大名には“右腕”とか“知恵袋”と呼べるような家臣が存在します。
武家のトップである征夷大将軍にも常に有能な家臣が存在しており、江戸時代で言えば
・新井白石
・柳沢吉保
・田沼意次
あたりが著名ですかね。
ただし、彼らはどちらかというとイレギュラー的に名が通った人物で、実際には
・松平
・水野
・井伊
・酒井
・阿部
・大久保
など、徳川家に近しい家系から多くの有力者が登場しています。
その中でも特に力を持っていた一人が、1681年7月4日(延宝9年5月19日)に亡くなられた下馬将軍・酒井忠清でしょう。
下馬将軍の「下馬」とは、酒井家の屋敷が江戸城大手門“下馬”札の前にあったことに由来しており、その「将軍」であると呼ばれるほどに権勢の強かったことが、当時から囁かれていました。
一般的には馴染みの薄い四代将軍・徳川家綱の時代に権勢をふるった大老ですので、もしかしたら初めて聞いたという方もおられるかもしれません。
本稿では、この酒井忠清について見てみます。
なお、老中や大老など。
江戸時代の役職については以下の記事をご参照ください。
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なんとなーく理解している……そんなパターンも多いので、一度、スッキリさせておくと良いと思います。
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徳川譜代のエリート家系に生まれて
酒井忠清は、徳川家の譜代家臣・酒井家の出身です。
しかも、徳川家康の異父弟・松平定勝の孫という、血筋的にもかなりのエリートでした。
祖父も、徳川秀忠・徳川家光の2代・3代将軍に仕えた酒井忠世です。
この時点で将来を約束されたようなものですね。
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父・酒井忠行が早くに亡くなったため、14歳で家を継ぐという苦労もしていますが、そこはそれ。
先祖代々の重臣という立場が彼を守り、ガンガン昇進していきます。
そして、忠清27歳のとき、徳川家綱が11歳で将軍となりました。
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この頃は家光時代の老中である酒井忠勝・松平信綱などが存命中だったため、忠清はその輪の中に若手として加わります。
忠勝と忠清は同じ酒井氏ですが、血筋が違うので、直接の親子兄弟関係ではありません。
世代交代を意識したのでしょうか。
家綱時代には若い忠清のほうが忠勝よりも上席になっており、周囲の重臣たちも結構な高齢でありました。
大名でも馬から降りてくださいね
彼らと比べて忠清は、二回りぐらい年下なので、自然と権力が集中することになります。
しかも上記の通り、酒井氏は代々徳川家に仕えた家柄=後ろ盾や名分も持っている。
他の人が出世できる見込みがほぼなくなってしまいます。
そのため、いつしか「下馬将軍」とまで呼ばれるようになりました。
前述の通り、忠清の屋敷が江戸城大手門の下馬札の前にあったからです。
さらに詳しく説明しますと、下馬札とは
「ここから先は将軍の住まいなので、大名であっても乗り物に乗ったまま通ることは許されない」
という意味です。
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