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足利義政/Wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

足利義政の切ない生涯56年マトメ 銀閣寺や応仁の乱以外にも注目の人柄は?

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南北朝問題の絡みもあって、最初から不穏な空気で始まった室町幕府。
八代将軍・足利義政の時代に、その混迷は極まります。

皆さんご存じ【応仁の乱】です。

今回は義政の生涯とともに、応仁の乱やその他のゴタゴタがどうして起きたのか、どのような経緯をたどったのか、全体を俯瞰して見てみましょう。

 

8才で家督&将軍職を継いだときにはもう……

義政は、六代将軍・足利義教の次男です。
七代将軍・足利義勝とは同じ母から生まれた弟でした。

義勝が無事成長していれば、柱石として兄の下で働くか、争いを避けるためにお寺に入れられるか、どちらかになっていたでしょう。
しかし義勝が10歳で亡くなってしまい、そうも言ってられなくなります。

八歳で家督を継ぎ、将軍職を継ぎ、親政を始めたのは享禄四年(=康正元年、1455年)ごろから。
それまでの間に、義政は完全に頭を押さえつけられた構図になってしまっていました。

「三魔」と呼ばれる三人の側近たちと、母・日野重子&正室・日野富子の実家である日野氏、その他有力な守護大名などが、こぞって義政の力を大きく削ぎにかかっていたのです。

三魔とは、以下の三人を指します。

 

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今参局(いままいりのつぼね)義政の乳母

今参局とは「新参の局(女性)」という意味で、あだ名のようなものです。
本名は不明ですが、父親は大館満冬という人でした。

大館氏は新田氏の流れをくみ、新田義貞にも仕えていたのですが、袂を分かって室町幕府の臣下となっています。

また、満冬の「満」の字は三代将軍・義満からの偏諱です。
元々将軍家に近い家柄だったのが、今参局が義政の乳母になったことでさらに力を得た、という捉え方で良いかと。

例えば、今参局は宝徳三年(1451年)に尾張守護代・織田敏広をクビにし、先代の守護代・織田郷広にすげ替えようとしたことがありました。この時点でよほどの勢力を持っていなければ、そもそもこんな事を思いつきもしないでしょう。

これはさすがに義政やその母である日野重子、管領の畠山持国・細川勝元・山名持豊らが大反対して実現していません。

応仁の乱のことを思うと、
「何だよ、お前ら一致団結できるんじゃん(´・ω・`)」
とツッコミたくなってしまいますね。むろん、この時点では未来の話ですが。

その後も、今参局の政治的立場は強かったようですが、同時に恨みも買っていました。
義政の正室・日野富子が長子を身ごもったとき死産になってしまい、それが「お今の呪詛のせいだ」と言われたのです。

当時の呪詛はただのオカルトではなくマジモンの犯罪でした。
おそらく「今参局が呪詛をかけさせた」という証拠はなかったと思われますが、「いかに今参局が日頃から恨まれていたか」がわかります。

そして琵琶湖の沖島に流されることになった……のですが、その護送中に今参局は近江蒲生郡甲良荘の仏寺で自害したといわれています。

その後、富子は今参局の残り香も許さず、義政の側室の中で今参局と親しかった人物を追い出したとか。
このため話が混同し、一昔前までは「義政の”側室の”今参局が富子と対立していた」と書かれることも珍しくありませんでした。

上記の通り、「今参局」自体は普通名詞なので、三魔のほうと側室のほう、二人の両方ともが同じ呼び名だった可能性は否定できないですね。

 

烏丸資任(からすまる すけとう)義政の母・重子の従弟

義政は長禄三年(1459年)まで資任の屋敷で生活していたので、彼が実質的な義政の後ろ盾になりました。

しかし、応仁元年(1467年)に出家し、乱を避けて自分の領地だった三河国伊良湖御厨(現・愛知県田原市)に下向。
文明十四年(1482年)に同地で亡くなったといわれています。

これでは、「幕政に口を出しまくって好き勝手やった挙げ句、自分は安全なところに逃げてそのままこの世からもおさらばした」ということになってしまいますね。
忠義心があれば、義政に帝王学を身に着けさせるなり、最後まで京に残るなりしていたはずですから。

とはいえ、地元ではそれなりに慕われていたようです。

彼のお墓がある霊山寺(愛知県田原市)付近には、「婦人病で悩んでいた女性が黒髪を供えて熱心にお参りしたところ、病気が治って無事結婚できた」という伝説があったとか。

資任のご利益なのか、ここの御本尊の霊験なのかはよくわかりませんが……。
島津歳久のように、自ら女性の味方となったような発言が記録されていれば信憑性が出るのですけれども。

 

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有馬元家~赤松氏の支流・有馬氏の有力者

当初は義政の寵臣でした。
が、次第に煙たい存在になっていったようです。

赤松氏は嘉吉の乱で義政の父・義教をブッコロしてしまっていますから、元家が直接関わっていなくても、ふとしたことでその印象が出てきてしまうというのはありえることですよね。

一時期、赤松氏絡みのトラブルで有馬郡の守護をやっていたこともありました。
応仁の乱の頃には足利義視に仕えていたが、義政の差し金で暗殺されています。

三魔の中で最後まで京都にいたのはこの人だけなので、義政が復讐しやすかったともとれますね。

 

若い頃は頑張っていたんです

こんな感じで、決して自由に動ける状況ではありませんでしたが、若い頃の義政は真面目に仕事をしようとしていました。
父・義教や祖父・義満のように、将軍の権威でもって世を安定させようと、采配を振るったこともあったのです。

例えば以下の通り。

・享徳の乱への介入

鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏vs関東管領上杉氏の争いです。

六代将軍・義教vs四代鎌倉公方・足利持氏の対立が巡り巡って、鎌倉公方vs関東管領の構図となり、関東を大混乱に陥れていきます。
これまた関係人物が多くてとてもややこしいので、詳しくは後日の記事で。

最終的に幕府軍が鎌倉を攻略し、成氏は古河に逃れて「古河公方」を名乗りました。

こうやって「○○公方」が関東に乱立し、秀吉が小田原を攻略するまでの約140年間、ゴタゴタが続くことになります。
ひどすぎて草も生えない。

・将軍の親裁権強化

政所執事・伊勢貞親を筆頭とし、政所・奉行衆・奉公衆(番衆)をまとめあげ、将軍自身の基盤を強めようとしました。

政所は、幕府の財政や領地に関する訴訟を扱うお役所です。
現代でいえば財務省と裁判所がくっついたような感じでしょうか。

奉行衆は将軍の実務をサポートする人たちで、書類作成や諮問などを行っていました。
将軍の親衛隊にもあたります。

どれも将軍のごく身近なところで仕事をする人たちであり、本来は幕府の中枢です。
なぜ、それまでマトまってなかったのか!?
とツッコミたくもなりますが、これは伊勢貞親が義政にとって育ての親にも等しく、また実務もデキて信用できる人だったからこそやれたことでした。
貞親が管領や守護大名たちに対抗できると信じられたからこそ、義政は近辺をしっかりまとめあげようとしたのでしょう。
後の時代には、奉行衆と奉公衆が大ゲンカしたりします。だからなんですぐ仲間割れするの?(´・ω・`)

これらの背後では山名宗全(持豊)と細川勝元の対立が始まっていました。
この辺は宗全・勝元それぞれの側から見たほうがわかりやすいので、詳しくは以下の記事をご覧ください。

山名宗全(山名持豊) 応仁の乱で西軍大将となった武人の器量とは?
細川勝元から見ると『応仁の乱』はわかりやすい! ベストセラーで話題の大戦をサックリ解説

細川勝元/Wikipediaより引用

 

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周囲のドタバタが徐々に増えていく

長禄三年(1459年)には、長年住み慣れた烏丸殿から父・義教が住んでいた室町殿(花の御所・義満が作った)へと引っ越しています。

これもイメージ戦略でしょうね。
残念ながら、状況と義政自身の言動によってぶち壊しになってしまいますが……。

他にも、畠山義就が勝手に「将軍の命令だ!」ということにして大和に兵を出すわ、越前では守護大名の斯波義敏とその家臣である甲斐常治が長禄合戦をおっぱじめ、結果的に共倒れ同然になるわで、義政の能力以前の問題もありました。

ものすごく俗な表現をすると、この頃の義政は

”歯科医院に行って
『痛かったら手を上げてくださいね^^』
と言われたので手を上げたら、
『ハーイ我慢してくださいねー』
とゴリ押しされた上に手を押さえつけられた”

みたいな感じだったのではないでしょうか。

応仁の乱の前年である文正元年(1466年)7月には、琉球国王の使者を義政の屋敷で謁見したという記録があります。

庭に席を設けてもてなしたそうで、旧暦7月=新暦8月の京都で屋外となると、結構ツライような。

義政の屋敷=室町御所は現在の京都御所の北西あたりだったのですが、ここは鴨川からも離れています。
木陰に席を設けたとか、涼しくする工夫は何かあった……と思いたいところです。

また、このとき琉球からの礼物が「進物」と呼ばれているあたり、琉球を下に見ていたことがわかります。
記録した人がそう思っていただけで、義政がどうだったかはわかりませんが。

 

弟を後継者に据えた、と思ったら!

さて、いよいよ応仁の乱が見えてきました。

この頃から義政は、既に政治への関心どころか将軍家の一員としての責任からも逃げたくなっていたようです。

息子がいなかったため、出家していた弟・足利義尋を無理やり還俗させて「足利義視」と名を改めさせ、後継者に据えてしまいます。

しかし、その翌年、富子が実子・義尚を産んでしまうからさぁ大変。

ここで義政が
「すぐ息子に継がせるのも無理だし、コイツが育ち上がるまで頼んだぞ弟よ!b」
とか言ってくれればよかったのですが、
逆に
「やっぱり息子に直接継がせたいなー……弟邪魔だなー……(チラッチラッ)」
みたいな態度を取ったせいで、話が急激にややこしくなってしまいます。

さらに管領の山名宗全(持豊)と細川勝元の対立が乗っかり、諸大名が絡んで京都がドッタンバッタン大騒ぎになるわけです。
もう二人で相撲か将棋でもやって決めればいいんじゃないですかね……。

この状況に対し、義政は「一抜けた」と言わんばかりにトンズラを始めるのです。

 

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もはや職務放棄で引退&銀閣寺の下準備

山名と細川の対立を仲裁もせず、トラブルはもうイヤ!

とばかりに職務放棄を始めた義政。
乱の真っ只中である文明五年(1473年)、息子の足利義尚へ将軍職を譲り、ご隠居様になってしまいます。

さらに十年後には京都・東山に山荘を作りました。トラブルを放置する気満々です。

京都の中心部が大炎上しているというのに、完全に逃げているわけでもなく、ギリギリ洛外になるかならないかのあたりを選んでいるところがまた絶妙なんすよね。

「僕は関係ないから戦火になんて巻き込まれないよ^^」
みたいな?

出家して銀閣(慈照寺銀閣)を作ったのはその後の話です。

ちなみに、息子の9代将軍・足利義尚のほうが陣中で先に亡くなってしまったので、義政もほんの僅かな間政務へ復帰します。
「僅か」だった理由は、その8ヶ月後に義政も病死してしまうからです。
享年56。

当時の寿命としては早くはありませんが、この経緯だと何だか
「嫌な仕事に復帰させられたせいで命が縮んだ」
ように見えてしまいますね……どんだけー。

 

功績は、一応2つ、ありまして

義政が行ったことの中で、功績と呼べるものは二つです。

一つは言わずもがな、【東山文化】です。

庭師の善阿弥、狩野派の絵師・狩野正信、土佐派の土佐光信、宗湛、能楽者の音阿弥など、義政がパトロンとなって活躍した芸術家はたくさんいました。
床の間に生花などを飾り、書院で茶を嗜む風習が生まれたのも、義政が好んだ様式からだとか。

また、義政が自ら猿楽を見に行ったため、能が発展するきっかけにもなったといわれています。

もう一つは、勘合貿易の復活です。

三代・義満が始め、四代・義持が中断し、六代・義教が再開したものの、七代・義勝がすぐに亡くなったせいで混乱が起き、義政が宝徳三年(1451年)に二度目の再開をさせていました。
ここから明との貿易は16世紀半ばまで続き、大陸からの文化伝達と財政が活発化しています。

足利義満/wikipediaより引用

もちろん、東山文化にも影響を与えているというか、義政はそのお金で芸術家のパトロンになれたというか……。
義政が真面目に将軍をやっていた頃は、室町幕府の運営費用になっていたようですけれども。

そんな有様なので、貿易の実権も細川氏や大内氏に奪われてしまい、結果として足利氏もビンボーになってしまいました。

貿易を通じて禅僧を招いたこともあったのですから、せめて政治に関する意見を求めるなり、貞観政要(※)の講義を頼むなり、いろいろとできることはあったはずなんですけどね。

応仁の乱を避けるためには、「義政が最後まで政務への情熱を失わないこと」がキーだったのかもしれません。
それはそれで無理ゲー臭がしますが……。

 

三節会

義政が亡くなったのが1月7日だったため、朝廷の新年行事の一つ・白馬の節会(あおうまのせちえ・魔除けになるとされていた白い馬を天皇の御前に引き出し、宴をする)が中止になりました。

さらに、翌年の同じ日に義政の弟・義視が亡くなり、二年連続で白馬の節会だけが行えなかったそうで……。
当時は呪詛が信じられていた時代ですから、魔除けにもそれ相応の重要性と意味があって大事なものでした。

ついでにいうと、白馬の節会を含めた正月の三つの行事を「三節会」といいます。

これらは応仁の乱で中断しており、この年になって久々に再開することになっていました。
寿命は操作できませんから、仕方のないこととはいえ、当時の公家たちは「最後の最後まで迷惑をかける兄弟だな(#^ω^)」という気分だったでしょうね。

ここから先の将軍はますます影が薄くなり、入れ替わるように戦国大名と愉快な武将たちの力と人気が高まる時代に入っていきます。

……が、その辺の記事はこのサイト中にもたくさんありますので、このシリーズでは次回からも歴史の流れや要所要所の戦を優先してお話して参ります。

長月 七紀・記

※貞観政要(じょうがんせいよう)…唐の太宗の政治に関する言行を記録した本で、帝王学の教科書として使われていた。
日本には平安時代に伝わっており、一条天皇や北条政子が講義を受けたことがある。徳川家康が熱心に研究したことでも有名。




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【参考】
国史大辞典「足利義政」
足利義政/Wikipedia

 




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