明智光秀と坂本龍馬/wikipediaより引用

幕末・維新

龍馬のご先祖様が光秀の縁者説どこまでマジか 家伝史料を見てみたら

坂本龍馬が、あの明智光秀(縁者)の子孫だった――そんなことを申し上げると、十中八九は「アタマ大丈夫?」と引かれるだろう。

それはわかる。私だってそう思う。

しかし、まったくの根拠ゼロで申し上げているワケでもない。

例えば龍馬の実家・坂本家には「明智光秀の子の子孫」とする家伝と、「土佐国国司・紀貫之ら紀氏の子孫」とする家伝が存在する。

他ならぬ坂本龍馬は「紀氏の子孫」だと自称。

彼の墓には「坂本龍馬直柔之墓」と彫られており、ならば明智は関係ないではないか?とツッコまれるかもしれない。

坂本龍馬の墓(京都・霊山墓地)/photo by PHGCOM wikipediaより引用

他に状況証拠として以下のような見解が挙げられている。

・明智は謀反人であるから龍馬も子孫とは自称せず

・「坂本」の姓は、明智光秀の居城「坂本城」から

・「亀山社中」は、明智光秀のもう1つの居城「亀山城」から

・龍馬の写真にもある坂本家の家紋「組合角に桔梗」は、明智家の家紋「水色桔梗」から

バカバカしい?

そんなツッコミは承知の上で【龍馬=光秀縁者の子孫説】を追ってみたい。

 


家祖の坂本太郎五郎は誰の子か

まずは龍馬の先祖に関するあらましから確認しておこう。

坂本家は天保9年(1838年)、土佐藩に『先祖書』を提出。

そこには明智光秀の子孫とも、紀氏の子孫とも書かれていなかった。

しかし、坂本家の『先祖書(指出控)』には、後に【紀氏の子孫と書いてある家伝書が発見された】と書き加えられている。

かなり怪しげな経緯ではあるが、この紀氏説の他に

【坂本家の始祖・坂本太郎五郎の正体が明智光秀の子(秀満)か孫(秀満の子)である】

という見方が存在する。

この坂本太郎五郎とは一体誰なのか?

今度は龍馬の産まれから、坂本家の歴史を紐解いていってみよう。

 


坂本龍馬の坂本家は、才谷家(大浜家)の分家

坂本龍馬直陰(なおかげ・後に直柔なおなり)は、天保6年(1836年)未(ひつじ)、11月15日に生まれた。

生誕地は土佐国土佐郡上街本町1丁目(現在の高知県高知市上町1丁目)。

土佐藩郷士・坂本八平直足の二男である。

きょうだいは、兄の坂本権平直方と、他に3人の姉(千鶴、栄、乙女)がおり、龍馬は5人兄弟の末子。

このとき兄・直方は21歳で、姉の千鶴(ちづ)は18歳、栄(えい)は15歳、乙女(お留)は3歳だったという。

坂本龍馬の坂本家は、才谷家(大浜家)の分家だった。

才谷家はもともと質屋、酒造業、呉服商を営む豪商である。

6代目の大浜直益が、郷士格を得るために長男・大浜直海を分家させ、才谷(大浜)家7代は次男・才谷直清に継がせた。

【才谷家系図】
①坂本太郎五郎(光秀や秀満の子???)

②坂本彦三郎

③坂本太郎左衛門

④才谷守之

⑤大浜正禎

⑥大浜直益
│────────────①大浜直海(坂本直海)
⑦才谷直清【才谷屋坂本家】
坂本家系図】
①坂本直海(大浜直海)

②坂本直澄

③坂本直足
│────────────────直柔(坂本龍馬
④坂本直方【郷士格坂本家

この坂本(才谷・大浜)家の祖先について、坂本龍馬は次のように信じていたという。

【武内宿禰の子・紀角宿禰(きのつののすくね)を始祖とし、大和国平群県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠地とした紀氏の「紀貫之の子孫」である】

前述の通り墓石には「坂本龍馬紀直柔」と彫られている。

坂本家の家伝では、数多く分かれた紀氏のうち、和泉国坂本郷に移住した一族が坂本氏と名乗ったという。

紀貫之とは、あの平安歌人であり、土佐国の国司(930-935)である。

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