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足利義勝坐像photo by 宇治主水 wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 鎌倉・室町時代 その日、歴史が動いた

足利義勝が9才で室町幕府・七代将軍に就任し、わずか10才で亡くなった理由は……

更新日:

権力の長に立つ為政者にとって、如何ともし難いのが寿命。
若くして命を落としてしまうと後継者選びで揉め、かといって長生きし過ぎても権力が二分化してこれまた争いの種になったりします。

では室町幕府七代将軍・足利義勝の場合は?

これがほとんど注目されることがないのですが、実に9才(数え)で将軍となり、そしてその翌年には任期8ヶ月にして亡くなってしまうという、悲運の将軍であります。

一体どんな人物だったのか。
短すぎるその生涯を追ってみましょう。

 

父の義教が妻の実家を嫌っていたから?

義勝は六代将軍・足利義教の長子。
生後間もなく政所執事、つまり有力家臣である伊勢貞国の屋敷に移され、そこで育ちました。

義勝と、更には八代将軍義政の母でもある日野重子は藤原北家日野流という名門ですから、母方に預けるのが自然なはずなのですが……。
足利義教が重子の兄・日野義資(よしすけ)を嫌っていたので、近づけたくなかったんですかね。

現代風に言うと「嫁本人はいいけど、嫁の実家は気に入らないから大事な息子を任せられん!」みたいな。

余談ですが、藤原氏はどの系統も非常に支流が多い一族です。
藤原北家だからといって、日野氏が藤原道長の子孫というわけではありません。もっと前に枝分かれしています。

有名どころでは、浄土真宗の祖・親鸞が日野氏の血を引いています。
さらに親鸞の末娘・覚信尼が日野広綱という人に嫁いだため、日野氏は本願寺との関係が深い家でもあります。

親鸞/wikipediaより引用

こういう繋がりが見えてくると、歴史って面白くなってくるんですよね。ややこしくもなりますけれど。

この頃の本願寺は決して大きな勢力ではありませんでしたが、義教は自分も僧侶(元は延暦寺で天台座主)だっただけに、息子が宗教からの悪影響を受けないようにした……というのも考えられそうです。
まあ、この辺はあくまで私見ですので、サラッと流して次に行きましょう。

 

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細川と伊勢に助けられ9才で将軍

そんなこんなで、家臣の家で育つことになった足利義勝。
預かり先の伊勢貞国については大きな功績が知られておらず、記録もさほど残っていません。

しかし、彼の兄・貞経が義教によって政所執事の座を追われていますので、少なくとも「貞国のほうが信用できる」とは思われていたでしょう。

こうして平穏に過ごしていたであろう日々が突如として終わり、重責を負うことになったのは、父・義教が【嘉吉の乱】によって、赤松満祐に殺されてしまったからでした。

数えわずか9歳にして将軍に……。

それでも嫡流の男子には変わりないため、家督と将軍の座を継ぐまでに、さして異論は上がらなかったようです。
こういうときは一致団結できるんだなぁ(ボソッ)。

むろん、この年齢では義勝が実務を行うのは不可能です。
管領・細川持之と伊勢貞国らが政務を行い、そのかたわらで義教の仇を討つため、赤松氏の領地である播磨へ討伐軍が差し向けられました。

討伐軍の中核にいたのが、後に【応仁の乱】でイヤというほど名前を見る山名宗全(持豊)です。

宗全と敵対した細川勝元は、このときまだ家督を継ぐ前なので関係していなかったと思われます。
実は宗全と勝元って、親子くらいの年の差がありますからね。

 

死因は赤痢が有力です

他には、義勝の生母である日野重子や、畠山持国などが権力を握りました。

義勝自身がやったこととしては、嘉吉三年(1443年)6月、弔問にやってきた朝鮮通信使との会見くらいでしょうか。
これも記録が乏しく、義勝が何を言ったかどうかはわからないのですが……。

江戸時代’(江戸城内)の朝鮮通信使/wikipediaより引用

そのまま義勝の健康が保たれていれば、もっと個性がわかるような逸話も残ったのでしょう。

しかし現実には、通信使との会見から一月程度。10才の若さで義勝は亡くなってしまいます。

死因はハッキリしておりませてん。
落馬や暗殺などの説も囁かれており、その中で最有力視されているのが赤痢による病死です。

赤痢菌は汚染された飲食物や患者の排泄物が主な感染経路ですから、この時期の室町幕府で集団感染していなさそうなのは気になりますけど。
まぁ、子供ですから体力的に厳しいものもあったでしょう。

こうして、室町幕府の将軍は、父の六代・足利義教(赤松に暗殺される)に続き、七代・義勝と、二代続けて不本意な形で代替わりせざるを得なくなります。

それゆえでしょうかね。
次の八代将軍・足利義政で応仁の乱が起こってしまうのは。銀閣(慈照寺銀閣)で有名な足利義政です。

彼もまた、将軍就任時は少年でした。

足利義政/Wikipediaより引用

 

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なかなか個性的な兄弟たち

最後に、義勝の兄弟を簡単に紹介しておきますね。
それぞれに深く関わる事件などがあるので、詳しくはまた改めますが、名前だけでも覚えておくと理解しやすさが変わってくるでしょう。

義勝らの父である義教は側室を数多く抱え、子女もたくさんいました。
しかし、夭折したり記録がない人がほとんどで、足跡がはっきりしているのは義勝の他には以下の三人のみです。

足利政知

初代堀越公方となった人です。
政知のほうが年上ですが「義政の弟」と表記されることがあります。

これは、政知の母が義勝・義政の母より身分が低かったからです。
当時よくあったことで、有名どころだと織田信雄と信孝もそうだといわれていますね。

そういう生い立ちなので、政知は幼少期からお寺に入って僧侶としての道を歩んでいました。
義勝が亡くなり、義政が将軍になってから「鎌倉公方やってよ」(意訳)と命じられて還俗しています。

本当は鎌倉公方になる予定で下向したのですが、【永享の乱】や【享徳の乱】など、関東での戦が相次いだため鎌倉に入れず、堀越(現・静岡県伊豆の国市)に留まることになりました。
とんだ貧乏くじです。
11代以降の将軍は全員彼の子孫なので、最終的な勝者ともいえます。

足利義政

前述の通り、八代将軍です。
最初は真面目に将軍をやっていましたが、あんまりにも何もかもがうまく行かなくてグレてしまい、趣味に没頭するようになった結果が【応仁の乱】に繋がります。
彼についてはまた次回。

足利義視

応仁の乱初期における東軍の旗頭です。
経過があまりにもややこしいために忘れられがちですが、応仁の乱という範囲では勝者といえないこともありません。

こうしてみると、義教の息子たちは全員が損な役回りをしていますね。
「親の因果が子に報い」というと、義教が少し可哀相な気もしますが、いやはや。

長月 七紀・記

【TOP画像】
足利義勝坐像photo by 宇治主水 wikipediaより引用




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【参考】
国史大辞典「足利義勝」
足利義勝/wikipedia

 



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