絵・富永商太

武田・上杉家 その日、歴史が動いた

「ワシが死んだことは3年隠せ」は失敗?快進撃の直後に亡くなった武田信玄

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どんなに優秀な人でも、いつか最期がやってきます。
それまでに自分が思い描いたことをどれだけやれたか、という点で、人生の満足度が決まるのではないでしょうか。
本日は最後の最後で大誤算になった……かもしれない、あの有名な大名のお話です。

元亀四年(1573年)4月12日は、武田信玄が亡くなったとされる日です。

「ワシの死は3年隠せ」と遺言した割に、亡くなった日がわかるのも不思議なものですが……まあ、武田家の前後の動きからすればバレバレですよね。
本日はこの超有名な戦国大名をダイジェスト版でり返ってみましょう。

複数ある名前は最も有名な「信玄」で統一させていただきます。

※なお、信玄の生涯を詳細に描いた記事は以下のリンクにございます

武田信玄53年の生涯をスッキリ解説【家系図付き】戦国ロマン溢れる甲斐の虎、そのリアル

 

十二代将軍義晴から「晴」の字をもらい、結婚へ

信玄が生まれたのは、大永元年(1521年)のことです。

当時は父・信虎が甲斐を統一しかけていた頃合い。対外的には今川氏と和睦し、扇谷上杉氏と結んで後北条氏対策もしていました。
この関係で、後に信玄最初の正室は扇谷上杉氏から来て、難産で母子ともに亡くなっています。

15歳で元服して、ときの将軍・十二代義晴から「晴」の字をもらいました。
有名な三条夫人が嫁いできたのはその後のことです。

同じ年に今川義元が花倉の乱という内乱で勝ち、家督を継いでいました。
三条夫人が嫁いできたのも、今川の斡旋だったという説がありますね。とはいえ、この頃の武田と今川は付かず離れずといったところですが……。
近い大名同士の関係は、女心と秋の空よりも変わりやすいものですし。

時期ははっきりしないながら、信玄の初陣は、元服及び三条夫人との結婚の後とされています。
この時代の武家にとって、元服・結婚・初陣はおおよそ三点セットみたいなものですからね。現代の感覚でいえば、成人式と結婚式と就職を全部同じ年にやるような感じでしょうか。ずいぶん物騒ですが。

 

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母ちゃん(大井夫人)とは仲良しだった?

こうして名実ともに大人になった信玄の最初の大仕事は、天文十年(1541年)に、重臣たちと図って父を追放したことでした。

信虎が信玄よりも弟・信廉を可愛がったこと、諫言してきた家臣を成敗し家名を絶やしたこと、それによって重臣たちから晴信当主を望む声が広まっていたなどが理由だと考えられています。

特に成敗した家臣の影響は深刻で、信玄が後に多くの家を再興させました。

そんな感じでトーチャンとの関係は最悪だった信玄ですが、カーチャンの大井の方(大井夫人)との仲は悪くなかったようです。
若き日の信玄の恩師である、岐秀元伯(ぎしゅう げんぱく)という僧侶を招き、引き合わせたのが大井の方だったからかもしれません。

信玄は当主になった直後から信濃(現・長野県)へ侵攻して、とある戦で大負けした際、意地を張って布陣し続けたことがあります。

このとき「帰っておいで(´・ω・`)」(※イメージです)と説得したのが大井の方だったといわれています。
カーチャンに言われたからというわけでもないでしょうが、信玄はその手紙の到着後に帰還しているので、理由の一つではあったかと。

徳川家康といい信玄といい、知名度の高い戦国武将がカーチャンに柔軟な対応を見せるのは面白いところですね。
そういえば、上杉謙信もねーちゃん(仙桃院)の息子である景勝を養子にしたり、一定以上尊重しているフシがあります。
当時の男女観が少し見えそうで興味深いですね。

 

諏訪を攻略した後に砥石崩れ 謙信とのドンパチ始まる

さて、信玄は、父の方針をいくつか否定しておりますが、最も大きいのは信濃の諏訪氏対策でした。

信虎時代には同盟を組んでおりました。一方で信玄時代になると、ここへ攻め込み、諏訪氏の領地と姫(通称・諏訪御料人または諏訪御前)をぶんどっています。
諏訪氏の姫を夫人に迎え、息子が生まれたら諏訪氏を再興させることで取り込みたかったようです。

しかし、後に信玄の他の息子が反乱を起こしたことで、諏訪御料人の息子である四男・勝頼が跡継ぎになり、その後……となります。
どこでどうなるかわからないものです。
他には、信濃侵攻のため、今川氏と後北条氏の争いを仲裁することで貸しを作り、背後の憂いを断ちました。
これは後の甲相駿三国同盟の下地にもなっています。

信濃での一連の戦いでは、戸石城(現・長野県上田市)で「砥石崩れ」と呼ばれるほどの大敗をしていますが、その他はおおむね順調に勝ちました。
戸石城も真田幸隆(昌幸のトーチャンで信之・信繁のジーちゃん)の策によって攻略しております。

この戸石城を勢力圏にしていたのが、村上義清という武将です。
義清は本拠の葛尾城(かつらおじょう。現・長野県埴科郡)を捨てて、越後の上杉謙信(この頃は長尾景虎)を頼りました。

謙信は義清を始めとした北信濃の豪族たちから要請を受け、信玄と川中島の戦いを演じることになります。
つまり、信玄と謙信は最初から敵対していたのではなく、信玄の信濃侵攻によってぶつかり合うことになったというわけです。

信玄はこれを見て、より確実に後顧の憂いを絶つため、嫡男・義信の正室に今川義元の娘で自分の姪でもある嶺松院を迎えました。さらに、自分の娘を北条氏康の嫡男・氏政に嫁がせます。
そして、今川・北条も信玄と太原雪斎(今川家のブレーンだった僧侶)の仲介で同盟を結び、甲相駿三国同盟が成立しました。

十三代将軍・足利義輝から和睦を命じる書面が届いたときには、スンナリ受け入れた謙信に対し、信玄は「信濃守護職ください」と要求して実際にもらっていたりします。
こういうところにも、二人の価値観の差がうかがえますね。

 

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武田家の戦略にも大きな影響を及ぼした桶狭間の戦い

永禄二年(1559年)、出家して信玄と名乗ります。
出家と隠居はイコールではない……というのは戦国時代のテンプレですね。

当時このあたりでは飢饉が起きており、後北条氏は代替わりと徳政を行って乗り切ろうとしていました。信玄もそれに倣ったものと考えられています。
ちなみに、名高い第四次川中島は信玄出家後のことです。

並行して上野(現・群馬県)侵攻も行い、5年ほどで西部を手中に収め、まあまあ順調……といったところで、大事件が起きます。

桶狭間の戦いです。

この戦いは武田家は直接関係ありませんでしたが、今川義元が敗れて氏真に代替わりしたのと同時に、東海の勢力図が変わります。
同時に、織田信長が斎藤氏との争いに介入したことで、信玄も信長を意識せざるを得なくなりました。

武田の勢力図から見ると、斎藤氏の領地は西隣で、織田氏はその南。もしも斎藤氏の領地が織田氏のものになれば、信玄は後手に回ってしまいます。

このため、勝頼の正室に信長の養女・龍勝院を迎えて関係改善を図り、また、今川氏の影響を最小限にすべく、今川から正室を迎えていた嫡男・義信を廃嫡しています。




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義元が亡くなったことで独立した徳川家康とは、一時共闘し駿河へ侵攻したこともありました。
このとき、後北条氏が今川氏についたため、三国同盟は解消され、再び三つ巴の様相となります。
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