元亀2年10月3日(1571年10月21日)は北条氏康の命日です。
北条早雲(伊勢宗瑞)から始まる後北条氏の三代目。
北条早雲
│
北条氏綱
│
北条氏康
│
北条氏政
│
北条氏直
越後の龍・上杉謙信や、甲斐の虎・武田信玄に対し、相模の獅子とも称される関東の勇将として知られ、後北条氏としては最も戦上手だったのでは?と彷彿させるような合戦譚も残されていますね。
では実際のところ、氏康にはどんな事績があり、どんな戦績だったのか?

北条氏康/wikipediaより引用
57年の生涯を振り返ってみましょう。
早雲の血を継ぐ戦国エリート 北条氏康
北条氏康は永正12年(1515年)、後北条氏二代目・北条氏綱の息子として生まれました。
母は氏綱の正室である養珠院殿。
それよりも著名なのは祖父の北条早雲(伊勢宗瑞)でしょうか。

北条早雲(伊勢宗瑞)/wikipediaより引用
氏綱の嫡男だった氏康は、早くから後継者として育てられました。
幼名は伊豆千代丸です。
当初の名字は、かつて父と祖父が名乗っていた「伊勢」という名字であったことも確認できます。
大永3年(1523年)までに氏綱が「北条姓」に改めた経緯については、以下、北条氏綱の生涯記事に詳しくありますが、息子の氏康はこの時点で北条姓を名乗らず、「伊勢伊豆千代丸」として文書に名が残されました。
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北条氏綱の生涯|早雲の跡を継いだ名将が関東全域へ領土を広げる大戦略
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氏康が姓名を改めたのは元服した頃だったと考えられています。
歴代の北条当主同様に「新九郎」という仮名と、「氏康」という実名が与えられたのです。
ここから、いよいよ北条氏康の名が、歴史の表舞台へと姿を見せるようになりました。
初陣から厳しい戦いに駆り出され
彼の初陣は享禄3年(1530年)。
扇谷上杉朝興が重臣を武蔵国府中に派遣してきた際、これを迎え撃つ戦に出陣したものであるとされます。
良質な史料で確認ができず、江戸時代の軍記物が伝える話ですが、当時の社会や軍事情勢を考えれば氏康の初陣タイミングも扇谷上杉氏の南下も妥当であり、おおむね事実と考えてもよさそうです。
仮に氏康の初陣が事実であるとすれば、彼は16歳にして大将という役割を任され、加えて扇谷上杉氏を首尾よく撃退するという戦果を収めたことになります。
初陣は、基本的に「縁起を担ぐ」狙いがあります。
ゆえに次期当主レベルの若武者であれば、勝利濃厚な戦場に送り出されることが多かったものです。
氏康の初戦はとてもラクな相手とは言えず、早くから能力を期待されていたフシがあります。
また、天文4年(1535年)ごろ、今川氏親の娘である瑞渓院と結婚し、姻戚関係の構築で【北条―今川】ラインのさらなる強化を目指しました。
ところが、です。
この後に今川家では家督継承をめぐる内乱が勃発。
勝利者となった今川義元の方針によって天文6年(1537年)以降は敵同士となってしまいます。
それでも氏康は瑞渓院を離縁せず、そんな彼の「期待」に応えてか、後継者の北条氏政だけでなく多くの子供たちを生みました。
戦国期における「理想の妻」とは「血をつなぐために多くの子(特に男子)をなせる人物」であり、この価値観から言えば大名の正室としてこれ以上ない女性であったといえるでしょう。
「氏綱が死んだ!」周囲敵だらけの家督継承
天文6年(1537年)ごろから北条氏綱とともに政務への関与もみられるようになった北条氏康。
徐々に後継者として領国支配の一翼を担うようになりました。
その4年後の天文10年(1541年)に氏綱が死去すると、

北条氏綱/wikipediaより引用
正式に家督を継承し、いよいよ北条氏三代目としての活動が幕を開けます。
彼が当主の座についた天文10年頃は、氏綱の活躍によって北条氏が名実ともに関東最大の戦国大名へと成長していく一方、急速な発展の代償として領域周辺には向かうところ敵ばかり、という情勢にありました。
特に懸念だったのが扇谷上杉氏・山内上杉氏との対立。
これまで父・氏綱によって辛酸を舐めさせられてきたは彼等は、
「氏綱が死んだ!このチャンスを逃すわけにはいかない!」
とばかりに、早速、北条家の拠点へ攻撃を開始します。
氏綱死去の三か月後、関東の重要拠点である河越城と江戸地域へ進軍されましたが、これをなんとか撃退。
その後も両上杉氏との戦いが続いていきます。
古河公方までもが攻め込んできた
むろん北条氏康の敵は、両上杉氏だけではありません。
天文14年(1545年)には成田氏の本拠である忍城を奪取するなど、首尾よく軍事行動を進めていましたが、やがて対立していた今川氏から河東地域への侵攻を受けてしまいます。
さらに今川氏と同盟関係にあった武田氏も同地域へ攻め込み、危機的状況を迎えてしまうのです。
氏康はやむなく最前線の吉原城を放棄。
伊豆の国境付近である長窪城までの後退を余儀なくされました。
そこへ再び襲いかかってきたのが例の両上杉氏。
彼らは大軍を率いて河越城(埼玉県川越市)を包囲し圧力を加えます。
しかも、こうした上杉氏の動きに反応したのが、関東屈指の名門・古河公方足利氏の当主・足利晴氏でした。
北条氏康は、河東地域と河越地域の二面で大軍を迎え撃つという非常に不利な状況へと追い込まれてしまうのです。しかし……。
まだ若い当主・氏康は慌てませんでした。
「同時に作戦を展開することは不可能である」
そう速やかに判断すると、今度は和睦や停戦に向けた動きを模索します。
まずは、現状、対立関係にはありながら、実は長年協力関係を構築していた今川氏との和睦を受け入れました。
和睦というよりは、敗北に近い案ですね。
「北条氏は駿河から明確に撤退する」という取り決めでした。
次に、これまで庇護してきた足利晴氏に目を向けます。
快挙! 河越夜戦
晴氏とは義兄弟でもある氏康。
「もう一度北条に協力してほしい」と翻意を促します。
しかし、これを挽回のチャンスと判断した晴氏は河越城の包囲を継続し、依然として大軍に包囲させ続けました。
河越城を守っていたのは「地黄八幡」と称される猛将・北条綱成(つなしげ)たちです。
※以下は「北条綱成」関連記事となります
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北条綱成の生涯|氏綱や氏康の躍進を支えた北条五色備の勇将を史実から探る
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彼らは、数万の大軍に囲まれる圧倒的不利な状況にもかかわらず粘り強く戦い抜いており、氏康としては一刻も早く後詰(救援)に向かいたかったところでしょう。
懸念していたのは背後の今川です。
前述の通り、一度は敵対しながらも、再び同盟関係を結ぶことに成功させると、氏康は早速、河越城内の綱成らと連携をとります。
そして8万とも言われる大軍へ奇襲を仕掛けるのでした。
世に名高い【河越夜戦】です。
一説に【1万vs8万】という凄まじい劣勢を氏康は跳ね返し、北条氏はここで圧倒的な勝利を得ます。
戦の経過や展開についてはハッキリしない点も多く、詳しい解説は以下に譲りますが、この戦によって氏康が得た戦果は非常に大きく。
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河越城の戦い(河越夜戦)|1万vs8万の圧倒的不利を北条氏康が奇跡の逆転
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例えば
◆重要拠点である河越地域の維持
◆上杉朝定の戦死による扇谷上杉家の滅亡
◆山内上杉氏に対する軍事的優位性の確立
などによって、北条氏の優位と関東上杉氏の衰退を明確にしたのです。
いわゆる「選択と集中」ですね。
確かに、河東地域の放棄は口惜しいものがあったでしょうが、関東平野の重要拠点を押さえた方が広域エリアを安定させられる。
河越の支配を成し遂げた氏康の手腕には、目を見張るものがありました。
関東上杉氏を殲滅
河越夜戦の結果、関東中央部での拠点を強化した氏康は、扇谷上杉氏の残存勢力と山内上杉氏への攻勢を強めます。
以下の地図をご覧ください。

北条氏綱時代の関東諸勢力/photo by 野島崎沖 wikipediaより引用
この地図は、父・北条氏綱時代の諸勢力図で、まだ河越城や岩付城(埼玉県さいたま市)などは両上杉氏の勢力下にありました。
河越城を中心に支配強化を果たした氏康は、この一帯の支配強化と、地図には無いさらに北方面への侵攻を模索します。
しかし、その矢先のことでした。
氏康が里見氏と抗争を繰り広げている隙を突かれ、旧扇谷家臣の太田資正が武蔵松山城(埼玉県比企郡)と岩付城を奪取。

落合芳幾の描いた太田資正/wikipediaより引用
資正は岩付城へ入り、武蔵松山城には上田朝直という人物が据えられます。
一進一退とはこのこと。
正念場であるこの局面で、氏康は上田朝直に対し調略をしかけ、あっさり武蔵松山城を奪い返します。
一方、勢いで城をせしめた太田資正は万事休す。
天文17年(1548年)のはじめに岩付城も再び北条氏の手に渡り、氏康は、旧扇谷上杉領を完全に掌握するのでした。
上野の奥へ進むとその先は……
扇谷上杉氏の殲滅を果たした氏康は、続いてもう一つの山内上杉氏攻略を本格化させます。
圧倒的な軍勢を背景として、山内上杉方の勢力であった小幡氏や藤田氏を離反させ、自身の配下に収めると、天文19年(1550年)には山内上杉氏のお膝元である西上野(群馬県)へ進軍。
秋の収穫を略奪するなどして、国力を徹底的に疲弊させます。
そしてそのまま、彼らの本拠である平井城(群馬県藤岡市)へ攻め込むほど奥地までの侵入を果たしていました。
凄まじいほどの進軍速度です。
氏康は、ここでいったん兵力を整え、いよいよ天文21年(1551年)、本格的な制圧作戦をスタートさせます。
まずは山内上杉氏が武蔵国に構えていた唯一の拠点である御獄城(埼玉県児玉郡)を攻め、見事に同城を落としました。
城には上杉憲政の嫡男である、まだ幼い龍若丸がおりましたが、非情にも氏康は処刑します。
この果断な処置は、北条氏にとっては正解でした。
というのも御獄城落城の一報は、周囲の武将たちに多大な精神的ショックを与え、上野地域や憲政の側近から次々と離反者が出たのです。
室町以来の由緒正しい名門を自負していた憲政にとってこれは屈辱以外の何物でもなく、しかし、さりとてこのまま抵抗を続ければ自身の破滅は明らか。
憲政は、味方が領有していた新田金山城(群馬県太田市)や下野足利城(栃木県足利市)といった拠点へ逃げ込み、再起を図ろうとしましたが、これらの城も氏康に従う勢力から攻撃を受けており、入城することすらかないません
もはや万事休す――。
重臣・長尾憲景が本拠とする白井城(群馬県渋川市)を経由して越後まで逃れ、関東上杉氏の没落はついに公のものとなりました。
関東上杉氏の打倒は、氏康だけでなく北条早雲(伊勢宗瑞)・北条氏綱という北条三代にとっての悲願。
かつて「他国の逆徒」として彼等に嘲笑された北条氏は、逆に上杉勢力を関東から駆逐したのです。

北条氏康/wikipediaより引用
以後、憲政をかくまった長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻や、山内上杉方の残存勢力による抵抗を退けつつ、弘治2年(1556年)までには、かつての山内上杉旧臣らを北条に従属させることで動乱を収束させていきました。
さらに、永禄2年(1559年)までには、上野の国衆をすべて勢力下に収め、ここに上野国の支配を確立します。
北関東への覇権をも唱えるまでに成長したのです。
古河公方勢力へプレッシャー! 外甥を後継者とさせる
関東上杉氏の没落は、地域武士たちにとってショッキングな出来事でした。
これまで上杉を中心に構成されていた政治秩序は乱れ、その結果、古河公方の立場で権威を有していた足利晴氏は、氏康から強烈なプレッシャーを受け始めます。
もともと河越夜戦で氏康に敵対してしまって以降、晴氏との良好な義兄弟関係は崩れつつありました。
氏康も、さすがに妹の夫・晴氏を攻め滅ぼしたりはしませんでしたが、苦しい局面で攻撃してきた義弟に対し「よくもやってくれたな……」という態度になります。
そして冷え込みつつあった両者の関係は天文21年(1552年)、ついに限界を迎えます。
氏康は、すでに晴氏の嫡男として古河公方足利家を継承する予定であった足利藤氏を廃嫡に追い込むと、自身の妹と晴氏の間に生まれた梅千代王丸(後の足利義氏)を新たな後継者として定めたのです。
もちろん一連の「人事異動」が北条氏の意向によって行われたものであることは言うまでもなく、梅千代王丸が古河公方となることで、氏康は外甥の威光を背景に関東の諸勢力へ対峙しようと考えたのでしょう。
まるで平安時代に一世を風靡した藤原氏の摂関政治。
外戚の位置から氏康はさらなる権力を手にしようとしたのです。
ところが、です。
氏康の横暴によって廃嫡を余儀なくされ、人生を一変させられた「元嫡男」の足利藤氏からしてみれば、足利義氏の後継んだお看過できるものではありません。
彼らは天文23年(1554年)に氏康の指示を無視し、かねてからの本拠地である古河城へ勝手に入城して公然と反旗を翻しました。
小山氏や相馬氏、さらにはいまだに抵抗を続けていた旧山内上杉氏勢力からの支援を受け、最後の抗戦を試みたのです。
対する氏康は、自身の勢力だけでなく、公方家に仕えていた義氏らの旧家臣勢を味方として古河城を攻めました。
両者の力差は歴然であり、氏康はかつての協力者を猛然と打倒。
結果として足利晴氏は相模国波多野へ幽閉されてしまいます。
氏康にしてみれば「晴氏を含め反対勢力を一掃したかったが、こちらからは手を出しにくかった。それが謀反によって大義名分が転がり込んできた♪」と思っていてもおかしくないほど絶妙な権力一本化の好機でした。
以後、氏康と古河公方足利義氏による新たな政治体制が構築されていくことになったのです。
甲相駿三国同盟の締結と、氏康の形式的な隠居
関東地方を制圧していく傍らで、北条氏康は外交面における同盟の締結にも勤しみました。
彼が同盟相手として構想したのは、北条氏と同様に強大な勢力を有する武田氏と今川氏。
彼らと北条氏は河東地域の戦乱を経て、その後、小康状態を保っており「敵でも味方でもない」という中立の関係になっておりました。
そして天文19年(1550年)、今川氏と武田氏の間で同盟の機運が高まったことを知った氏康は、北条氏としてもそこへ参入して三国同盟を形成したいと考えるようになります。
具体的な交渉は天文20年(1551年)から始まり、3年後の天文23年(1554年)に話がまとまると、三家がそれぞれ姻戚関係を結んで【甲相駿三国同盟】が成立しました。

左から北条氏康・今川義元・武田信玄/wikipediaより引用
北条氏の視点から三国同盟を評価してみると、武田・今川の勢力を背景に関東攻略へ専心できるという利点に加え、上杉憲政をかくまった上杉謙信ら越後上杉氏との全面対決に備えた対応策という側面も有していたことでしょう。
実際、天文21年(1552年)には景虎によって北条領内が攻撃されており、彼らとの抗争が眼前に迫っているという状況下にあったのです。
しかし、同盟を締結させ、いよいよ上杉氏との対決を控えた永禄2年(1559年)、氏康は突如として家督を嫡男の北条氏政へ譲り、自身の隠居を表明したのです。
もっとも、この隠居は非常に不思議なものでした。なぜなら氏康は体調を崩していたわけでも、領地支配の気力を失っていたわけでもなかったからです。
では、なぜ氏康は形式的な隠居を余儀なくされたのか。
その答えとして考えられている要因に、ここ数年、北条領内を襲っていた飢饉と疫病の流行という危機が挙げられます。
氏康はこうした現象への対処に手を焼いてしまい、形式上だけでも「代替わり」を行うことで責任をとった――そして、新当主となった息子の北条氏政に徳政令を出させることで、領民に対する救済を表明したという説があります。
以上の経緯からもわかるように、氏康としてはあくまで形式的な代替わりを実施したに過ぎず、彼はこの後も「御本城様」と称されて実質的な北条氏の当主であり続けました。
したがって、永禄3年(1560年)から北条氏を悩ませた上杉謙信の関東侵攻については、基本的に氏康が中心となって対処していたと考えてよいでしょう。
上杉謙信との「関東覇者決定戦」に勝利
永禄3年(1560年)の5月から、上杉謙信が越後を出て関東へ出兵してきました。

上杉謙信/wikipediaより引用
これは北条氏が当時攻め込んでいた里見氏の救援要請に応える形での遠征であり、当然ながら北条氏とは敵対。
憲政を庇護し、かつ関東上杉氏と深い縁がある上杉謙信の侵攻を受け、氏康は苦戦を強いられます。
これまで北条氏に従っていた上野・下野の一部国衆が彼への服属を表明したのです。言ってみれば離反ですね。
ばかりか国境沿いの支城が次々に攻略されていく現状を受け、氏康はいったん里見氏攻略を諦め、河越城や武蔵松山城に兵を進めました。
しかし、これまで北条氏に味方していた上野・武蔵の国衆はほとんどが謙信につくという始末で、さらに一本化を成し遂げたはずの公方勢力がふたたび分裂してしまうなど、北条氏にとって謙信の襲来は「巨大災害」のような影響がありました。
永禄4年(1561年)には、謙信によって本拠・小田原城への攻撃も赦します。
小田原城を攻められるのは、北条氏の歴史上初めてのことであり、氏康は危機的状況を迎えたかに思えました。
しかし、そこは難攻不落の小田原城。
さすがの謙信も首尾よく攻略することができず、やがて撤退の構えを見せます。
彼は帰路で山内上杉氏の名跡を継承し、これによって謙信もまた【関東管領】たる資格を手にするのです。
氏康にしても、先代・北条氏綱の功績によって【関東管領職】を名乗っていましたから、以後の戦いは「関東の支配者」にどちらがふさわしいか――という正当性の争いという見方もできます。
謙信と氏康の戦いは、結論から言えば氏康優位に進行していきました。
彼は同盟相手である武田氏と連携を図りながら、永禄7年(1564年)に勃発した【第二次国府台合戦】などに勝利し、しだいに勢力を回復。
さらに永禄9年(1566年)には、再び遠征してきた謙信が下総の小金城・臼井城攻略に失敗して帰国を余儀なくされると、「勝ち馬に乗るなら北条・武田側につくべきだ」と判断した国衆らが一斉に北条へ降ってきたのです。
結果、謙信の勢力は大幅に衰え、永禄11年(1568年)になると、もはや関東への出陣すらも行わないようになっていきました。
氏康は先の三国同盟を最大限活用し、見事に越後上杉氏を撃退したのです。
晩年は実質的にも隠居したが、影響力は健在だった
謙信の侵攻を防いでいた永禄8年ごろから、実は北条氏康は、戦へ出向かないようになっておりました。
形式上だけのことではなく、実質的にも息子の北条氏政に当主としての権力を譲ったということを意味しています。
とはいえ、個人的には、氏康の影響力そのものが全くなくなったとは思えません。
そのことを示す外交的な出来事として、三国同盟の成立によって協力関係にあった武田氏が駿河に侵攻したことに端を発する越相同盟の成立と破棄が挙げられます。
協力者同士の争いに際して今川氏への肩入れを表明した氏政は、武田氏に敵対すると同時に、これまでしのぎを削っていた上杉氏との同盟を模索しました。
詳しくは北条氏政の生涯記事に譲りますが、永禄12年(1569年)には、北条と上杉の間で越相同盟が成立。

北条氏政/wikipediaより引用
しかし、これは有効な支援を得られることはありませんでした。
いざ武田氏の攻撃を受け、謙信へ援軍の申し入れをしてもスルーされ、武田信玄に小田原城への攻撃を許すほど追い込まれるのです。
誰の目にも明らかなほど劣勢に追い込まれた元亀元年(1570年)、氏康は大病を患いました。
一時は子供の顔も見分けられないほど衰弱し、一時は持ち直すものの翌年にふたたび病状が深刻化。
元亀2年(1571年)に57歳でその生涯を終えてしまいます
すると北条氏政は、父の死をキッカケに外交政策を大転換します。
これまで同盟相手でありながら有効な支援を受けられなかった上杉氏を見限り、代わりに目下抗争中である武田氏との間に甲相同盟を締結。
かねてから上杉氏の不義理については家中で問題視されており、氏康という権力者の死を契機として政策を一変させたのです。
ここに、氏康という人物がどれほどの存在感を放っていたかが示されているように感じます。
内政面に関しても多大な功績を残した
ここまで、北条氏康の生涯を政治・外交的な視点から解説してきました。
彼については前述の視点だけでも高い評価を下すことができる人物でありますが、他にも内政面で大きな功績を残しています。
最後に氏康の内政を振り返ってみましょう。
まず氏康は、税制の改革に力を入れました。
天文19年(1550年)には「諸点銭」と呼ばれた様々な税を整理・統合して一律6%の「懸銭」という仕組みを導入したほか、棟別銭を減額したうえで段銭を8%に定めるなど、領民の負担や領国経営の安定化に配慮した内容になっています。
弘治元年(1555年)には、北武蔵地方で大規模な検地を実施する傍ら、ふたたび税制の調整を行い、翌年には家臣らの普請役負担状況を調査させ『小田原衆所領役帳』を作成させました。
さらに彼は、北条家中に独自の官僚機構を創設。
評定衆などを組織したうえで領国支配の補佐を担当させ、訴訟手続きなどは彼らが処理していたと考えられています。
他にも、公定升の制定や、貨幣制度・伝馬制の確立などに注力。
北条氏の領国支配体制を完成に導いたといっても過言ではないでしょう。
彼が取り入れた諸制度の中には、後年、江戸幕府の支配体制に組み込まれたものも確認できるため、単に戦や外交のセンスが光るだけでなく、頭脳明晰な人物でもあったことが窺えます。
※祖父・北条早雲、ならびに父・北条氏綱などの人物伝も以下にございます
◆北条氏康の墓所である早雲寺
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参考文献
- 『国史大辞典』(吉川弘文館, 全15巻17冊, 1979–1997年刊)
出版社: 吉川弘文館(国史大辞典 公式案内ページ/ジャパンナレッジ) - 歴史群像編集部(編)『全国版 戦国時代人物事典』(学研パブリッシング, 2009年11月, ISBN-13: 978-4054042902)
出版社: Gakken(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 黒田基樹『戦国北条家一族事典』(戎光祥出版, 2018年6月, ISBN-13: 978-4864032896)
出版社: 戎光祥出版(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 黒田基樹『戦国北条五代(星海社新書149)』(星海社, 2019年4月, ISBN-13: 978-4065157091)
出版社: 星海社(公式案内/ISBN・発売日) |
Amazon: 商品ページ








