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足利義澄/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

足利義澄32年の生涯マトメ!室町幕府11代将軍もまた身内争いの日々に追われ……

更新日:

室町時代を一言で表すとすれば、
「とにかく身内争いの激しい時代」
と言えましょう。

南北朝分裂、観応の擾乱、そして応仁の乱……。
どれもこれも内部の対立が広く飛び火していったものばかりです。

これだけ繰り返していれば、普通は同じ轍を踏まないように努力するものですけど、応仁の乱が一応収束した後の室町幕府でも、やっぱり似たような問題が起きます。

今回の主役は十一代将軍・足利義澄(よしずみ)

彼もまた諸々の経緯で何回も改名しており、
清晃(僧侶時代の名前)→義遐(よしとお)→義高→義澄
という順に変わっているのですが、例によって最初から「義澄」で統一させていただきます。

ちなみに亡くなった後の法号は「法住院旭山”清晃”」というので、元に戻ったことになりますね。

その生涯は
「最初から最後まで僧侶のままでよかったんじゃ……」
と思わされるようなものでした。

 

6歳で上洛&出家の生涯となるはずが……

義澄は文明十二年(1481年)、堀越公方・足利政知の息子として生まれました。

父の政知は、本来なら六代目・鎌倉公方として、東日本の統治を行うはずだったのですが、鎌倉に入ることすらできませんでした。
五代目の鎌倉公方・足利成氏が、女房役である関東管領・上杉憲忠をブッコロしたことで【享徳の乱】が始まり、その影響を受けてしまったんですね。

京都から見て鎌倉の手前にあたる堀越(現・静岡県伊豆の国市)で、ひとまず留まっておりました。

義澄には茶々丸という兄がおり、彼が堀越公方、そして将来的には鎌倉公方を継ぐ予定でした。

となると次男・義尚も早めに行き先を決めておかなければ、後々困ることが出てきます。

そこでときの八代目将軍・足利義政
「そんなら、義澄は京都に戻せ。天龍寺の塔頭の一つを継がせるから」
と命じ、6歳で上洛・出家することになりました。

しかし……。

足利義政/Wikipediaより引用

その二年後にイトコの九代将軍・足利義尚が亡くなり、続いて義政も死去。

この時点で義澄を次の将軍にする案もあったようですが、幼いこともあってか一時却下され、応仁の乱で義政と争った足利義視の息子・足利義稙が十代将軍になりました。

ややこしくなってきましたので、家系図を見てみましょう。

血縁でいうと
【四兄弟】義勝・義政・義視・政知
【イトコ】義尚・義稙・義澄と茶々丸
となりますね。

 

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日野富子と足利義視が再び揉めて

この時点で、義政の正室・日野富子は健在でした。
幕閣としては、彼女の意見も無視できません。

富子としては先のことを考えていたのか、かつて息子の義尚と暮らしていた屋敷を義澄に譲っています。

が、義稙の後見として政治に携わることになっていた義視が
「あの女、まだ俺と息子の邪魔をするつもりか!」
とキレ、屋敷を破壊させてしまいました。

ややこしくなってしまった方は、あらためて家系図を見直してください。
ドロドロしていて面白ポイントでもあります。

これによって義稙と富子の関係も悪くなるのですけれども……そもそも富子が応仁の乱の最中に取っていた態度や荒稼ぎっぷりからすると、仕方のないことでもありますね。

状況は改善することなく、義視が亡くなって二年後の明応二年(1493年)にいよいよ事態が勃発しました。

富子が、管領・細川政元とともに【明応の政変】というクーデターを決行。
義稙を京都から追い出し、義澄を十一代将軍に据えたのです。

まだ12歳になったばかりの義澄。
元服も済ませておらず、将軍にするため即座に儀式を執り行います。

しかもその会場が細川政元の屋敷で、加冠(大人の証として冠を被せる人)をはじめとした全ての役目が細川氏の人間によって行われるのですからやぶさかではない。

これでは、
「お前は俺たち細川氏のための将軍なんだよ^^」
と言っているも同然でした。

 

親政を進める若き将軍に反発する細川政元

富子は義澄にとって叔母です。
日野家の血筋と富子自身の財力もあり、幼い義澄では到底逆らえません。

そんなわけでしばらくは義澄もおとなしくしていたのですが、明応五年(1496年)に富子が亡くなると、
「これからは自分で政治に取り組んでいかなくては!」
という意志を見せるようになりました。

15歳になった頃ですから、思春期でもあり反抗期でもあり、いわゆる「お年頃」だからこその感情もあったでしょう。

しかし、これを厨二病と思ったのか。
自らの手で政務を行おうとする若将軍の姿を、細川政元はよく思いません。
政元にとって将軍とは「お飾りでいなければならない」存在であり、意志や行動力を持たれては困るのです。

細川政元/wikipediaより引用

当然、両者は対立することになり、政元はスネて領地に帰ってしまいました。

管領という要職の人に勝手に辞められては流石に困るので、一時は義澄も譲歩します。
フシギなのはその後。
今度は義澄がお寺にこもり……なんだかお互いに「実家に帰らせていただきます!」みたいな状態になってしまうのです。子供かっ!

このときは、さすがに政元たちが引き留めました。

 

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足利家の血を引く義忠を殺しておくべし

義澄は、将軍職に戻るためとして2つの条件を挙げました。
1武田元信の相伴衆登用と、2足利義稙の異母弟・実相院義忠(ぎちゅう)の処刑です。

武田元信は若狭武田氏の人で、承久の乱の際に功績を挙げて、鎌倉幕府から安芸の守護に任じられた安芸武田氏の嫡流です。

武田信玄のかなり前のご先祖様(甲斐武田氏)から分家した一族ですね。
アタマがこんがらがりそうですが、安芸武田氏も「鎌倉時代以来の名家の一つ」ぐらいに捉えておけばいいかと。

家としては細川氏とのつながりが深く、元信自身も政元と張り合ったことがあり、義澄としては側に置いて細川家を牽制したかったものと思われます。

もう一つの条件である義忠。
義稙が京都から追放された後も、京にいることを許されており、義澄の病気見舞いに行く程度には関係が良かったのですが……いかんせん、この状況では「足利氏の血を引く男子」というだけで、政敵になり得ます

そこで義澄は、見舞いに訪れた義忠をその場でひっ捕らえ、近くにあった阿弥陀堂で殺してしまったのでした。

義忠にとっては実に迷惑極まりない話ですが、彼がいなくなれば政元が義澄の代わりに担ぎ上げられる候補がいなくなるわけです。

こうして、義澄と政元は馬が合わないながらに、少なくとも職務上は協調していきました。
内心はお互い「ギギギ」な感じだったでしょうけど。

 

「純潔を保てば空を飛べる! 俺は天狗になるんだ!」

しかし、政元は他にも火種を抱えていました。

彼は修験道に深く傾倒し、
「純潔を保てば空を飛べる! 俺は天狗になるんだ!」(超訳)
という、なんだかよくわからない決意を固めていたのです。

そんなに大事な目標なら、いっそ管領を辞めて山にこもればいいと思うのですが……そうもせず三人も養子を迎えているのがワケワカメ。
なんなの?
爆弾の導火線を自ら増やしていくスタイル?(´・ω・`)

しかもそれでいて「俺が死んだら○○が跡を継ぐこと。○○に何かあった場合は■■で、二人ともまずいことになった場合は残りの☆☆な」みたいな優先順位をつけてないから超厄介!

当然、家臣たちは○○派と■■派と☆☆派に分裂し、相争うことになります。
応仁の乱も南北朝分裂も同じような経緯で大混乱してるのに、マジ懲りない……。

しまいに政元は、その状況を収拾しようともせず、
「奥州に行って修業に励みたい^^」
などといい出してしまいます。

おそらく修業発言でさすがに見切りをつけられたのでしょう。
永正四年(1507年)に政元は、行水をしていたときに養子の一人である細川澄之の側近に暗殺されます。

かくして細川氏(京兆家)の家督をめぐる内紛【永正の錯乱】が勃発。
にしても「錯乱」って凄いです。
歴史上にはさまざまな「乱」がありますが「錯乱」なんてつくのはこの時期ぐらい。本願寺絡みでまだありますが、まあそれはいずれ。

 

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京都を脱出で足利義稙が将軍に再任

将軍家や細川家のしょーもないドタバタは、着実に幕府の権威を蝕み、そして全国へと伝播します。

地方の有力者たちが
「あれ? これはうまくやれば、俺も京都で一旗挙げられるんじゃね?」
と思い始めたのです。

その中には、前将軍・足利義稙を匿っていた山口の大内義興がいました。

大内氏は日明貿易で莫大な富を築き、多くの兵力を動員することができる可能。
しかも京都から遠かったため、応仁の乱の戦火も受けておりません。
加えて、穏やかならぬ経緯で保護していた”前将軍”という神輿までありました。

当時としては絶好のチャンス!
これを義稙と義興は見逃しませんでした。直ちに兵を挙げ、京都と将軍位の奪還を目指します。

義澄はこの報を聞いて近江の六角氏を頼り、危険が迫る前に京を脱出します。
将軍位を追われて、足利義稙が将軍に再任するのでした。

むろん義澄も、ただでは引き下がれず八方手を尽くしますが……勝利する前に病死しています。
享年32(満30歳没)。

義澄方だった武将たちも義稙方に敗れ、その後に和睦が成立。義澄の遺児たちは助かります。

が、しかし。
彼らは彼らで、また新たな火種を生み出していくのです。

だから、ノルマでもないのになんで全ての世代で争いを起こすんだYO!

比叡山延暦寺を焼き討ちした細川政元は★3つ! 40歳まで◯◯ならば空も飛べるハズ……えっ???

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「足利義澄」
足利義澄/wikipedia

 




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