1913年に前身の宝塚唱歌隊が結成されてから、かれこれ一世紀以上の歴史を持つ宝塚歌劇団。
生い立ちから現代に至るまでの流れを以下の記事に記させていただきましたが、
宝塚歌劇団の歴史まとめ~小林一三の魂は数多のタカラジェンヌに引き継がれ
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どうしても書き足りない部分がありました。
それが戦火の中の宝塚です。
夢を与えるはずの見目麗しき女性たちの鍛え抜かれた美声やダンスは戦争へと駆り出され、公演のため広島に出向いた者の中には、昭和20年(1945年)8月6日の原爆投下によって被爆死した方もおりました。
宝塚は、こうした苦難をいかにして乗り越え、いかに復活を遂げることができたのか。
そこには幾多のドラマがありました。
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太平洋戦争の直前にアメリカで公演!?
1939年(昭和14年)。
当時、宝塚少女歌劇団が海外公演をしてた、と言うと意外に思われるかもしれません。
前年には、日中戦争が始まっておりましたし、それから約2年後にはアメリカとの戦いに進んでいくのです。とても海外でショーを披露することなど出来そうにありません。
しかし、劇団員たちは豪華客船で太平洋を渡り、ニューヨークで公演を披露するのでした。
この数年後、この国の人々と敵対するとは夢にも思わなかったかもしれません。
このニューヨーク公演の劇評はなかなか辛辣ではありました。が、一方で、劇団創設者にして日本エンタメ界の改革者・小林一三としては手応えを感じる部分もあったようです。
小さな事故は、帰国の途中で起きました。
帰りの船舶に、カナダのバスケットボールチーム選手も同乗。彼らは日本で行われる試合に参加する予定でした。
若い者同士ですから会話も弾みますし、カナダの選手たちは宝塚の公演も見に来てくれていたそうです。
劇団員たちは感謝し、日本での試合にはきっと駆けつけますと約束しました。
彼女らは約束を守り、試合観戦に向かいます。
と、これがマスコミにバッシングされたのです。
「宝塚の女どもは、チャラチャラと着飾ってカナダ男の試合に押しかけた挙げ句、夕食までともにとって恋人気取りだった」
マスコミのスクープしたニュースに、日本全国が激怒しました。
「中国ではお国のために日本男児が戦っているのに、外国男といちゃつくとは言語道断である」
大げさな物言いですが、時代が時代だけに仕方のないことだったのかもしれません。現代ですら、アイドルのお泊まり疑惑は報道が過熱したりします。
しかもこの騒ぎは、マスコミだけにとどまらず、しまいには陸軍憲兵隊まで調査に乗り出す始末。
劇団関係者は軍部から呼び出しを受けた挙げ句、こっぴどく叱られました。
「けしからん連中だ、国民が怒るのももっともだ。陸海軍も国賊だと思っている!!」
吊し上げを浴びせられると同時に、劇団関係者は陸軍の狙いも察知していました。
「中国大陸で戦う兵士たちに、歌劇団の少女を慰問に送り込めばいい景気づけになるぞ」と、国策に従って公演を行うよう、誓約をさせられたのです。
これが、後の宝塚に大きな影を落とすことになりました。
国威発揚の一環で演目が戦時色に変わる
1940年(昭和15年)、8月。宝塚のファンたちはあることに気づきました。
グランド・ショウの『レッド・ホット・アンド・ブルウ』が、『光と影』に改称されたのです。
「レビュー」という言葉も消えました。
真珠湾攻撃はまだ先のこととはいえ、既に「欧州模倣はやめて日本的な歌劇とすべき」として、外来語が消され始めたのです。
欧州スタイルが売り物の宝塚だって、横文字をやめた――。
そうなれば国民の気も引き締まるだろう、という狙いもあったことでしょう。
同じ年、ついに全国のダンスホールが閉鎖されるに至り、1943年(昭和18)にはジャズ演奏も全面禁止となります。
代わりに、軍歌による歌謡ショーが公演されることになりました。
1940年(昭和15年)の公演『太平洋』では、砂浜で少年たちが海軍に入ることを憧れとして語る場面がありました。
戦争は宝塚の中にも着実に入り込み、そして舞台上で再現されていくのでした。
『東亜の子供達』
『太平洋の子供達』
『赤十字旗は進む』
そして最後の公演『翼の決戦』
タカラジェンヌたちは、中国に送り込まれたスパイや、凛々しい兵士を演じました。
その勇姿は、少年たちの憧れの的にもなるほど。
かつて宝塚を見る男は女々しいと笑われたものですが、皮肉にもこうした国策演目は受け入れられたのでした。
もちろん生粋の宝塚ファンんとっては嘆かわしいばかり。
華麗な舞台に銃声が響き、スターたちが軍服を着ることに失望していました。
それでも宝塚は、戦争によって日本の景色がモノクロに塗りつぶされてゆく中、ただひとつ色あざやかな夢の場所であったのです。
1943年(昭和18年)3月、劇場封鎖を通告されて最後の舞台となった『翼の決戦』。
これが最後の舞台だと押しかけた観客たちは、頰を涙で濡らしてこの公演を見届けます。
公演が終わってもファンたちはその場を去ろうとはせず、ついには警官隊まで出動するほどの大騒ぎになったのでした。
「アン・ドゥ・トロワ」ではなく「一・二・三」
この時代、劇団員たちの苦労は並大抵のものではありませんでした。
宝塚のトレードマークであった緑の袴ではなくモンペを履くにとどまらず、とにかく物資が入手できません。
バレエダンスのためのトゥシューズ。
ストッキング。
食料や日常品すら事欠くのですから、こうした「贅沢な欧州かぶれ」品を手に入れることは至難の業であります。
敵性語も追放され、バレエの練習でも「アン・ドゥ・トロワ」ではなく「一・二・三」と言わねばなりませんでした。
さらには劇場を海軍に接収され、勤労奉仕で練習もできない中、華やかな舞台への憧れだけが募ったのです。
やがて大阪は空襲に見舞われ、何も残らないと言われたほど焼き尽くされます。
当然ながら舞台どころではありません。
劇場からは灯りが消え、劇団員たちも疎開して各地に散らばってゆくのでした。
このころ戦火に巻き込まれて、命を散らした団員たちもいました。
東京の実家に帰省していた清美好子は、東京大空襲で死亡。
結婚するために退団し、三重県津市に嫁いだ糸井しだれは、空襲により爆弾が直撃し、26才の若さで亡くなります。
退団後に女優として活躍していた園井恵子は、移動劇団「桜隊」に参加していました。
彼女を含めた「桜隊」のメンバーは、1945年(昭和20)8月6日の原子爆弾投下に遭遇。
あの地獄の瞬間を超えて生き延び、終戦を迎えた彼女は「これでまたお芝居ができる!」と目を輝かせ、喜びました。
しかし……。
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