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織田家 その日、歴史が動いた

織田信雄が信長の血を残す! 典型的ダメ武将の意外な結末とは?

更新日:

歴史上の人物が評価されるとき、ほとんどの場合は「華々しい功績を挙げたかどうか」が焦点になりますよね。
いわゆる三英傑(織田信長豊臣秀吉徳川家康)などはその典型でしょう。

が、これを「後世まで続く何かを残したか?」という視点に切り替えてみると、実は有名・人気の高い人でも落第してしまうことが多々あります。先の例で言えば、信長は本能寺の変で部下に裏切られて亡くなっていますし、秀吉は後継者をきちんと教育できず、さらに有力な後見人も立てられなかったということになってしまうからです。

厳密に言えば秀吉は前田利家と家康に秀頼を託してますが、利家は秀吉の死から半年ほどで亡くなり、家康には見事に裏切られたのでカウントなしでもいいかと。

というわけで、この三人の中で両方ともやってのけたのは家康だけなんですが、どうにもこうにも狸のイメージが消えないせいか、なんとなく「家康サイコー!!」とは言いがたい雰囲気があるような気がします。

 

家を残すのは難しい

ですが、お家を残したという面について評価するのであれば、ほとんど世の中に知られていない人物も多く該当してきます。

寛永七年(1630年)のあす4月30日に亡くなった、織田信雄もその一人です。

読み方が「のぶお」なのか「のぶかつ」なのか、信長の次男なのか三男なのかという割と大事なことすらはっきりしていないというテキトーぶりですが、多分後述の諸々のせいで当時の人も記録する気が失せちゃったんじゃないですかね……というのは穿ちすぎでしょうか。

逆に幼名がはっきり伝わっているのが不気味なほどです。
以前松平忠輝の記事で「家康はやたらと子供の顔にこだわる」という話をしましたが、逆に信長は子供の名前に妙なセンスを発揮する人でした。

当コーナーイチオシの長男・織田信忠は「顔が奇妙だから」奇妙丸、信孝は「三月七日生まれだから」三七丸、そして信雄は「髪の毛結ったら茶筅(ちゃせん。お茶点てるアレ)みたいになりそうだから」茶筅丸という、身も蓋もない命名をされています。
誰も止めなかったんでしょうか。……止められなかったんですかねHAHAHAHAHA!

他にも「母親が”鍋”だから」というわけのわからん理由で「酌」と名付けられた人もいます。ホントどっから出てくるんだこんな名前。キラキラネームとか目じゃないですね。

一方女の子には比較的普通の名付けをしているので、余計信長のセンスがわかりません。「男は元服すりゃ名前変えるんだから、幼名なんざテキトーでいいんだよテキトーで」だったのか、「バッカお前、女の子は嫁ぐんだからまともな名前にしなきゃマズイだろ!」だったのか、はたまたまったく別の理由があったのか……。

 

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名門北畠の養子になったはいいが無断で伊賀に攻めいり失敗

さて、戦国時代もしくは織田家がお好きな方には「ああ、あのアホね」の一言で片付けられてしまう信雄ですが、最初のうちは比較的まともでした。信雄比では、ですが。

彼は信長の戦略の一環・伊勢方面攻略の手段として、同地の大名である北畠家の婿養子に入り、実質的には乗っ取っているのです。

その後、武田信玄に寝返ろうとしていた家臣を粛清しています。そこまではよかったのですが、その後、信雄のバカ殿伝説が始まってしまうのです。

まず最初に、無断で伊賀(現・三重県西部)に攻め入った挙句ものの見事にやられ、信長に「何やってんだド阿呆!親子の縁切るぞゴルァ!!」(※実話)とこってり絞られています。”基本的には”身内に甘い信長がいきなり縁切りを言い出しているのですから、その怒りの程が窺えます。

このとき、信雄が養子入りするときにつけてやった柘植保重(つげやすしげ)という重臣が討死してしまっているので、そりゃ信長もキレるわという話ですね。
そんなアホでもきちんと守った柘植△。

 

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本能寺の変後は、行動がすべて意味不明

その後の信雄の行動は、生涯を通して「??????」といいたくなるようなものばかりです。

例えば、本能寺の変の際は甲賀(現・滋賀県)まで軍を率いてきたにもかかわらず、何故か引き返しています。前後して安土城に放火したという噂もあるくらいです。ワケワカメ。

また、秀吉vs柴田勝家・織田信孝(上記の異母兄弟)の戦である賤ヶ岳の戦いでは秀吉方につきましたが、秀吉とうまくいかず、翌年の小牧・長久手の戦いでは家康側についています。
そこはまだいいにしても、勝てないとわかると家康に無断で単独講和を結んでしまうというアホぶりです。

家康としては「信雄サマのお味方を致します」という大義名分で秀吉に敵対した戦いだったので、大将である信雄が降伏してしまうと戦う意味がなくなるという大問題が発生してしまいました。
この戦いの結果如何によっては家康のベンチウォーマー期間はショートカットできたかもしれませんので、さすがの狸も(#^ω^)ビキビキな気分になったことでしょう。

 

関ヶ原では渋い役割演じたつもりなのにだれにも気付かれずに改易

関が原の際は大坂城内で「様子を窺う」という高等スキルを披露しましたが、あまりに高度な技術だったため誰も理解することができず、「お前、西軍側の城にいたんだから改易な」ということであっさり領地を取り上げられてしまいました。

しかし、懲りずに豊臣家へ再出仕し、大坂冬の陣直前に徳川家につくというこれまたウルトラCを見せ付けてくれます。
最初から間者のつもりで入り込んだとも言われていますが、上記の経緯を見るとガチで「もう豊臣オワタだから逃ーげよっと」なんて考えていそうな気がしてきますね。

ちなみに、大坂夏の陣の後はちゃっかり大名に復帰しています。そこからが一番大名らしいともいえる期間で、産業を奨励したり庭園を造らせたり、生前に財産分与をきちんとやってから隠居生活を楽しんでいたようです。

こんな感じで行動に一貫性がないというか、周りの迷惑や自分の立場を全く考えてなさそうな言動ばかりだったので、当時から「またあのアホがやりやがったな」的な扱いをされていました。
アホのふりしてお家を守った大名も多々いますが、信雄の場合本気でやってたとしか思えないのがまた何とも(三谷幸喜監督の映画『清須会議』でも妻夫木聡さんが思いっきりアホな信雄を演じられておりましたね)。


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隠居の邸宅は京都のここらへん↑

 

長い眼でみるとすごい男よ

さらにわけのわからんことに、途中転封や家格が下がったにもかかわらず、彼の子孫はしっかり明治時代まで存続しています。

系統によって大名家だったり旗本(直接将軍に会える最低の身分)だったりしますが、血筋そのものが残っているということ自体がスゴイ話です。一応。

というわけで、一応(二回目)信雄も広い意味での「勝ち組」と捉えることができるのですが……何でしょうねこの違和感は。
一番普通の人に近いといえば近いのですけれども、あの信長の息子だからこそそのギャップにガッカリしてしまうのかもしれませんね。

長月 七紀・記

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参考:http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2008/04/post_a5f6.html
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/織田信雄

 




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