ポーリーヌ

ポーリーヌ/wikipediaより引用

世界史

ポーリーヌの美貌と奔放~ナポレオンの妹がこんなにエロいはずが

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ポーリーヌ
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彼の父は教養ある人物であり、弟も賢かったのですが、彼本人は頭の出来がよろしくない、と言われていたのです。

「ボルゲーゼ公はイケメンだけど、操れるのは馬車くらいだろ。まともな会話すら操れないさ」

そう噂される残念なイケメンだったのです。

しかしポーリーヌは、ナポレオンが「もうちょっとちゃんと服喪しろよ」と苦い顔をするほど前向きに再婚へ向けて突っ走ります。

「あんなアホが相手じゃあ、お前すぐに飽きるんじゃないか」

ナポレオンはそうあきれながらも、再婚を認めざるを得ない……。

その予感は的中することになります。

 

美しさを永遠に残したい! まるで裸のヴィーナス

1804年、ナポレオンはフランス皇帝となります。

あわせてポーリーヌも皇帝の妹という称号を得るのでした。

「皇帝即位を祝うために、何か記念品を作りましょ!」

ポーリーヌは名高い彫刻家カノーヴァに依頼し、勝利のヴィーナス像を造らせることにしました。

モデルはポーリーヌ自身です。

依頼を受けたカノーヴァははじめ断ろうとしています。イタリア遠征の際、ナポレオン率いるフランス軍はイタリア各地から美術品を強奪したことを彼は不快に思っていたのです。

しかし、しぶしぶポーリーヌに出会ったカノーヴァは、その美しさにすっかり魅了されてしまいます。

ミルクのように白い肌、均整の取れたプロポーション、形のよいバストにヒップ。

「この美貌を前にして、モデルにしたがらない芸術家はいるだろうか!」

大興奮です。

しかしカノーヴァは、異議を唱えます。

ヴィーナスはいかがなものか?

純潔の女神ディアナの方がよろしいのでは?

「私が純潔の女神って、説得力なさすぎるしぃ!」

ポーリーヌは即断で拒否。確かに美と愛欲の女神の方が彼女にはふさわしいでしょう。

こうしてできあがったヴィーナス像を見て人々は仰天しました。

ポーリーヌ像/wikipediaより引用

誘うような表情、腰まではだけた服……ほとんどヌードですよね、これ。

「フランス皇帝の妹ってこんなにエロいのか!?」

周囲の人々は彼女にこんな格好でモデルをしたのかと尋ねます。

「立派な暖炉があるから寒くないし、カノーヴァなんて本物の男じゃないし平気」

そんな人をくったような答えをして楽しむポーリーヌでした。

彼女の抜群のプロポーションですが、ポーリーヌ自身は「私は運がいいだけ」と冷静にとらえていました。

ほっそりとした美貌で有名なオーストリア皇后エリーザベトのような、血のにじむような過激な美容法やダイエットはしておりません。

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ポーリーヌの生きた頃は、コルセットに支配されたヨーロッパの服飾史においてもぽっかり空いた穴のような時代です。

彼女は腰をぎゅうぎゅうと締め付けず、ゆるやかなシルエットの薄いドレスを身にまとっていたのです。

兄の皇帝戴冠式を前にしてまさに得意の絶頂にあったポーリーヌ。

しかしそんな彼女をまたもや不幸が襲います。もうすぐ6才になる息子デルミィドが急病死したのです。

愛する夫ルクレールに続けて息子を失い、彼女は絶望のどん底に突き落とされました。

ポーリーヌにとって夫カミッロは救いになるどころか、その馬鹿さ加減がストレスの源。そもそも兄がサン=ドマングに私たちを派遣しなければ……。

そう不満を抱えつつも、彼女は兄の戴冠式に出席するため、パリへと向かうのでした。

 

「あんなに美人でエロい妹なら、兄だって、ねぇ……」

晴れの舞台の戴冠式もポーリーヌにとっては不満の種でした。

兄の跡継ぎすら産んでいない、大嫌いな義姉ジョゼフィーヌが着ているドレスの裾を、三姉妹で捧げ持たねばならなかったからです。

ナポレオン戴冠式/wikipediaより引用

やってらんないし! とでも思っていたのでしょうか。

23メートルもある裾を持つ三姉妹は、進行方向とは逆に引っ張るのです。

進むこともできず焦るジョゼフィーヌ。ナポレオンがギロリと妹たちを睨み付けたため、やっとジョゼフィーヌは進むことができました。

この戴冠式の頃から、何もかも吹っ切れたポーリーヌの「ご乱行」が激しくなります。

妹カロリーヌの夫ミュラは軍人として成功をおさめ、夫妻は出世していきます。

ポーリーヌは妹に嫉妬しましたが、ナポレオンはこう言います。

「ミュラは使える男だけども、お前の夫のカミッロは馬鹿で使い物にならんからな。地位を高くするわけにはいかん」

軍人として勇猛果敢だった元夫ルクレール。

猪突猛進型の軍人である義弟のミュラ。

それに比べて夫は馬鹿で役立たず……。

ポーリーヌの後悔と怒りと不満が噴き出します。美貌を賞賛されるだけでは、贅沢三昧では、心の隙間は埋まらないのです。

「私は、兄やルクレールのような男に抱かれないとダメな女なの……」

かくしてポーリーヌは、ナポレオンの部下だろうと、政敵だろうと、構わず誘惑することになります。

その中にはナポレオンに嫌われたアレクサンドル・デュマ将軍もいました。

のちに作家となった将軍と同名の息子アレクサンドル・デュマは、女神のような女性が突然家に現れた記憶を書き残しています。

トマ=アレクサンドル・デュマ
ナポレオンに背いた猛将トマ=アレクサンドル・デュマはあの文豪の父だった

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デュマとの関係はどこまで深入りしたかはわかりませんし、息子デュマの記述も曖昧にぼかされています。

しかしポーリーヌが愛人をたくさん作り、ゴシップ好きの社交界に切れ目なく噂の種を供給し続けていたのは事実です。

夫に隠すことなく、むしろ堂々と「アンタみたいな役立たずじゃ、私、満足できないの!」と示すように、多くの愛人たちと情事を重ねるのです。

ポーリーヌは出産時に感染した婦人科系の病を治療すると称して各地の温泉を旅します。

温泉だけではなく、ミルクのような美肌を保つためと称して、牛乳風呂とシャワーを欠かさず行うのでした。

そうした温泉リゾート先で、デートを重ねるわけです。

しまいには主治医から「あまりにも激しい生活(下半身的な意味で)はおやめください」と言われるほどでした。

情事を重ねたのは「兄の部下」だけだったのか?

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