大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送により、一気に注目度の上がった源平~鎌倉時代。
いったい何をもとに描かれたのか?
というと、最も影響力の強いのが『吾妻鏡』でしょう。
鎌倉時代を記した書物ですと『愚管抄』や『平家物語』あるいは公家の日記などもありますが、それでも『吾妻鏡』が注目されるのは、
「武士が初めて、自ら作った歴史の記録」
という大きな特徴を有し、以仁王の令旨から元寇直前の文永3年(1266年)まで記されているからであります。
ただし、何事も最初のトライには失敗がつきもの。
吾妻鏡は大きな存在意義を持っていますが、同時にいくつかの欠点も有しておりましたが、それは一体なんなのか?
治承4年(1180年)5月26日は以仁王の挙兵があった日。
今回はこの書物の成り立ちについて、少し詳しく見てみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
吾妻鏡は東鑑とも表記
まずは「吾妻鏡」というタイトルの背景からいきましょう。
実は「東鑑」とも書きます。
しかし、他の鏡物(大鏡・今鏡・水鏡・増鏡)と区別しやすいからなのか。
※以下は鏡物の関連記事となります
大鏡・今鏡・水鏡・増鏡の「四鏡」にはそれぞれ何が書かれているか?
続きを見る
三文字表記のほうが多い気がしますね。
「吾妻」も「東」も、東日本のこと。
その由来は、鎌倉時代からしてもはるか昔、神代の時代にありました。
日本神話の英雄として名高い、かのヤマトタケルが、東国遠征の際、海の神に邪魔されて船が進めなくなったことがあります。
このとき、同行していた妃・弟橘比売(おとたちばなひめ)が自ら生贄となって海を鎮め、ヤマトタケルは先に進むことができました。
ヤマトタケルは彼女のことを本当に深く愛していたようで、このことを後々まで悔やんだとされています。
そして東国の神々平定が終わった後、とある山から東国を見渡して
「吾妻はや」(=わが妻よ)
とつぶやいた……のだそうで。
それから、東日本を「吾妻」=「東」と呼ぶようになった、とされています。
京都の貴族たちは、後々に至るまで東日本を「野蛮人だらけの地域」とみなしていましたが、その名の由来は、かなりの歴史を持っていたんですね。
鎌倉幕府の公式歴史書
では、吾妻鏡そのもののお話へ移りましょう。
この本は、ひとことで言うと「鎌倉幕府の公式歴史書」です。
しかし、元寇のドタバタで編纂が中断し、その後はそれどころじゃなくなって放り出されてしまいました。
元寇「文永の役・弘安の役」は実際どんな戦いだった?神風は本当に吹いたのか
続きを見る
結果、「日本史上初の本土侵略」という大事件である元寇についての記録がすっぽ抜ける……という、歴史家涙目な事態にもなっています。
まあ、当時の武士にどのくらい「記録をつけることの重要さ」が理解できていたのかも謎ですし、仕方のない面もありますね。
そんなわけで、吾妻鏡は治承四年(1180年)以仁王の令旨に始まり、文永三年(1266年)に六代将軍・宗尊親王が京都に帰ったところで終わっています。
そのうち真ん中の12年ほどが抜けているのですが……途中で散逸したのか、元々ないのかはわかっていません。
また、全部で何巻あったのかもハッキリしていないようです。
今後見つかったら世紀の大発見でしょう。
形式は、時系列順に出来事を記していく「編年体」となっています。
近い時代に成立したと考えられる「水鏡」が編年体ですので、それを手本にしたのかもしれません。
水鏡の成立から吾妻鏡の成立まで、だいたい100年ぐらい経っていますから、幕府の方でも水鏡の写本は手に入ったでしょうし。
ちなみに、これは「元寇が終わって20~30年後くらいに吾妻鏡が成立した」ということにもなります。
鎌倉幕府の滅亡まであと30年あるかないか、というタイミング。
この頃は恩賞問題に加え、御家人と御内人の対立が激化していたあたりですから、吾妻鏡の編纂が続けられなくなったのもむべなるかな、という感じがしますね。
※続きは【次のページへ】をclick!