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【ヒトラーの毒味役】
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ベルリンの空襲の疎開先で
鉄道員の娘として生まれた、ウェルクさんが、この毒味役をやらされるようになったのは24歳の時。
気ままな青春時代を過ごし、ユダヤ人の友人すらいました。
しかし、そんな時代も1933年にナチスが政権を握ると一転します。
1941年に連合軍の空襲で、住まいだったベルリンのアパートが焼け出されます。
先にも書きましたが、夫には召集令状が届き、兵士として戦っていたので、頼る先は東プロイセンのパルチュ(現ポーランド領パルチ)にある母の実家だけでした。
住む家を焼け出されただけでも不運なのに、それが重なります。このパルチュは、有名なヒトラーの司令所であった「狼の巣」に近かったのです。
やっとの思いで辿り着いた街の市長は、彼女に「毒味役をやれ」と強要。従わざるを得なかったそうです。
ちなみに、ウォルクさんは毎日連れて行かれて毒味をやらされはしたものの、ヒトラー本人を見かける事は全く無かったそうです。
先にも書いたように、殺されるとの強迫観念に縛られていたからです。
そうこうする内に、有名なヒトラー暗殺未遂事件が、1944年7月20日に発生します。
毒殺ではなく、爆殺って訳です。
「その時も、皆で毒味役を強要させられていたの」とウォルクさん。
情報が入って来ないので「英国がヒトラーを毒殺しようと企てているって噂が、何時もあったわ」とのことです。
菜食主義者のヒトラーの献立
そんな頃の料理にも「肉は全く出なかった。本人が食べないからよ。食べさせられたのは、お米と麺、胡椒のかかった野菜料理とエンドウ豆、カリフラワーばっかり」だそうです。
腹が膨れなかったんだろうなぁ。
というか、そもそもよく喉を通ったもんだ。
これだけでも過酷と形容するのも生ぬるいとしか言い様の無い試練だったのに、そんな最中に強姦されたとなれば、そりゃあ辛すぎますよね。
脱出に成功するも、翌年ソ連軍に捕まり…再び地獄の日々
そんな彼女が、鉄道を使って脱走し、ベルリンに逃げ帰ったのは1944年後半のこと。
ようやく安堵の日々が来たかに思えましたが、悲運が更に重なります。
翌年、ソ連赤軍に囚われの身となったからです。その赤軍は、毒味仲間の同僚を処刑していました。
都合14日間、拘留され、繰り返し、ここでもまた強姦されたそうです。
こうした日々を「この世の地獄」と評した御本人は「その後も悪夢に悩まされる日が続いた」と付け加えました。
なお、遂に子供を産む機会を逸してしまったとも語っています。
1946年に夫が帰還したものの、戦争が2人に強いた重荷を背負いきれず、離婚してしまったからです。
本当に、気の毒すぎる。こんな事があっていいのか!
だから戦争は絶対にしてはいけないし、どんなイデオロギーで偽装しようと独裁制も絶対にダメですね。
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南如水・記
【参考】
デイリー・ミラー紙(→link)
ほか