偽ドミトリー騒動

イヴァン雷帝と7番目の妻マリヤ・ナガヤとの息子ドミトリー/wikipediaより引用

ロシア

ニセモノが皇帝になる!? 中世ロシアで起きた嘘のような実話「偽ドミトリー騒動」

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喉を切られて死んでしまった本物のドミトリー

イヴァン雷帝の死後、ロシアの有力貴族は大打撃を受けていました。

英邁であったイヴァン皇太子が父親に殺されてしまい、残されたのは無害で無力な皇子たちだったのです。

父の跡を継いだのは、実に無害なフョードル一世でした。

実質的に政治の実権を握っていたのは、妃イリナの兄ボリス・ゴドゥノフ。

ボリス・ゴドゥノフ/wikipediaより引用

うまく取り入ったつもりのボリスには、大いなる誤算がありました。

フョードル一世と妹イリナの間に、子が生まれなかったのです。

甥の後見人として権力の座に居続けたい彼にとって、これは困ったことでした。このままでは次のツァーリを、フョードル一世の異母弟ドミトリーに取られかねません。

幼いドミトリーは、ゴドゥノフによってウグリチに追放されてしまいます。

そして1591年5月15日、庭で遊んでいたドミトリーは、喉を切られて死亡している姿で発見されました。

焦ったのはゴドゥノフでした。

彼はそこまでするつもりはありませんでしたが、状況からして、どう考えても彼の仕業にされることでしょう。

しかし、調査結果は驚くべきものでした。

「ナイフを持って遊んでいたら、てんかんの発作が起きて喉を切ってしまった」

って、んなアホな!

もちろん当時の人だって、誰もそんな話を信じませんでした。

現在では「ナイフ投げ遊びをしていて、刃を自らに向けた状態ならばありえる」というのが有力視されています。

 


偽ドミトリー一世登場! そして人間大砲に

1598年、ドミトリーの死から7年後、フョードル一世は子のないまま崩御しました。

これによりリューリク朝は断絶。

ゴドゥノフがボリスとしてツァーリとなります。

しかし、幼いドミトリーを殺したとみなされたボリスの人気は極めて低調でした。

それから二年後。

日本では関ヶ原の戦いがあった、1600年頃。

「ドミトリーが生きていた!」

そんな噂が流れました。

やがて噂は「真実であり、ポーランドが彼の支援をしている」という話まで広がっていきます。

折しもロシアは、大変な飢饉に苦しんでいた時期であり、ボリスの悪行への報いだと当時の人々は見なしていました。

そして、イヴァン雷帝の数々の悪行も、幼いドミトリーが見せていた残虐な性質の片鱗も綺麗サッパリ忘れてしまい、その自称息子を待ち望むようになったのです。

ボリスは偽デミトリー一世の軍に圧倒されるうちに、幼い息子フョードルを残し、1605年に崩御。

続けて即位したフョードル二世とその家族は、暗殺されます。

代わりに帝位についたのは偽ドミトリー一世でした。

彼はなんと、公式調査を行い「殺されたドミトリーは身代わりだった」という結果を流布させるのです。

偽ドミトリー1世・いかにもな小者感はわざとそういう風に描かれたのですかね/wikipediaより引用

かくして偽ドミトリーはポーランド王女マリナ・ムニシュフヴナと結婚。

ボリスの娘であり、フョードル二世の姉で美女と名高いクセニヤを妾とし、慰み者にしました。

しかし偽ドミトリー一世は、あやまちを犯しました。

妻マリナのカトリック信仰を認め、ロシア正教会に改宗させなかったのです。

さらに多くのカトリック・ポーランド人も擁護しました。

こうした態度が「偽ドミトリー一世は、宗教をないがしろにする」として見なされ、戴冠式の翌1606年、暴徒が寝室へ侵入。

あわてて窓から飛び降りて脚を骨折した偽ドミトリーは、呆気なく殺されてしまうのです。

燃やされた遺骸はさらし者となり、共同無名墓地に埋蔵されました。しかし……。

「ドミトリー様の墓には奇跡があるらしいぞ」

そんな噂が広まります。

これはまずい。遺体は掘り返され、焼かれ、火薬と混ぜられ、大砲に詰められ「人間大砲」とされ、ポーランドへ撃ち返されました――って、凄まじい対応で言葉を失いそうになりますね。

他にも、この偽ドミトリー一世に巻き込まれ、多くのポーランド人が殺害あるいは追放されました。

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