ナポレオン戦争時代の軍人は、フランスにおいて大変人気があります。
日本における戦国時代や幕末維新の人気武将(侍)のようなものでしょう。
その中でも、とりわけ人気を博しているのが1815年12月7日に亡くなったミシェル・ネイ(1769-1815)です。
燃えるような赤毛。
「勇者の中の勇者」と呼ばれた人物像。
彼の銅像はパリでもっとも素晴らしいと評価されているとか。
こんなにも人気と実力を備えていたのに、彼は銃殺という最期を遂げてしまいます。
あるいは、悲劇的な最期だからこその人気かもしれません。
一体、彼はどんな罪を犯したのでしょう。
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樽職人の息子から元帥へ
1769年、樽職人のネイ家に、ミシェルという男の子が生まれました。
場所はロレーヌ地方のザールルイ。
現在はドイツにある町ですが当時はフランス領であり、国境地帯だけに軍人も多く、ミシェルの父も従軍経験がありました。
父から従軍経験を聞いて育ったネイは、次第に戦争に憧れるようになります。
彼は血の気が多く、燃えるような赤毛と澄んだ青い瞳を持つ、大柄な青年に育ちました。
このままでは、息子は軍人になってしまう。
父は焦りました。
革命前のフランスでは、平民出身の軍人に出世ルートはありません。
かつて自分が味わった苦労と悔しさを息子に味会わせないためにも、父は息子に堅気の道を歩ませようとします。
父は息子を学校に通わせ、公証人事務所で働かせました。
しかしデスクワークを嫌うネイはすぐにやめてしまい、肉体労働を始めてしまいます。
そして19才の年には、とうとう軍隊に入ってしまうのです。
体格がよく、血気にはやるネイは、まさに軍人向きでした。
それから数年後、フランス革命が起こります。
平民の息子であろうと、実力さえあれば将軍となれる時代の到来でした。
メキメキと力を発揮したネイは、あっという間に出世していきます。
どちらかというと猛将タイプの彼は、副官のジョミニを重用。後に『戦争概論』を記すジェミニは、ネイの戦略をよく助けました。
こうして順調に出世を遂げたネイは、1804年にナポレオンが皇帝に即位すると、元帥に任命されるのです。
樽職人の息子が元帥に——ネイはまさにフランス第一帝政の輝く星でした。
ルイ18世が戻って来た!?
勇猛果敢、部下を大切にするネイ。
そんな彼の勇気が最も輝くのは、撤退戦でした。
敵の追撃を受ける撤退戦は危険なものです。
そんな局面でも、最後まで部下を見捨てずに戦い抜くネイは、まさに「勇者の中の勇者」でした。
1814年。
無敵の帝王であったナポレオンが、敗北に敗北を重ね、ついに帝位を追われました。
フォンテーヌブロー城でナポレオンに退位勧告をつきつけたのは、他ならぬネイでした。
ナポレオンとともに戦ってきた部下たちも、皆疲弊しきっていました。
ランヌ、ベシェールといった元帥らも、果敢に戦った末に戦死を遂げています。
ネイにとってナポレオンは大恩人ではあるけれども、もはやこうなっては仕方ありません。ナポレオンはそれを受け入れ、エルバ島へと去りました。
革命以来イギリスに亡命していた王族が、やっとフランスに戻りました。
そして、王弟アルトワ伯(のちのシャルル10世)の帰還パレードで、ネイは唖然としてしまいます。
家の窓からは、ブルボン家のシンボルカラーである白い布が掲げられ、熱狂的な歓声を送っていたのです。
かつてフランスの人々は王族を嫌い、王と王妃らを処刑し、その子供たちを幽閉し虐待しました。
王族なんて殺したいほど憎んでいたはずなのに、掌を返して大喜びしているのです。
一体どういうことなのだろう。
革命のおかげで大出世を遂げ、ナポレオンによって栄光を味わってきたネイにとって、市民たちの反応は理解しがたいものでした。
そしてついに、王その人が戻ってきます。
帰ってきたルイ18世は、魅力的な人物であったとはあまり思えません。
59才でこってりと太り、緊張感に欠けた人。
ナポレオンの家臣であったタレーランは、ルイ18世について「嘘つき、エゴイズム、鈍感、享楽家、恩知らず」と、極めて厳しい評価を下しています。
しかし、純朴なネイはそうは思わなかったようです。
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