明智光秀と坂本龍馬/wikipediaより引用

幕末・維新

龍馬のご先祖様が「明智光秀の縁者説」は荒唐無稽なのか 家伝史料を見てみたら

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
龍馬は光秀の縁者なのか?
をクリックお願いします。

 


左馬助こと秀満か?

天保9年(1838年)1月。

当時の坂本家宗主・長兵衛は、土佐藩庁へ『先祖書』を提出した。

その控え(後掲史料2)には、

【始祖・坂本太郎五郎は、戦禍を避け、土佐国長岡郡才谷村大浜(現在の高知県南国市才谷字大浜)に移住したと提出した】

とした上で、

【提出後に、坂本家の遠祖(とおつおや)は武内宿禰であり、紀氏(紀貫之)であるとする古文書が見つかった】

と書き加えられている。

さて問題は「初代坂本太郎五郎」である。

一体何者なのか?

家系図(後掲史料1)には次のように記録されていて、

【山城国の産なり。蓋し弘治、永禄の比、畿内の乱をさけて土佐の国に来り、長岡郡殖田郷才谷村に住して農業に従事す】

※「弘治、永禄の比」とは西暦1555-1570年頃

その正体については、主に以下の5説が取り沙汰されている。

坂本城があった坂本(現在の滋賀県大津市坂本)の庶民

明智左馬助秀満(三宅弥平次)

③明智左馬助秀満と側室の子・太郎五郎

④明智左馬助秀満と正室の子・喜三兵衛

明智光秀の家臣

何やら戦国ファンを刺激するワードがずらりと並んでいる。

が、その多くは学者によって否定されている。

一つずつ見てみよう。

①坂本城があった坂本(現在の滋賀県大津市坂本)の庶民説

坂本家の本貫地(苗字の地)が「坂本」だとして、全国には「坂本」という地名があちこちにあるので特定できない。

『先祖書(指出控)』では、「山城国、郡村未だ詳らかならず」としている。

国名だけ明らかで、郡名、村名は不明ということだ。

②明智左馬助秀満(三宅弥平次)説

「坂本城攻め」の時、坂本城に火を放って自害とされている。

繋がらない。

『明智左馬助の湖水渡り』歌川豊宣/wikipediaより引用

③明智左馬助秀満と側室の子・太郎五郎説

太郎五郎は、坂本城が落城した時、壷一杯の黄金をかかえて土佐国才谷村領石へ逃れて豪農になったという。

お金持ちで、何か始める上での資本金はあった。

よって可能性はある。

「坂本龍馬其人の來歴を尋るに其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め一旦美濃國關ヶ原の邊にありしが其後故ありて土佐國に下り遂に移住て郷士となり今も家の紋處は桔梗を用ゆるとかや夫より代々高知の城下に住居し197石の領地10石4斗の禄米を食たりしが龍馬の父の名は長兵衛と呼び母をお幸と云ふ龍馬は長兵衛の二子にして天保6年巳未10月15日を以て出生せり」
坂崎鳴々道人(坂崎紫瀾)『汗血千里駒』(「明智左馬之助光俊」は「明智左馬助秀満」の別名)

 

④明智左馬助秀満と正室の子・喜三兵衛

坂本喜三兵衛は、長宗我部氏を頼って土佐国に逃げ、長宗我部元親に仕えると、坂本城(瓶岩土居城・高知県南国市亀岩字落合)の城主になったという。

城跡の石碑には「坂本家先祖 初代ハ亀岩坂本城々主坂本喜三兵衛天正十年近江坂本城落城後土佐ニ来リ長宗我部元親ニ仕ヘル父ハ近江坂本城々主明智左馬之助光春ト伝ハル」と彫られている。

 

⑤明智光秀の家臣

山崎の戦い」で明智光秀が敗れると、明智一族や家臣は、毛利氏や長宗我部元親を頼って逃れた。

坂本龍馬は、この「山崎の戦い」の落ち武者の後裔だという。

「山崎合戦之地」の石碑(天王山/京都府乙訓郡大山崎町)

 


上士の後藤150石よりも裕福な下士の家

話を龍馬のご先祖様へ戻そう。

下士(郷士)として召し出された大浜(才谷)直海は、苗字帯刀を許されて分家した。

このとき家伝にあった明智家との繋がりを意識し、苗字を坂本城にちなんで「坂本」と決定。

家紋は明智家の「桔梗」を枠で囲む「組合角に桔梗」紋にした。ちなみに本家の才谷(大浜)家は「丸に田」の家紋である。

所領は161石だった。

上士(馬廻)・後藤象二郎は150石であるから、下士なのに割と裕福な家だったと言えるだろう。

土佐国は流刑地であり、もともと落人伝説は多い。

明智光秀にも同様の伝説(殺されたのは影武者)は各地に残されているが、残念ながら土佐国へ逃れてきた光秀本人が土着したという話はない。

学者も以下のような理由から明智の縁者説を否定している。

①秀満は「本能寺の変」後、坂本城で自害した。土佐には来ていない。

②坂本家が土佐藩に提出した『先祖書』に太郎五郎は山城国から来たと書いてあり、秀満ではない。

③太郎五郎には「坂本」という苗字はない。才谷村大浜に住み、「才谷」とか「大浜」を苗字とした。

④坂本龍馬=明智光秀の子孫説は、崎鳴々道人(坂崎紫瀾)が『汗血千里駒』(秀満を光俊とする)で紹介して有名になった。

ただ、坂本城(瓶岩土居城/高知県南国市亀岩字落合)の石碑に、

「坂本龍馬の祖先は坂本太郎五郎ではなく、明智光春(秀満の別名)の子の坂本喜三兵衛」

とあるように、坂本家の祖先は

坂本城から土佐に逃げてきた明智光秀の子」

という家伝もある。

明智光秀は謀反人であり、普通は子孫であることを隠すので、『先祖書』には坂本太郎五郎の子孫だと嘘を書いたという理屈だ。

坂本龍馬の曽祖父・直海は、才谷家(商家)から独立して別の家(武家)を興した。

このとき「才谷家は明智光秀の子孫」という家伝に基づき、武家らしく、苗字を「坂本」、家紋を「組合角に桔梗」に決めたと伝わる。

では、私自身はどう思うか?

というと、やっぱり明智光秀の子孫だとは考えにくい。

ただし、豪農から商家に成長した家であるので、初代が農民であったとも考えにくい。

それよりも倒幕派の志士が、

【坂本龍馬を明智光秀の子孫だと考えていた、考えたかった】

と思われる状況の方が歴史的には重要ではないか?

そんな印象を受けた。

明智光秀/wikipediaより引用

倒幕を目論む勤王の志士たちは、徳川家に仇なす妖刀「村正」を買い集めたという。

彼らが坂本龍馬の着物を見たとき、そこにある家紋を見て

『明智光秀の子孫ならば何か大きな事をしでかす』

そんな期待を抱いた――。

と、すればやっぱり歴史は無常に動いているものである。

なお、気になる坂本龍馬と明智光秀の人物伝については以下の記事に詳しいので、よろしければ併せてご覧いただきたい。


あわせて読みたい関連記事

明智光秀
史実の明智光秀は本当にドラマのような生涯を駆け抜けたのか?

続きを見る

坂本龍馬
坂本龍馬は幕末当時から英雄扱いされていた? 激動の生涯33年を一気に振り返る

続きを見る

明智左馬助(明智秀満)
光秀の娘を娶り城代を任された明智左馬助(秀満)最期は光秀の妻子を殺して自害?

続きを見る

長宗我部元親
長宗我部元親が土佐一国から戦乱の四国を統一!最期は失意に終わった61年の生涯

続きを見る

山崎の戦い
山崎の戦いで明智軍vs羽柴軍が衝突!勝敗のポイントは本当に天王山だったのか

続きを見る

著者:戦国未来

戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。

モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。本サイトで「おんな城主 直虎 人物事典」を連載していた。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。

公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」

https://naotora.amebaownd.com/

Sengoku Mirai s 直虎の城

 


オマケ解説 戦国~江戸期の土佐国

長宗我部元親に替わり、土佐を治めたのは「関ヶ原の戦い」で東軍側についた掛川城主・山内一豊だった。

山内一豊/wikipediaより引用

土佐藩士には、

上士(じょうし・上級藩士・山内系藩士)

下士(かし・下級藩士・長宗我部系藩士)

という身分制度がある。

坂本家は商家だが郷士株を新規に取得、「下士」の内の「郷士」となっていた。

天保9年(1838年)の郷士数は807名で、その内訳は、譲受559名、新規召出47名、大規模な新規召出179名、不明22名とする。

坂本家系図「坂本直海」には「明和8年、新規郷士に召出され、天明4年、郷士御用人仰付けらる」とあり(明和8年は1771年)、『先祖書(指出控)』(天保9年)「第一坂本兼助」(初代・坂本直海)には、「一 明和8卯年5月27日、新規郷士に被召出之」とある。

坂本氏は、郷士格(郷士の身分)を譲り受けた(買った)「譲受」(従来説)ではなく、土佐国幡多郡開墾のために新たに募集された「幡多新規召出」(新説)とされる。

【参考】
「天保9年時点の土佐藩総郷士の召出時期と事由(「郷士年譜」より作成)」
山本大編『高知の研究3』(全8巻・清文堂)

 

史料1 家系図

初代・坂本太郎五郎:山城国の産なり。蓋し弘治、永禄の比、畿内の乱をさけて土佐の国に来り、長岡郡殖田郷才谷村に住して農業に従事す。某氏を娶り、一男・彦三郎を生む。墓、才谷寺跡にあり。

二代・坂本彦三郎:才谷村に在りて父の業を襲ぐ。才谷川の上流、大浜屋敷に在り。妻・須藤加賀守の二女。大和の国吉野の住人なりしが、乱を避けて土佐に落ち来りしものなりという。

三代・太郎左衛門:才谷村に住う。妻:竹村氏。墓:同上。

四代・坂本八兵衛守之:寛文6年11月、27才にして高知城下に移り住みて商家となる。屋号「才谷屋」を称す。

五代・坂本八郎兵衛正禎:本町年寄役を勤む。妻:山崎源兵衛の女。墓:小高坂山字大平に在り。碑面には前大浜八郎兵衛正禎とあり。

六代・坂本八郎兵衛直益:19年間本町年寄役を勤む。2女あり。長男・兼助、後の平八直海に、郷士格を求めて、明和7年、本町1丁目南側に分家せしめ、次男・八次、後の八郎右衛門直清に宗家を継がしむ。

七代・坂本八平直海:初め兼助と称す。直益の長男なり。新に郷士格を得て、本町1丁目南側に分家す。明和8年、新規郷士に召出され、天明4年、郷士御用人仰付けらる。妻:久万安衛門の女。墓:福井、通称「タンチ山」にあり。以下同じ。

八代・坂本八蔵直澄:父に継ぎて御用人を勤む。妻:井上好春の長女。

九代・坂本八平直足:養子。山本覚右衛門の次男なり。直澄の養子となる。

十代・坂本権平直方:妻:川原塚氏。後妻:大石氏。仝:福留氏。

次男・坂本龍馬直柔:慶応3年11月15日、凶徒の手にし斃る。享年:33。妻:楢崎将作の女。

※郷士格坂本家三代目直足は、下士(白札)・山本信固(覚右衛門)の次男である。

 


史料2『先祖書(指出控)』

一 先祖・坂本太郎五郎、生國山城國、郡村未た詳。仕■(声?)、避弓戦之難、長岡郡才谷村に来住す。但、年暦、妻之里、且、病死之年月等未詳。嫡男・彦三郎、元龜2年、出生。妻は須藤加賀守娘也。明暦2年申正月16日、嫡男・太郎左衛門、出生。之年暦月日等分明。妻・豊永氏之娘也。延寶4年辰の7月23日、病死。右3氏之墓所、才谷村に有り。右太郎左衛門二男・八兵衛、寛永17年辰年、出生。寛文10年、高知に罷出為酒肆。元禄10丑年5月27日、病死仕、以後、代々、高知住居仕候。

【現代語訳】
一 坂本家の先祖(初代)・坂本太郎五郎は、山城国(京都府)生まれであるが、何郡の何村であるかはまだ詳しく分かっていない。伝え聞くのは、「弓戦の難」(戦禍)を避け、長岡郡才谷村(南国市才谷)に移住したということだ。
但し、生まれた年、妻の故郷、且つ、病死の年月などは分からない。
坂本太郎五郎の嫡男・坂本2代彦三郎は、元亀2年(1571年)生まれである。妻は須藤加賀守の娘である。明暦2年丙申(1656年)1月16日、坂本彦三郎の嫡男・坂本3代太郎左衛門が生まれた。(この1656年1月16日というのは明らかではない。)妻は豊永氏の娘である。延宝4年(1676年)丙辰7月23日に病死した。以上3氏(初代・太郎五郎、2代彦三郎、3代太郎左衛門)の墓は、才谷村にある。この太郎左衛門の二男・八兵衛は、寛永17年庚!
辰(1640年)に生まれた。寛文10年(1670年)、才谷村から高知城下に、酒肆(しゅし。酒屋)「才谷屋」を営むために出た。元禄10年丁丑(1697年)5月27日に病死した。以後、代々、高知城下に住んでいる。

以上が土佐藩庁へ提出した『先祖書』である。

◯傅云、紀武内之孫也。但、連枝繁榮、諸國に住すと云。
皇極天皇元年、坂本長兄、撃任那、有功と云。
(但、此傅聞書後日、1笈之中より見出し記す。仍而、取次方江指出し有之帳面には不記之也。)
◯天武天皇初為皇太弟、太弟の将となつて坂本財攻陥高安城。
(但書同断)
【現代語訳】
◯坂本家は、武内宿禰の後裔・紀氏である。但し、紀氏は、多くの分家に分かれ、諸国に住んでいるという。(坂本氏は、和泉国坂本郷に移住して「坂本」と称した紀氏だという。)皇極天皇元年(642年)、坂本長兄、任那を襲撃して、戦功ありという。
但し、この伝聞は、『先祖書』を提出後に笈の中から出てきた。それで、土佐藩庁へ提出した『先祖書』には、この事は書いてない。
◯天智天皇の弟・天武天皇が即位した天武天皇元年(672年)、天武天皇の将・坂本財は、「壬申の乱」において、高安城(奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市にまたがる高安山の山頂部に中大兄皇子(後の天智天皇)が築いた城)を攻め落とした。この事も土佐藩庁へ提出した『先祖書』には書いてない。

TOPページへ


 



-幕末・維新
-

×