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吉田兼好(卜部兼好)/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

徒然草と吉田兼好(卜部兼好)は現代なら炎上寸前!? 鎌倉室町の生々しい話がてんこ盛り!

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鎌倉時代の代表文学といえば『方丈記』と『徒然草』です。

方丈記』についてはリンク先の過去記事をご覧いただくとして、今回は『徒然草』とその著者・吉田兼好(よしだ けんこう)についてみていきましょう。

本名は卜部兼好(うらべ かねよし)ですが、ここではより一般的な吉田兼好で進めますね。

ともかくこの方、作風だけでなく御本人も色々と悩ましい人物でして。

実は、
「兼好が徒然草の作者である」
ことを決定づける記録が存在しなかったりします。

さらに「吉田」という姓は、室町時代に卜部家の人が名乗り始めたものであり、鎌倉時代の兼好に使用するのは不自然である――というのが学者先生方の見解のようで。
当時使っていた「卜部兼好」か「兼好法師」と書くのが間違いない……とまぁ、扱いにくいですよね。

ただ、国史大辞典やウィキペディアでは「吉田兼好」と表記されており、検索結果もそちらの方が多いため、本稿でも合わせて表記させていただきます。

今後、変化があるようでしたら、それに対応させていただきます。

 

もとは神祇官の役人だった

もともと卜部家は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)という祝詞(のりと)の神様の子孫とされ、代々神祇官の役人として朝廷に仕えていた家柄です。

吉田兼好もその一員として役人となりました。
その中で和歌を学び、多くの貴族と付き合い、甘酸っぱいロマンスも経験しながら、いつしか世を疎ましく思って出家し、隠棲して徒然草を書いた――というのが、これまでの定説です。

最近では
「兼好は、金沢流北条氏(二代執権・北条義時の五男・実泰の子孫)の家臣の卜部家出身ではないか」
という説も出てきています。

卜部姓の人が京都以外にもいたこと。
兼好自身が、金沢流北条氏の一人である北条貞顕と親しくしていた時期があること。
これらの話が主な根拠です。

そんなわけで、今のところ兼好の生涯をたどることは難しくなってきています。
これでもし「徒然草の作者が別人でした!」なんてことになったら、教科書が書き換わりますね。

どちらかというと、兼好より徒然草の方が興味深いというかオモシロですので、以降は、その成り立ちや内容を少し詳しく見ていきましょう。

 

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生まれは2度目の元寇のころ

兼好の生没年は不明です。
正和二年(1313年)には出家していたと考えられているので、若くてもこの頃20代後半くらいでしょうか。

そして少なくとも正平七年=観応三年(1352年)までは生きていたようなので、寿命からするとおそらく1280~1290年代生まれだと思われます。
時代区分でいえば鎌倉時代の終盤~室町時代の初期の人ということになりますね。

もうちょっと歴史的な出来事と絡めてみると、二度目の元寇(弘安の役)が終わった辺りに生まれ、鎌倉幕府の滅亡と室町幕府の成立を挟んで、おそらく観応の擾乱のケリがつくあたりまでは生きていた……という感じです。

蒙古襲来絵詞/Wikipediaより引用

徒然草を書き始めたのは、元応元年(1319年)のことでした。
この頃、兼好は既に出家しており、現在の京都市山科区に移り住んで、静かな暮らしを送っていたようです。

最初に書いたのは第三十二段までで、ここから第三十三段以降を書き始めるまでに11年ほどのブランクがあります。

その間、何をしていたのか?
というと、当時の兼好は歌人としての名声が高かったので、
「続千載和歌集」
「続後拾遺和歌集」
といった勅撰和歌集に選ばれたりしていました。

意外かもしれませんね。

 

徒然草を積極的に広めようとしていない!?

また、二度も関東に下り、鎌倉や金沢(現・横浜市金沢区)に住んでいた時期があります。

ここでも金沢流北条氏との関連がみられ、さらにその所領の関連文書に名前が出てくる倉栖兼雄という人が、兼好の兄弟ではないかと考えられるため、「兼好は武士出身」という説の説得力が増すわけです。

その後、いつ頃京都に戻ってきたのかは不明です。

が、元徳二年(1330年)から翌年にかけて、『徒然草』第三十三段以降を執筆し、建武三年(1336年)頃に編集・加筆作業を行ったようです。

これだけ時間をかけて、しかも自分の手で編集作業をしていたということは、人に見せるつもりがあったということになる――と思うのですが。
その後の兼好は歌人としての活動が多く、『徒然草』を積極的に世へ広めようとはしていませんでした。

そのため『徒然草』は、兼好の時代から百年ほど埋もれたままになっていました。

ただ、文章が上手いこともある程度は知られていたようです。
足利幕府のナンバー2・高師直が、とある他人の妻に横恋慕したとき、兼好の筆力を聞きつけてラブレターの代筆を頼んだことがあるとか……。

この話は太平記に出てくるもので、江戸時代以降好まれて世に広まりました。
やはり真偽は不明ですが、兼好が文筆家としても世に知られていた証左といえるでしょう。

元は足利尊氏の肖像とされ、近年では「高師直だ」という説が根強くなった一枚/Wikipediaより引用

 

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ネタは公家・武家・僧侶と幅広く

その後、『徒然草』は室町時代から僧侶たちの間で密かなブームになり、江戸時代に出版されて世に知られるようになったとされています。
庶民にもわかりやすい話が多いので、一気に広まったのでしょう。

また、他の本に見られない人物の逸話が多いことも本書の特徴です。
しかも、公家・武家・僧侶といった幅広い人物が登場するのですから余計に面白い。

現代で言えば、著名人のTwitterやブログ、あるいは少し古くて週刊誌連載みたいな感じでしょうか。

中には兼好の時代からはるか昔のことや、人ヅテに聞いた話、兼好が「誤記or勘違いをしていた」と思われる点も含まれますが……それを差し引いても、当時の人々のリアルな生活がうかがえる文章です。

全てをここに載せるのも長くなりすぎますので、登場人物の一口プロフィールとともに、それぞれの段を簡単にご紹介しましょう。
だいたい時代順です。

 

公家

西園寺実兼

内大臣、関東申次などの経験者
徒然草の時系列では出家後のため「北山入道」と描かれている
後述する西園寺実衡の祖父
第一一八段 実兼が宮中の人材不足を嘆く話
第二三一段 イヤミのない気の利かせ方について実兼が語った話を聞き、兼好が同意している

日野資朝

後醍醐天皇の側近
元弘の乱の責任を問われて処刑される
第一五二段 腰が曲がった老僧を「尊い方だ」と評した内大臣・西園寺実衡に、資朝がイヤミを言う話
第一五三段 資朝の後半生と性格を簡略して記している
第一五四段 資朝が身体障害者と盆栽を重ね合わせ、どちらも取るに足らないと嫌悪する話

久我通基(こが みちもと)

村上源氏久我家の人
源氏長者
第一九五段 歳を取って認知症らしき状態になってしまった通基が、奇妙なことをしている姿が描かれている
第一九六段 神前での作法について、通基の頭がしっかりしていた頃の見識の深さがうかがえる話

 

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武家

松下禅尼

安達景盛(御家人)の娘
北条時氏の正室で四代執権・北条経時と、五代執権・時頼の母
第一八四段 松下禅尼が自ら障子の張り替えをし、節倹の心得を家族に示す話

安達泰盛

御家人
八代執権・北条時宗の外祖父
霜月騒動で滅ぼされる
第一八五段 泰盛が乗馬の達人であり、馬の仕草から性格を分析していたという逸話

北条時頼

鎌倉幕府第五代執権
第二一五段 時頼が質素を尊び、細かいことにこだわらない性格だったことを示す逸話
第二一六段 足利頼氏(尊氏の曽祖父)の家を訪れたとき、時頼が染め物を所望した話

北条時頼/wikipediaより引用

 

僧侶など

西行

いわずとしれた漂泊の僧侶歌人
第一〇段 家に関する美学を兼好が述べた後、かつて西行が後徳大寺左大臣(徳大寺実定)の家で苦言を呈した逸話を紹介している。兼好のやや後徳大寺左大臣寄りの感想を添えている

法然

浄土宗の開祖
第三九段 ある人が念仏について法然に相談したときの逸話

盛親(じょうしん)

フリーダムな芋好きの僧侶
第六〇段 盛親はどんなときでも芋を食べてなんとかしてしまうし、ふるまいも傍若無人だが、それが許されるのは徳が高いからなのだろう……と兼好が推測している

頓阿(とんな)

勅撰和歌集「新拾遺和歌集」の選者、西行のファン
第八二段 「不完全の美」を頓阿が説く話

具覚房(ぐかくぼう)

宇治に住んでいた風雅な僧侶
第八七段 具覚房が酔った下男に逆恨みされ、足に障害を抱えてしまった話。兼好は「こういうことがあるから、使用人に酒を飲ませる時は注意しなければならない」としている

明恵(みょうえ)

華厳宗(華厳経というお経を重んじる宗派)の中興の祖
第一四四段 明恵がちょっとした聞き間違いから感涙する話。ツッコミ不在の恐怖

登蓮法師

詳細不明
第一八八段 人生は短いので、「そのうち」と思わずにすぐやることが大事、という兼好の持論と、同じ意見を持っていた人として登蓮法師が出てくる

有宗入道(ありむねにゅうどう)

陰陽師・安倍有宗とされる
兼好と同時代の人
第二二四段 兼好の家に有宗が訪ねてきたとき、「庭広すぎじゃね? 小道を残して後は畑にしたほうが有意義だよ」と言われ、兼好もそれに納得したという話(実行したかどうかは不明)

行長入道(ゆきながにゅうどう)

藤原行長のこと 漢詩が得意だった
第二二六段 行長が出家した経緯の後、平家物語の作者になったとしている(行長の経験した官職が間違っているため、多分兼好の聞き違いか書き損じがあると思われる)

 

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日常が垣間見えたり、意外とマヌケだったり

他に、有名な「仁和寺なる法師」(第五十二段・宇多天皇開基の歴史ある寺院・仁和寺のとある僧侶が、意外と見識が狭かったという話)など、名前はなくても京都市中の話も多く載っています。
執筆当時の兼好が仁和寺の近くに住んでいたからだとされていますね。

江戸時代の庶民に人気が出たのは、公家や武家、僧侶といった「遠い世界の人」や、それに近い人々の日常が垣間見えたり、意外と間抜けなことをしていたり、という話が実録として載っているからでしょうか。

現代の我々が某日報を読んで面白がっているのと、感覚的には似たようなものかもしれません。

徒然草は現代語訳も多いですし、ネット上で解説・考察されている方もたくさんいらっしゃるので、古文の入門にはうってつけかと思います。
現代語の部分だけ読んでも良し、原文と交互に読んで古文の勉強を兼ねるも良し……。

日頃の生活、ビジネスの場においても色んな切り口で使えたりするかもしれませんよ。

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「吉田兼好」「徒然草」 吉田兼好/wikipedia 徒然草/wikipedia

 




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