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その日、歴史が動いた

地味だから有能なのか 有能だから地味なのか 6代将軍徳川家宣 【その日、歴史が動いた】

更新日:

 

歴史が好きになるきっかけはいろいろあると思いますが、有能だったり奇天烈だったり「ハデな人物に興味を持ったので」という方が大多数なのではないでしょうか。
そしてそのハデな人についていろいろ知ると、その途中で一風変わった人や優秀な人の名前が出てきて興味が移り、いつの間にやらすっかり詳しくなっていたなんてことも珍しくないですよね。ワタクシめもそのクチです。

が、歴史とは「かつての人々がどう暮らしていたか?」という事実なのですから、当然ハデなことだけでは成り立ちません。むしろ一般的に「誰それ」というような人の功績がとても大きかった……というケースも多々あります。
本日はそんな人のお話です。

寛文二年(1662年)の4月25日、後に江戸幕府六代将軍となる徳川家宣が誕生しました。「犬公方」で悪名高い綱吉の次の将軍ですね。
早速「WHO ARE YOU?」という声が聞こえてきそうですので、とっとと本題に移りましょう。

犬公方の甥っ子でしたが

この時代のお約束で、この人も名前がコロコロ変わっているのですが家宣で統一します。
家宣は綱吉の子供(養子ではある)ではありません。綱吉の弟である綱重の息子です。

徳川家宣

見栄えもパッとしませんが…/wikpediaより引用

綱重が正室と結婚する直前に、身分の低い女中に手をつけてしまったというこれまたテンプレな経緯で生まれました。そのため綱重は体裁が悪く、幼い家宣を家臣に押し付けてしばらく別の名前を名乗らせています。

先日の天一坊事件の記事でも似たようなことを書きましたが、デキて困るような関係の相手ほど命中率が高くなるのは何ででしょうね。この時代回避する方法も確立してないですし、当時はお偉いさんほど夜の作法がうるさかったので、気軽にストレス解消したかったという程度の理由なのでしょうけども。

一応トーチャンのフォローをしておきますと、綱重は以前ご紹介した数学マニア・関孝和(過去記事:好きこそ物の上手なれ……にも程がある数学(和算)オタク関孝和死す【その日、歴史が動いた】)を召抱えています。ただの手が早い殿様ではなかったのです。
孝和は後々家宣のお供をして江戸で働き、和算の発展に努めているので、ある意味トーチャンからの最大の遺産だったかもしれませんね。
閑話休題。
結局綱重はなかなか男の子に恵まれず、結局家宣が呼び返されて徳川姓を名乗るようになります。何だかなあ。

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順番待ちには慣れてたが48才で将軍はさすがに

実は、家宣という人はこの手の「順番待ち」を生涯何度も経験しています。
彼が生まれたときの将軍は伯父にあたる四代家綱だったのですが、やはり息子がいませんでした。そのため一度五代将軍候補になったものの、「家綱様の弟君である綱吉様が先に将軍になるべき」ということで、五代目は綱吉になったのです。

さらに六代将軍になるときにも、綱吉の娘が紀州藩主の綱教(つなのり。八代吉宗の長兄)に嫁いでいたため、「綱教殿に男子が生まれたら、本家にもらって将軍にしよう」ということでしばらく家宣は保留されていました。
綱教自身も将軍候補になっていましたが、本人が早世しさらに男の子が生まれなかったので、血筋の近い順ということでようやく家宣にお鉢が回ってきたというわけです。

こうした回りくどい経緯があったため、家宣が六代将軍の座についたときには既に48歳。当時の感覚でいえばすっかり初老です。というか原義的には初老=40歳なので立派な老人です。

どうでもイイ話ですが、もし現代でもこの基準だったら国民の半分近くは老人になっちゃいますね。キャーコワーイ(棒読み)

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家宣様バンザイ! これで鰻が食える!!

家宣自身にもあまり時間がないことはわかっていたようで、将軍への就任が決まると、綱吉の葬儀が終わる前から仕事を始めました。
まずは、天下随一の悪法と名高い(低い?)生類憐みの令の廃止です。実質的には処罰のみ廃止・法令そのものは残したそうなので、ルールからマナーへの変更というところでしょうか。

真っ先にここへ手をつけたことで、家宣は幕臣からも庶民からも「家宣様バンザイ!これで鰻が食える!!」と喝采を浴びます。
※生類憐みの令では、食べるために魚を販売・調理するのも禁止されていました。日本は魚食文化なのにどういうことなの。

また、実家から連れてきた新井白石や間部詮房を中心に据え、綱吉が推し進めてきた文治的な政治を確立させたのも家宣です。
このようにやる気満々な将軍だったのですが、その座に就いてからわずか二年後、50歳で亡くなってしまいました。残念。

多分もっと長生きしていれば教科書でも太字表記、もしくは先生から「ここ赤線引いとけよ」という扱いを受けることになったのでしょうが、二年では制度の変更はできても、実質的な効果が出るにはあまりにも時間が足りません。

現代でも、新しい法律ができてから施行までには時間がかかるものですしね。

男系男子の不在に備えて

ただ、その中で一つだけ現代にも通じている改革がありました。
皇室に新しく閑院宮家(かんいんのみやけ)を作ったことです。

宮家というのは簡単に言えば皇室の分家のようなもので、当代の天皇に男系男子がなかった場合、皇位継承者を確保するためにいくつか創設されてきました。
現在では、昭和天皇のご兄弟である常陸宮家・三笠宮家、三笠宮家から独立した桂宮家・高円宮家、皇太子殿下のご兄弟である秋篠宮家があります。

現代でも皇位継承者候補の人数が少なすぎるということで問題になっていますが、江戸時代にも同様の危機が迫っていました。

当時は伏見宮家・京極宮家・有栖川宮家という三つの宮家があったものの、これらのいずれかを継がない皇族は全て出家しなければならないというわけのわからんルールがありました。
これを危ぶんだ新井白石が「何があるかわかりませんから、もう一つくらい宮家があったほうが良いのでは?」と建言したことから始まり、家宣と朝廷の間でも合意が得られたため、幕府から資金を出して新しく宮家を作ったのでした。

もし閑院宮家の創設がなかったら…

後世、白石の予感は見事に当たります。

約60年後に直系の皇位継承者が絶えかけた際、閑院宮家から光格天皇が即位したのです。これまた以前ご紹介した、御所千度参り・天明の大飢饉のときの天皇ですね。
詳しくは過去記事をご覧いただければ幸いです→幕府へ物申した天皇、隠れた名帝・光格天皇崩御す【その日、歴史が動いた】

幕末の天皇としてちょくちょくお名前が出てくる孝明天皇や、怒涛の西欧化に対応していった明治天皇はもちろん、今上陛下もこの方の子孫ですので、もし閑院宮家の創設がなかったら、今頃皇室が存在していなかった可能性もあるということになります。大変どころの話じゃありません。

現在、天皇陛下が実質的な国際席次No1であることを考えると、大げさな話「家宣(と白石)が世界平和の礎を築いた」と見ることもできますね。
影が薄いからといって、やってたことが無意味とは限らない好例といえそうです。

 

長月七紀・記

 

 

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家宣

 




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