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西郷どん特集 その日、歴史が動いた 幕末・維新

惜しまれる早逝の志士・小松清廉(小松帯刀) 幕末のビッグイベントは彼抜きには語れない

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幕末の俊才・小松清廉 通称・小松帯刀

神様や運命を信じるかどうかは人それぞれ。しかし、歴史をひもといていくと「ここでこの出来事があったなんて、タイミング良すぎじゃね?」と思うこともままあります。
それが人の生死に関わることであれば、世の無常や現実の厳しさが身にしみますよね。
本日はまさにそういった一生を送った、幕末の俊才のお話です。

明治三年(1870年)7月20日は、小松清廉(きよかど)が亡くなった日です。通称の「帯刀(たてわき)」でご存じの方も多そうですね。

大河ドラマの幕末モノでもお馴染み、薩摩藩きってのフットワークと頭の回転を持つ人物。それだけに、明治に入ってたった三年での死去は多くの人に惜しまれました。
激動の時代を、清廉はどのように駆け抜けていったのでしょうか。

【TOP画像】小松清廉/wikipediaより引用

 

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昼夜を問わず勉学に励み身体を弱めてしまう

清廉は、薩摩藩鹿児島城下に屋敷を構える肝付家に生まれました。これで「きもつき」と読みます。そのまんまではありますが、初めて見るとびっくりしますよね。

上にお兄さんが何人かいたようなのですが、特に両親は次兄を寵愛しており、寂しい幼少期を過ごしていたとされています。
現在で言えば中学生くらいの歳からは学問に目覚め、漢学者について儒学を学びました。もしかしたら、学問を身に着ければ両親が自分を見直してくれるかも、と思ったのかもしれません。子供にそんなこと思わせたらアカン(´;ω;`)ブワッ

しかし、あまりにも熱心すぎて昼夜を問わず勉強していたらしく、元々丈夫ではない体質をさらに弱めてしまいました。
20歳にもならないうちから、寝こんだり湯治に行くことも珍しくはなかったようです。しかも、湯治に出かけた先でも土地の人や身分の低い人にいろいろな話を聞きに行っていたとか。

また、歌道や武術にも励んでいたとのことですので、薩摩藩士として恥じないようになろうという気持ちがかなり強かったのではと思われます。
その心構えは立派ですが、もっと自分を大事にしてほしかったですね……。この時期に彼を諌めたり気遣ってくれる人がいなかったことが、清廉の最大の不幸かもしれません。

 

わずか2ヶ月の江戸勤務を経て小松家に婿入り

清廉の努力が実ったのは、彼が21歳になった年のお正月のことでした。
鹿児島城の奥小姓に任じられ、同じ年の5月には江戸で働くようにと命じられたのです。長年の苦労が報われ、清廉もやる気に満ち満ちていたことでしょう。

しかし、江戸にはわずか2ヶ月しかいられませんでした。特に何か問題があったわけではなさそうなので、おそらく結婚のためだと思われます。
江戸からとんぼ返りした翌年、薩摩の吉利(現・日置市日吉町吉利)という場所の領主である小松家に婿養子入りしているのです。小松家当主・清猷(きよもと)に子供がなかったので、その妹・近(ちか)と結婚することになったのでした。
もしかしたら、奥小姓や江戸詰めも「他の家を継げるだけの力量や人柄があるか」という試験だったのかもしれません。

そして無事お眼鏡に適った清廉は、小松家の家督を継ぎました。「清廉」に名を改めたのは結婚から三年後のことです。
この年に島津斉彬が亡くなり、最後の薩摩藩主となった忠義が跡を継いでいます。同時期に主従両方で世代交代が起きていたんですね。

 

日本初の新婚旅行は龍馬ではなく清廉さんでした

島津忠義は清廉の才を見込んで、薩摩の洋式技術所・集成館や、貨幣の鋳造を任せました。
その後も長崎に行って軍艦や西洋の砲術・砲について学んだり、藩政改革に取り掛かったりと、重要な仕事を次々に受け持つようになっていきます。
この頃の部下に、大久保利通がいたといわれていますね。上記の通り、清廉は若い頃から身分の別け隔てなく話す人でしたので、当時から大久保と親しく話したこともあったのでしょう。

大久保との目立った逸話はないようですが、西郷隆盛との間にちょっと面白いエピソードがあります。

西郷は自宅で初めて清廉を迎えた際、わざと寝転がって器量を試したといわれているのです。普通の人ならムカ着火ファイヤーどころじゃありませんが、清廉は怒るどころか、枕を持ってこさせて西郷をゆっくり眠らせてやろうとしたとか。心、広すぎ。
西郷は慌てて飛び起きて非礼を詫びました。

また、忙しい合間をぬって妻を気遣っていたようで、結婚から間もない頃に薩摩藩内の栄之尾温泉へ旅行したことがあります。

これが日本初の新婚旅行といわれていますね。知名度のためか、坂本龍馬のほうが有名ですが、小松夫妻のほうが10年ほど先。

これらの逸話からも、清廉が身分や性別別け隔てなく、真摯に接していたことが伺えますね。

大久保利通/国立国会図書館蔵

 

四侯会議や討幕の密勅、大政奉還にも関わる

清廉の学んだ技術は薩英戦争や蒸気船建造に活かされた他、同時に朝廷・幕府・他藩との連絡及び交渉もこなすなど、多忙な日々が続きました。
……いくら何でも働き過ぎだと思うんですが、当時の薩摩にそういう視点のある人はいなかったんですかね。

しかし、清廉はかつて自ら体を壊しながらも学問に励んだような人です。

「藩のため、ひいては日本のため」

そう思って、無理を続けていたのでしょう。
洋学校・開成所の設置や、禁門の変で苦しむ京都市民に、(長州からぶんどった)米を配ったり、第一次長州征伐では長州が謝罪するために動いたり、坂本龍馬と親しくなって海援隊設立の援助をしたり、文字通り休む間もなく働き続けます。
薩長同盟締結の場も、清廉が京都に持っていた屋敷だという説がありますね。

イギリスとの友好に努める一方で、四侯会議・討幕の密勅・大政奉還といった幕末から明治維新までのビッグイベントにはだいたい関わっています。
その功で明治新政府から1000石をもらっていますが、正直、清廉の働きに対して少なすぎるような感は否めません。他にもこの手の褒美をもらっていた人がたくさんいるので、清廉だけに大盤振る舞いするわけにもいかなかったのでしょうけれども。
それにしたって、島津家から別にお手当があってもいいような気もします。

 

享年35、あまりにも惜しまれる死

そんなこんなで新政府になっても清廉の多忙ぶりは続きました。

が、ついに明治になると、腹部にしこりを生じるまでになります。左下腹部だったことオランダ人医師アントニウス・ボードウィンが「切除は困難」と診断していることからすると、大腸がんなどでしょうか。
清廉本人も、既に死期を感じていたのかもしれません。領地や家格の返上、辞職を願い出ています。それに対して褒美も出ていますが、慰安のつもりならもっと早くから気遣って欲しかった。

明治三年の年明けには遺言書も作っており、いよいよ……と思っていたようです。

そして7月21日、側室の琴に看取られて亡くなりました。享年35、あまりにも惜しまれる死でした。
いくら覚悟していたとはいえ、さぞ無念だったことでしょう。これではまるで、清廉は明治維新のために生まれて死んだようなものです。

歴史を遡ってみれば秀吉の右腕だった豊臣秀長が働き過ぎの結果、兄より先に亡くなり、その後、政権がズタボロになったという例があるにもかかわらず、これほど有能かつ好人物を使い潰してしまったのは大きな損失でしょう。

まぁ、今も「有能な人や善良な人ほど仕事を押し付けられ続けて潰される」というのは変わりませんよね。
職場がブラック、あるいはブラック上司がいたならば、「あなたの感覚は400年前のレベルなんですね」くらいは言ってやってもいいかもしれません。

長月 七紀・記

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参考:小松清廉/wikipedia

 

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