木曽義仲/wikipediaより引用

源平 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

源義仲(木曽義仲)31年の生涯マトメ!後白河と頼朝の政治力に翻弄された挙兵劇だった

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内輪揉めやら、暴れん坊やら。
何かとツッコミどころの多い源氏の面々。

その最たる人物を決めるとしたら
・源義経
源義仲(木曽義仲)
のどちらかではないでしょうか。

なんて申し上げますと義経ファンの皆様に怒られそうですが、ともかく平家討伐の功労者でありながら非業の最期を迎えてしまった義経に対し、義仲もまた実に激しく、しかもなんだか不器用で、同時に雑な判断で自爆同然に滅んでいきます。

その生涯、順に追ってみましょう。

 

武蔵で生まれ、木曽で育つ

義仲は久寿元年(1154年)、源義賢の息子として生まれました。

父・義賢は源義朝のすぐ下の弟で、母は遊女だったといいます。
このころ義賢は、武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)を拠点としており、義仲もここで生まれたと考えられています。

義経同様、義仲の幼少期についての詳細は今のところ不明です。

一般的には、「義賢が、義朝の長男・義平に関東で討たれた際、まだ2歳だった義仲を殺すことにためらった武将が、義仲の乳母の夫・中原兼遠(なかはらのかねとお)の元に送り届けた。その後は信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)で育った」とされていますね。

そのため通称が
「木曾義仲」

「木曾冠者」などになるんですね。
若い頃には「木曾次郎」と名乗ったこともありました。

異説もあります。

「義仲が育ったのは東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)である」
というものや、
「諏訪大社の下社の宮司・金刺盛澄に預けられて修行していた」
というものです。

中原家と金刺家は、挙兵当初から義仲に従っていたので、後者の説には信憑性もありますね。
どちらかが嘘というわけではなく、一時期、義仲が諏訪大社へ修行に行っていたことがあって、縁ができたのかもしれません。

この辺は新史料の発見を期待したいところでしょう。

なお、義仲には異母兄の源仲家がいます。

が、仲家は以仁王に従軍し、宇治で討ち死にしていましたので、一度も会ったことがなく、お互いの存在すら知らなかったかもしれません。
武士のならいとはいえ、何とも哀しい話ですね。

 

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以仁王の令旨に従い挙兵

そんなこんなで都から遠い地で育った義仲。

治承四年(1180年)、叔父・源行家によって以仁王(後白河天皇の第三皇子)の令旨が伝えられたことで挙兵します。

後白河天皇の第三皇子・以仁王/Wikipediaより引用

義仲は、信濃の武士に令旨を伝えて兵を集め、まずは市原合戦にて信濃北部の源氏サイドの勢力を救援、かつて父・義賢が基盤としていた上野に向いました。

しかし、既に関東では頼朝が勢力を伸ばしていたところ。
無用な衝突を避けて信濃に戻っています。
この時点ではそういう発想もあったんですね……。

翌養和元年(1181年)6月、義仲は木曾衆・佐久衆・上州衆など3000騎を集められるほどに。
信濃や越前などで連戦連勝し、その名は上方にも聞こえていたようです。

なぜかというと、この翌年である寿永元年(1182年)に、以仁王の遺児・北陸宮が北陸に逃れ、義仲の庇護を受けるようになっていたからです。
まぁ、名前が知られていなければ、皇族に頼られることもないはずですしね。

 

平家からも頼朝からも睨まれて

義仲が意識したのか、それとも自然の流れか。
以仁王の遺児を引き受け、世間にその名が広まることは、同時に新たな敵を産むことに繋がります。

というのも、彼の行為は「以仁王殿下のご遺志を継ぎます」と宣言したと捉えられても仕方のない状況。
いかに皇室の血を引く源氏とはいえ、地方育ちの義仲によるこの行動は、平家と源頼朝の両方を強く刺激することに繋がってしまいます。

平家は、以仁王と敵対していたので当たり前のことです。
では、なぜ同族の頼朝まで鼻息荒くなってしまうのか?

実は、頼朝と敵対して敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた源行家という二人の親族が、義仲の下に身を寄せていたのです。

もともと各地で源氏蜂起を促した源行家/wikipediaより引用

頼朝としては「平家を倒すためには、源氏一族の統率が不可欠。そのためには、肉親であっても厳密に接していかねばならない」という行動原理で動いています。
情に流されたようにも見える義仲の行動は解せませんし、許せません。

結果、義仲は平家からも頼朝からも敵とみなされ、二方向から攻められることになってしまうのです。

 

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嫡子・義高を頼朝の長女・大姫に差し出す

さすがに「これはマズイ!」と気付いた義仲。
まずは同族・頼朝との和解に動きます。

嫡子・源義高を頼朝の長女・大姫の婿にするという名目で鎌倉に送ったのです。
事実上の人質です。

源義高/Wikipediaより引用

もっとも、大姫がその後、義高を偲んで生涯結婚を拒んだことを考えると、当人同士の仲は決して悪くなかったのでしょう。

とりあえず頼朝との関係を改善した義仲は、倶利伽羅峠の戦いなどで平家軍に対して勝利を収めて上方へ向かいます。
また、道中でその武力を盾にし、比叡山延暦寺へ協力を求めました。
北陸方面から京都へ入ろうとすれば、延暦寺の横を通ることになりますので。

このとき義仲が延暦寺に送った手紙がなかなかオラついておりまして。

「もしも平氏に味方するなら、俺達はお前らと戦をすることになる。その場合、延暦寺はあっという間に滅亡するだろう」(意訳)

どう見てもヤンキーです、本当にありがとうございました。

この交渉(脅迫)は無事成功し、義仲は叔父・行家とともに入京。
この時点では、多少の内輪揉めや言動の物騒さ以外に問題はなかった……ともいえますが、この後からだんだんきな臭くなってきます。

 

頼朝の上洛を促し、義仲に対抗させようとする後白河

平家は、「やっべ源氏の軍がいっぱい来た」(超訳)ということで都に留まることを諦め、安徳天皇とその異母弟・守貞親王(皇太子候補)を連れて西国へ逃げました。

最終的には負けてしまいますが、一族内での統率については、源氏よりも平家のほうが断然上ですね。

実は彼ら、後白河法皇も連れて行くつもりだったようです。
が、平治の乱のときから逃げることに慣れている後白河法皇は、このときも比叡山に逃げていて実現しませんでした。

安徳天皇と守貞親王も連れて行ってやれよ……。
とツッコミたくなりますが、御所が違ったので間に合わなかったのでしょう。たぶん。

源氏に連なる他の軍も京の近辺に来ており、義仲は後白河法皇から平家追討・洛中警護の院宣を受け、源氏軍の代表者のような立場になります。

さらに、後白河法皇は義仲を伊予守に任じて、正式に朝臣と認めます。
が、同時に義仲が源氏の代表格になってしまうことを防ごうともしました。

そもそも「権力を外部に奪われないように」という目的で始まったのが院政です。
既に平家の台頭により失敗していましたが、義仲を始めとした源氏が、新たにその立場にならないように動きたかったのでしょう。

後白河法皇は頼朝の上洛を促し、義仲に対抗させようとしました。

後に源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用

 

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煽られずとも頼朝との対立は避けられなかった!?

実は、後白河法皇が煽らなくても、義仲と頼朝はすでに対立構図が生まれ始めていました。

義仲配下の兵が京都で乱暴な振る舞いをしていたこと。
義仲が、安徳天皇の次に以仁王の皇子・北陸宮を推したことなどが主な理由です。

前者については、義仲の軍は悪くいえば“寄せ集め”で、統率しきれていなかったのが最大の原因でした。
しかもこの時期、京都周辺は飢饉の直後。
元々住んでいる人たちですら食料に困っていたのに、源氏の大軍が来たおかげでさらに足りなくなってしまうという始末です。

しかもその辺について指摘されると再びオラついてしまうのです。

「武士には馬が必要不可欠なのだから、飼葉がなければ現地調達するのは当たり前。
それと同じように、食料を徴発するのも至極当然のこと。
大臣や皇族の屋敷に押し入ったわけではないのだから、ゴタゴタ抜かすな」(意訳)

アチャー(ノ∀`)

北陸宮を推したことについては、当初から無理がありました。

・北陸宮は“王”の息子にすぎず、元々皇位とは遠い立ち位置
・この時点で義仲に庇護されていた
・高倉上皇の皇子という、もっと皇位に近い人が複数いた(そのうちの一人が後の後鳥羽天皇)

というわけで皇族や公家たちからも「何言ってんだこいつ」(超訳)状態で、反感を買っていたのです。

なんせ無理に擁立しようとしているのがあからさまで、
「俺が朝廷でウハウハするために、この人を次の天皇にしたいです!」(超訳)
と言っているも同然ですしね。




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これらは全て、義仲に政治感覚が欠如していたことによるものだと思われます。
まあ、ずっと政治とは縁のないところで育っていたわけですし、その辺を教える人もいなかったでしょう。義仲自身よりも後々のことを考えていなかった父・義賢が悪いかもしれません。
それ言ったら、代々身内で争ってる源氏全体がアレですが。
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