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足利義稙木像/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

足利義稙(室町幕府10代将軍)は京都を出たり入ったり 応仁の乱は一応鎮静化したけれど……

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応仁の乱】が起きてからの室町幕府は、教科書的にも扱いが悲惨です。

乱勃発後は、即、戦国時代へ突入!みたいなイメージで、八代将軍・足利義政以降のメンツは、とにかく影が薄いったらない。

せいぜいが
「松永久秀らにぶっ殺された足利義輝
とか
足利義昭が、織田信長に京都を追い出されて幕府滅亡」
が取り上げられるぐらいで、九代以降の将軍様は、ほとんど目立ちません。

いい機会ですので1代将軍から15代まで確認しておきますと。

1.足利尊氏
2.足利義詮(よしあきら)
3.足利義満
4.足利義持
5.足利義量(よしかず)
6.足利義教(よしのり)
7.足利義勝
8.足利義政
9.足利義尚(よしひさ)
10.足利義稙(よしたね)
11.足利義澄(よしずみ)
12.足利義晴
13.足利義輝
14.足利義栄(よしひで)
15.足利義昭

なんだか地味ですよね。
正直、申し上げたら1、3、6、8、13、15以外は「殆ど知らん」状態かもしれません。

特に10代目以降の無名っぷりには部外者ながら涙を誘われそうになりますが、そうした事情にもちょっとした理由がありまして。

十代目以降の将軍様は、
【ほとんど京都にいなかった!】
という有様だったのです。

政治の中心にいられないんだから名も残せなくて当然。
今回はその一人目となる、足利義稙(よしたね)さんの足跡を追ってみたいと思います。

彼は名前を
義材(よしき)→義尹(よしただ)→義稙(よしたね)
というように頻繁に変えておりまして、ここでは例によって【義稙】で統一させていただきます。

 

応仁の乱直前に生まれ

足利義稙は文正元年(1466年)、足利義視(よしみ)の息子として生まれました。
義視は八代将軍・義政の弟であり、対立した人です。

母は裏松政光(日野重政)の娘・良子。
日野家から嫁いできたお母さんという、この時期の足利氏あるあるな両親でした。

義稙が生まれたのは、上記の通り、応仁の乱直前です。

父の義視も息子のことをカバーしきれなかったらしく、彼が応仁の乱で東軍から西軍になった際、義稙は置いてけぼりになってしまったことがありました。
東軍から西軍へ丁重に送り届けられたため、大事には至りませんでしたが。

「そういうことができるなら、なんで戦やってんの?」とツッコミたくなりますね。

これは【応仁の乱】の対立構造が
【将軍家】義政・義尚 vs 義視
【有力大名】山名宗全 vs 細川勝元
という主軸に加え、各地の大名の利害関係によって、どちらにつくか流動性が高かったからです。

例えば、東軍だからといって勝元に忠実なわけではないし、必ずしも次の将軍に義尚を推していたとも限りません。
この辺が応仁の乱をカオスにしている原因のひとつ。

要するに、誰もが
「俺が一番オイシイとこをもらう! そのために殺したり融通し合ったり!!!」
という複雑な様相を呈していたんですね。ったく、もう。

山名宗全『本朝百将伝』より/photo by Musuketeer.3 wikipediaより引用

 

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叔母である日野富子に推挙された

応仁の乱自体は文明九年(1477年)で一旦収束します。

しかしアチコチに飛び散った戦乱は収めようもありません。
そんな中、九代将軍となった義尚が亡くなり、代わりに政務をしていた義政も亡くなります。

そして、この時点で義政の正室であり義尚の母でもある日野富子が健在だったため、彼女の意見が次期将軍選びに大きく作用しました。
富子自身にはもう男子がなかったため、義稙にお鉢が回ってきたのです。

「義稙のトーチャンは義視だから、応仁の乱で敵対してたんでしょ? なんでその息子に将軍を継がせようと思うの?」

そんな疑問を持った方もおられるでしょうか。
実は、義稙の母が富子の妹なのです。つまり、義稙と富子は甥・伯母の関係となります。

将軍家の血を引いていて、自分とも縁があるとなれば、富子にとってこれ以上の候補者はいないというわけです。

こうして担がれた義稙は延徳二年(1590年)、室町幕府十代将軍となりました。

 

六角氏討伐のため自ら出陣 勝利を収める

最初は父である義視の補佐を受けていました。

しかし、乱の当時幼く、恨みや先入観が薄かったであろう義稙には、先代・足利義尚のやり方が良いと思えたようです。
義尚がやり残した六角氏討伐のために自ら出陣し、無事勝利を収めて凱旋しています。

最初は意外に頑張ってるんすよね。
初めて聞くという方もおられるのではないでしょうか。

次に畠山政長の要請により、彼の同族・畠山基家の討伐を行うことになります。

政長は、応仁の乱で直接の引き金になった【御霊合戦(または上御霊神社の戦い)】当事者の一人です。
これは畠山氏のお家騒動だったのですが、基家は、政長の敵だった畠山義就の息子で、この時期になっても対立が解消していなかったため、将軍を味方につけようとしたのです。

ここで誤算が起きます。
富子と義稙の対立が深刻化したのです。

もともと義稙の父・足利義視は、日野富子とは将軍争いで対立した間柄です。お互いに向ける感情は良いものではありません。
そこに義稙が行動力を見せたものですから、傀儡にしたかった富子としては予定が狂ったと感じたのでしょう。

そこで富子は細川政元(勝元の息子)と手を組み、
「義稙ウザイから追い出そう。出家した中には足利家の血を引く男子がまだまだたくさんいるし♪」(超訳)
という計画を立てました。

細川政元/wikipediaより引用

 

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越中まで逃亡 兵を借りて再び上京を果たす!

日野富子の策略も知らず、京都に戻ってきた義稙。
龍安寺に幽閉されてしまいます。

そして富子は、堀越公方・足利政知の子である足利義澄を担ぎ上げるのです。

一連の流れを【明応の政変】と呼びます。

実は足利義澄も、この時点までは京都の天龍寺(足利尊氏後醍醐天皇を弔うために作ったお寺)で僧侶をやっていたのですが……。
政変がなければそのまま静かに生涯を送れたかもしれなかったのに、気の毒なことです。

一方の足利義稙も、幽閉されて黙ってるわけにはいきません。

こっそり抜け出したかと思えば、なんと越中にまで逃げ、畠山政長の家臣・神保長誠の元に身を寄せます。
そこで兵を借りて、近江坂本まで出陣。
延暦寺や高野山の僧兵をも味方につけて京都奪回を図りました。

何とも勇ましいというか、転んでもただでは起きないという感じがしますね。

「勇猛な将軍」というと十三代・足利義輝が挙げられることが多いですけれども、義稙もなかなかのものです。
血縁関係にすると、義輝の曽祖父(政知)と義稙の父(義視)が兄弟なので、「ちょっと離れた親戚」ぐらい。
義満にもちょっと似ているでしょうか。

 

日明貿易で金を持ってる大内氏

しかし、この越中・僧兵連合軍が、残念ながら奮わずじまい。
細川政元の兵に敗れ、義稙は河内を経由して山口まで流れていくのでした。

なんだか足利義昭と似た感じがするのは私だけでしょうか。

義稙は簡単に諦めず、次に西国の雄・大内義興(よしおき)の協力を要請しました。
大内氏は日明貿易で莫大な富を得ており、後ろ盾には最適と考えたようです。

大内義興/wikipediaより引用

一方の大内義興も、細川政元に対抗するため、義稙を神輿にして上洛するのが良いと考えました。
あまり気持ちのいい関係ではないですが、利害が一致したんですね。

そのころ細川氏は、政元の後継者争いがキッカケで分裂中でした。

政元は、政治的にはヤリ手である一方、修験道にかなり深く傾倒していて、妻を娶らず養子を三人迎えていたのです。
二人までであれば、何かしらの事情で亡くなることを危惧したのだろう……とも思えますが、三人はさすがにちょっと……ねぇ。

跡継ぎが決まらなければ、当然家臣たちはそれぞれの思惑で割れていきます。
中には義稙を推す勢力もいました。
だから、なんで、あっちもこっちも分裂するんですかねぇ(´・ω・`)

 

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復帰できるも求心力は著しく低下

「今こそ好機!」
これを伝え聞いた大内義興はすぐさま動きました。

「将軍様のお通りだ! 簒奪者の義澄とその取り巻きは京都を明け渡せ!」
と迫り、半年ほどで足利義澄と細川澄元を追い出すことに成功します。

足利義澄/wikipediaより引用

このとき細川政元の養子の一人・細川高国は足利義稙たちに協力。
その報償として管領の座と、細川氏の当主として認める旨を受けております。

かくして、どうにか京都を奪回し、将軍としての再スタートを切った義稙です。
しかし、こういった経緯があったものですから、やはり彼自身に権威や力はほとんどなく、その後は義興と高国が実権を握ることになりました。

「将軍は飾り物で、実質的なトップはその側近」
という構図は、義政の時代から何も変わらなかったのです。

義稙は自分も腕が立つ方で、義澄からの刺客を返り討ちにしたという話があるほど。
相当悔しかったでしょう。

そして足利義稙は、義興や高国の影響を排除するため、近江甲賀へ隠遁という名の家出をします。
ここで義稙が大病を得たこともあって、一度は義興たちが譲歩し、「将軍の命令に従います」という誓書が出されました。

再度、帰京を果たすものの、そこに待っていたのは細川氏の争いでした。

 

義稙と高国の関係も悪化 自ら墓穴を掘ってしまう

細川高国は、もう一人の政元の養子である細川澄元との戦いをまだ続けていました。

この頃は高国が管領でしたから、幕府のトップである義稙は当然、高国の味方をして然るべきところ。
当初はそうだったのですが、高国が敗れ、「上様、私と共に近江へ逃げましょう」と言われたときには拒否しています。

澄元から義稙のもとへ「私は(どっかの面の皮が厚いヤツと違って)上様に従います(だから私に味方してください)」というような書状が届いていたからです。

義稙としては、これまで頭を押さえつけてきた高国の態度が変わることを期待するよりも、澄元の誠意を信じたくなりますよね。

……なんだか”ダメ亭主の本性が見抜けず結婚してしまい「子供ができたらマシになってくれると思ったのに!」と悩む奥様”のようです。
昼ドラよりドロドロしてますけど。

このため、義稙と高国の関係も一気に悪化。
義稙は自ら墓穴を掘ってしまいます。

高国の影響力から逃れようとして、なんと、再び京都から出ていってしまうのです。もう、アホかと。

周囲からすれば「ワガママをしたいばかりに、家臣を捨てていった」としか思えません。
しかもこれが、ときの帝である後柏原天皇の即位式直前だったというのですから、政治的には「やっちまった」どころではない話でした。

 

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後柏原天皇にキレられ

この時代、皇室の権威とお財布事情は地に落ち、諸々の儀式も満足にできなくなりかけていました。
後柏原天皇も、践祚(実際に帝位を受け継ぐこと)から即位式(践祚したことを大々的に知らせる儀式)まで、実に20年以上の歳月を経ています。

ここまで待たされた上に、将軍出奔という
「(゚Д゚)ハァ?」
なトラブルで即位式ができなくなるなど言語道断。

後柏原天皇は「もうあんなお飾りいらん! 高国、お前が采配して即位式をやるぞ!」と命じました。

高国はもちろん従います。
そして、義澄の息子・足利義晴を新しい将軍として認めてもらうよう、後柏原天皇に奏上。
当然、あっさり認められます。

後柏原天皇は仏教への信仰がとても厚い方で、貧困にあえぐ民を思いやる和歌を詠んだり、疱瘡が流行したときには延暦寺と仁和寺にご宸筆の般若心経を奉納したりしていました。

流行り病はいつの時代でもあることですけれども、民の貧困の大元は言わずもがな、応仁の乱です。
しかもその理由は幕府と武士を総括すべき室町幕府の将軍家ですから、度重なる将軍の失策・失態に対し、後柏原天皇が激怒するのは当たり前でした。

この時点で足利氏から将軍世襲の権利を取り上げてもいいくらいですが、流石にそれはためらわれたのでしょうね。
まぁ、逆上して武力行使されてもたまりませんしね。

夢破れて阿波と散る

懲りない義稙は、それでも高国に対抗するための兵を集めようとして、夢叶わず阿波で亡くなります。
享年58。
当時としてはかなり長生きですね。
まぁ、その年齢で、将軍位を再び廃されていたことに知づけんかあったはずないのですが……。

なお、彼の跡は、養子の足利義冬(義維)が継いでいます。
正式な将軍にはなりませんでしたが、平島公方とも呼ばれました。またナントカ公方ですがテストには出てこないでしょう。

義冬は義澄の息子なので、義稙は政敵の息子を跡継ぎにしたことになります。

これは、義冬が義澄の嫡男・義晴と対立関係にあったことと、阿波の守護・細川之持の下で育ったことが理由のようです。

そろそろ「義」の字がゲシュタルト崩壊しそうです。
続きはまた次回。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「足利義稙」
足利義稙/wikipedia

 




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