井伊家

小野政直とは?井伊家乗っ取りを実行した親子の真意を考える

著名な戦国大名や武将(有力国人)には、有力家臣が配下におり、そのキャラクターや人間模様が複雑であればあるほど後世の人間にっては面白くなる。
2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』も例外ではない。
井伊直虎の生まれた井伊家には小野一族という有力家臣がおり、そこに今川家や武田家、徳川家が関係してくることにより、複雑な物語を織りなしている。
第11回となる直虎・人物事典は、筆頭家臣であった小野政直に焦点を当ててみよう。

【TOP画像】小野家の本拠地(浜北区尾野)にある小野篁屋敷跡。同一族は平安の天才貴族・小野篁の末裔だという

 


いかにもな悪役親子的存在だが……

ドラマで小野政直役を演じるのは、いぶし銀の俳優・吹越満(ふきこし みつる)さん。高橋一生さん演じる・小野政次の父親役だ。
後にこの小野政次は、直虎から井伊家の所領を奪い取りながら、徳川家康の遠江侵攻で敢えなく討たれる運命という重要な役どころだが、そもそも井伊家の簒奪を企てていたのは父の小野政直からというのが定説。

一言で表すなら“悪役親子”というワケだが、しかしそこには単純な下克上とは思えない背景がある。
小野政直は、井伊家の人間を陥れるべく今川家に讒言したという記録が残されている。これが、少しながら腑に落ちないところもあり、まずは当時の周辺の状況から振り返ってみたい。

井伊家の本拠地・井伊谷は、遠江国の西端にある。
居城は井伊城(三岳城)。同国の守護は、かつて斯波氏であったが、今川氏に取って代わられると、不服に思った斯波氏は、引馬城主の大河内氏と井伊城主の井伊直平を誘って連合軍を編成、今川氏へ戦いを挑んだ。
結果は惨敗。
井伊城は今川家臣・朝比奈泰以によって落とされ、奥山貞昌が城番となって入城し、宗主の井伊直平は長きに渡って監視下に置かれることになる。

しかし20年後、今川家の宗主が義元に替わると、軍師・太原崇孚の提言によって井伊家の取扱に変化が現れた。
太原らは、井伊一族を今川の家臣として迎え、西隣の三河国侵攻の先鋒として使い始めたのだ。
拡大する戦火の中で、幾度も戦闘に駆り出された井伊家の人間は当然ながら犠牲になる者が多く、直平に替わって宗主となっていた直宗(直平の長男)も三河田原城の戦いで討死し、次の宗主には直盛(直虎の父)となった。※直盛も後に桶狭間の戦いに駆り出されて死す

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演劇「直虎」より・左から奥山貞昌、小野政直、朝比奈泰以

 


今川と同盟中の武田と一緒に反旗を翻す可能性はない

直盛の祖父である井伊直平は、今川氏に負けたことを悔やみ、憎んでいたかもしれない。

しかし、孫の直盛と言えば、後見人となる烏帽子親が今川義元であり、妻も新野氏(今川庶子家)の娘である。今川とは、立地だけじゃなく血縁的にも縁が深く、義元の重臣として申し分のない立場。
着実に勢力を伸ばす義元は駿河・遠江だけでなく三河もほぼまとめあげ、「海道一の弓取り」(東海道で最も優れた武将)と称されるようになった。

これにつれ戦いの舞台も、三遠国境から、三尾(三河と尾張)国境へと移っていく。
井伊家にとっては、大きな変化であった。
というのも、三河国が今川氏のものになれば、井伊領の地理的位置は「西端」から「中央」になり、戦場になる確率は極端に低くなる。
そこで問題となってくるのが、このときの小野政直の行動だ。

彼には、「井伊直満(三浦春馬さん演じる井伊直親の父)と直義の兄弟が武田氏に内通し、今川に反旗を翻そうとしていると義元に讒言した」という記録が残されている。

果たしてこれは真実なのだろうか。
武田信玄は今川義元と同盟を結んでおり、井伊領(今川領)へ侵攻するとか、井伊氏と組んで今川義元を倒そうなんて考えるハズがない。
そんな状況で義元に讒言したところで、それを信じるだろうか。そもそも信玄が駿河へ侵攻したのは後に氏真の代になってからであり、当時の甲斐は信濃侵攻で手一杯であっただろう。

 


「神(東照権現)である徳川家康が間違いを犯すはずがない」

ではなぜ、このような話がまことしやかに伝えられてきたのか。
考えられるのは江戸時代の「徳川中心史観」である。
権力者によって歴史が改ざんされるのは常。また、その配下の者たちが、自身の家や徳川に有利な記述をすることもよくあること。

「神(東照権現)である徳川家康が間違いを犯すはずがない」
そんな考えに沿っている気がしてならない。

確かに井伊氏は、小野政次と今川氏真によって直虎が地頭職から解かれ、その後、実質的に一度は滅びている。
後に赤鬼として恐れられる井伊直政が徳川家康に召し抱えられたからこそ今も歴史に名を刻んでいるのであり、そうでなかったら表舞台に出てくることもなかったであろう。

当然ながら井伊氏は、家康のことを微塵たりとも批判めいたことは書けない。よって、小野政直・政次親子が井伊領を横領した大悪人とし、これを処刑した家康の判断が正しかった――とするのが同家にとっても都合の良い解釈である。

現在の日本史学会のブームは「◯◯中心史観からの脱却」である。
その流れにあやかって考えてみると、この「小野政直の讒言」も違う見方ができる。
「井伊家内が、武田派(井伊直満・直義兄弟)と今川派に分裂し、目付家老の小野政直が主君の今川に報告したため、武田派のリーダーである兄弟が処分された」のではなかろうか。

複数の有力大名に囲まれている国人衆であれば、この手の出来事はそれこそ日常茶飯事である。

 

すべては今川との関係を深めるため――ならば説明がつく

小野政直の行動は讒言ではなかった――。と、これはあくまで私の想像だが、その立場からあらためて彼の行動を確認してみたい。

①井伊家は武田派と今川派に分かれそうになった
②小野政直は目付家老として主君の今川へ報告
②単なる「讒言」ではない
③筆頭家老として内部紛争を第三者に委ね、井伊家に遺恨を残さない

かように、もしかしたら井伊家をまとめるために起こした行動かもしれないのである。
おとわの婚約についても、「自分の息子と結婚させて、井伊領を横領しようとしていた」と推測されているが、単に「今川との関係を深くするため」という見方であれば、あながち己の権力欲のためとはならない。

実際、井伊直平の娘は今川義元の人質(側室とも・後に義妹として関口氏に下げ渡されて築山殿を生んだ)となっているし、井伊直盛の烏帽子親は今川義元であり、今川庶子家の新野氏の娘を正室としておとわ(井伊直虎)をもうけている。直虎自身も今川とはつながりの深い存在である。
こうした今川氏との縁を活用して、直虎を絶対王者・今川氏真の側室に出すとか、今川庶子家から婿を迎えることもできるし、それが当時としてはごく自然な流れであったようにも思えてくる。

そうならなかったのは、今川氏と戦って敗れたゴッドファーザー・井伊直平や、直満・直義兄弟の中に「反今川」の気持ちが燻っていたからであろう。
それもやむを得ないことだが、こと「家を守る」という観点からの行動とすれば政直ばかりを攻めるのも少し酷だ。

 


人の評価は儚いもの 時代によって大きく変わる

人物の評価は、時代の推移や研究の進展によって変わる。
たとえば井伊直弼は、幕末から明治にかけては殺されて当然の大悪人。明治42年(1909)の開国50年記念祭では井伊直弼・銅像の除幕式で、伊藤博文や井上馨、松方正義らが出席を拒否している。

その評価が好転したキッカケは昭和27年(1952)、舟橋聖一氏が小説『花の生涯』を毎日新聞に連載し、直弼の生涯を描いたことだった。

そして同小説を原作として撮影されたのが、第1回NHK大河ドラマ『花の生涯』であり、主演の井伊直弼を2代目・尾上松緑が演じている。
興味深いのは、2代目・尾上松緑の弟子が6代目・尾上松助であり、その子が第56回となるNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』で今川氏真役を演じる2代目・尾上松也であることだろうか。
2017年の大河により、今川氏や小野氏のイメージも好転することを私は密かに期待している。

なお、小野26代政直の子には、以下6人の息子がいたという。
・長男(27代)・政次:徳川家康に処刑されてお家断絶
・次男・朝直(小野玄蕃)─亥之助(万福、朝之)…(与板藩家老家)
・三男・太兵衛…
・四男・正賢(備中小野氏の祖)…
・五男・正親(高畑小野氏の祖)─正勝…政龍…
・六男・茂兵衛(井伊谷小野氏の祖)…
長男・政次の家系は徳川家康によって絶たれたが、弟たちの中には、現在まで続いている家もある。
また、小野家墓所は龍潭寺にある。

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小野家墓所(龍潭寺)

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。


自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 



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