらないのが新たに河内源氏の棟梁となった義忠。
彼は幸いにも処世術に長けた人でした。

正盛の娘を妻にもらったり、義弟にあたる次期伊勢平氏当主の烏帽子親となって「忠盛」と名乗らせたりして、両家の仲を親密にしようと務めたのです。
忠盛は清盛の父ですので、やはり後年のことを知っていると、何とも皮肉に思えてきますが……。

また、義家の遺志により、義忠は義親の長男・為義を養子として、将来家督を譲ることを約束しました。

全方向を丸く収めるべく努力を重ねた義忠でしたが、案の定それが気に食わない人物が身内の中から現れます。
上のほうでも出てきた、義家の弟(義忠の叔父)である源義光です。

この義光、後に武田信玄の武田氏や、関東の佐竹氏、東北の南部氏など、各地で興った名門武家の祖でありまして。

義光は次兄・義綱の刀を使って義忠をブッコロさせるという、どこぞの推理小説のようなトリックを使って、河内源氏の棟梁の座をもぎ取ろうとした……といわれています。

 

真犯人だったとバレて京都を追われ

まるでマンガみたいな義光のストーリー、やっぱり上手くいきません。

結局は義綱が京を離れて近江国甲賀に立てこもり、それを為義が追討。
その後に義光が真犯人であることがバレ、やはり京を追われています。彼の最期についてはハッキリしていません。

ついでに「正盛って誰? そんなヤツが源氏の戦上手を討ち取ったとか怪しくない?」と思う人々も多く、その後、数十年に渡って義親の偽者が続出しました。

伊勢平氏はその後も海賊の討伐などによって、西国に勢力を伸ばしていきました。
名門のイメージと威厳・官位を取り戻したい河内源氏と、新興勢力に近く昇進し続けたい伊勢平氏。

やがて両武家は、皇室や公家によって保元の乱に巻き込まれ、歴史を動かしていくことになります。

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長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「源義親」 源義親/wikipedia 源義親の乱/wikipedia

 



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