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【偽ドミトリー】
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喉を切られて死んでしまった本物のドミトリー
イヴァン雷帝の死後、ロシアの有力貴族は大打撃を受けていました。
英邁であったイヴァン皇太子が父親に殺されてしまい、残されたのは無害で無力な皇子たちだったのです。
父の跡を継いだのは、実に無害なフョードル一世でした。
実質的に政治の実権を握っていたのは、妃イリナの兄ボリス・ゴドゥノフ。
うまく取り入ったつもりのボリスには、大いなる誤算がありました。
フョードル一世と妹イリナの間に、子が生まれなかったのです。
甥の後見人として権力の座に居続けたい彼にとって、これは困ったことでした。このままでは次のツァーリを、フョードル一世の異母弟ドミトリーに取られかねません。
幼いドミトリーは、ゴドゥノフによってウグリチに追放されてしまいます。
そして1591年5月15日、庭で遊んでいたドミトリーは、喉を切られて死亡している姿で発見されました。
焦ったのはゴドゥノフでした。
彼はそこまでするつもりはありませんでしたが、状況からして、どう考えても彼の仕業にされることでしょう。
しかし、調査結果は驚くべきものでした。
「ナイフを持って遊んでいたら、てんかんの発作が起きて喉を切ってしまった」
って、んなアホな!
もちろん当時の人だって、誰もそんな話を信じませんでした。
現在では「ナイフ投げ遊びをしていて、刃を自らに向けた状態ならばありえる」というのが有力視されています。
偽ドミトリー一世登場! そして人間大砲に
1598年、ドミトリーの死から7年後、フョードル一世は子のないまま崩御しました。
これによりリューリク朝は断絶。
ゴドゥノフがボリスとしてツァーリとなります。
しかし、幼いドミトリーを殺したとみなされたボリスの人気は極めて低調でした。
それから二年後。
日本では関ヶ原の戦いがあった、1600年頃。
「ドミトリーが生きていた!」
そんな噂が流れました。
やがて噂は「真実であり、ポーランドが彼の支援をしている」という話まで広がっていきます。
折しもロシアは、大変な飢饉に苦しんでいた時期であり、ボリスの悪行への報いだと当時の人々は見なしていました。
そして、イヴァン雷帝の数々の悪行も、幼いドミトリーが見せていた残虐な性質の片鱗も綺麗サッパリ忘れてしまい、その自称息子を待ち望むようになったのです。
ボリスは偽デミトリー一世の軍に圧倒されるうちに、幼い息子フョードルを残し、1605年に崩御。
続けて即位したフョードル二世とその家族は、暗殺されます。
代わりに帝位についたのは偽ドミトリー一世でした。
彼はなんと、公式調査を行い「殺されたドミトリーは身代わりだった」という結果を流布させるのです。
かくして偽ドミトリーはポーランド王女マリナ・ムニシュフヴナと結婚。
ボリスの娘であり、フョードル二世の姉で美女と名高いクセニヤを妾とし、慰み者にしました。
しかし偽ドミトリー一世は、あやまちを犯しました。
妻マリナのカトリック信仰を認め、ロシア正教会に改宗させなかったのです。
さらに多くのカトリック・ポーランド人も擁護しました。
こうした態度が「偽ドミトリー一世は、宗教をないがしろにする」として見なされ、戴冠式の翌1606年、暴徒が寝室へ侵入。
あわてて窓から飛び降りて脚を骨折した偽ドミトリーは、呆気なく殺されてしまうのです。
燃やされた遺骸はさらし者となり、共同無名墓地に埋蔵されました。しかし……。
「ドミトリー様の墓には奇跡があるらしいぞ」
そんな噂が広まります。
これはまずい。遺体は掘り返され、焼かれ、火薬と混ぜられ、大砲に詰められ「人間大砲」とされ、ポーランドへ撃ち返されました――って、凄まじい対応で言葉を失いそうになりますね。
他にも、この偽ドミトリー一世に巻き込まれ、多くのポーランド人が殺害あるいは追放されました。
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