ブーディカ

ブーディカ像/photo by Aldaron wikipediaより引用

イギリス

英国の戦士女王ブーディカ! ケルト族を率いてローマ軍相手に血みどろの戦闘へ

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ケルト戦士の咆哮

紀元60年から61年にかけて、ブーディカはケルト戦士たちを集めました。

ケルト戦士というのは、燃えるような赤毛を石灰で固めた獰猛な戦士たちです。

装備面ではローマに劣るとはいえ、その果敢な戦いぶりは現在までも伝わっています。

現在はアメリカのプロレス団体WWEにおいて、アイルランド人人気スーパースター・シェイマスが、絶大な人気を誇っています。

2018年現在、「ケルト戦士」というのは彼のことを指すことが多いようです。

※シェイマス入場ビデオ/ケルト戦士をイメージした外見が特徴で、ケルト十字、鬚、白い肌、赤毛、固めた髪の毛、テーマカラーの緑色がカッコイイ

ケルト戦士の指導者として選抜されたブーディカは、野ウサギを放ち、女神アンドラステに祈りを捧げます。

ブーディカは勝利を意味する縁起のよい名前でした。

彼女の元で、ケルト戦士たちは咆哮をあげます。

「今こそローマの支配を打ち破るときだ!」

怒りに燃えるケルト戦士の群れは、カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)を襲撃。

カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)を陥落/map by Contains Ordnance Survey data © Crown copyright and database right wikipediaより引用

ローマは油断しきっていました。

あっさりと服従したケルトの連中が、何ほどのことがあろうか。そう考えていたのです。

寝耳に水の急襲を受けて、カムロドゥヌムは陥落。

続いて、ロンディニウム(現在のロンドン)、ウェルラミウムまでも攻略されました。

哀れなのはローマ人の民間人たちです。

怒りに燃えるケルト戦士の刃は、容赦なく彼らを殺戮したのでした。その死者数は7〜8万人とも。

彼らは捕虜を取ろうとも、奴隷として売り払おうともしませんでした。

戦いの神に捧げる生贄のように、ローマ人の死体は損壊され、さらされたのです。

ケルト戦士の勇猛さは、悪夢のような記憶として、ローマに刻まれたのでした。

※ローマ軍とブリテン諸島の戦士の戦いを描く映画『センチュリオン』

 


反乱の終焉

むろん、ローマ側も黙ってはいません。

怒りのままに突き進むケルト戦士たちですが、その進軍は秩序に欠けており、家族たちまで移動していました。

軍隊としての精度では、本気を出したローマ軍にはどうしたって劣ります。

「ワトリング街道の戦い」で敵を迎え撃ったローマ軍は、大型の盾で武装し、ピルム(槍)を投げて来ました。

当時のローマ軍再現した様子/photo by MatthiasKabel wikipediaより引用

装備で劣り、秩序もなく、突撃しか術のないケルト戦士たち。

彼らの軍勢は、たちまち崩れてしまいます。

ローマ軍は敵が連れて来た妻子や家畜まで徹底的に血祭りにあげ、復讐の連鎖が続いてしまいます。

この大敗の末、ブーディカは服毒自殺を果たしたとも、病死したともされています。

いずれにせよ悲劇の戦士女王は敗北の末、そこで散ってしまいました。

ただし、彼女の蜂起は決して無意味ではありませんでした。

ローマ側は、ブリテン諸島における無道な統治を反省。支配は改善されたのです。

そして後には、ケルト戦士の勇猛さと、勝利の名を持つ赤毛の女王の伝説が残されたのでした。

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