手をかざし、遥か彼方の櫛形山脈(くしがたさんみゃく)へ眼差しを向けている武将の姿は、妙齢の美しい女性。
巴御前、静御前と並び「日本三大御前」の一人に数えられたその名を板額御前(はんがくごぜん)という。
今から800年前、銅像の眼差しの先にある鳥坂城址において、鎌倉幕府が派兵した追討軍と激戦を展開した勇婦だ。
「女性の身たりといえども百発百中の芸ほとんど父兄に越ゆるなり」と『吾妻鑑』の編纂者は畏敬の念を込めて記している。
当時の武士にとって最大の武器は弓矢であるが、板額の射芸は男にも勝ると絶賛。
彼女はなぜ、鎌倉幕府を向こうに回して戦ったのだろうか。
建仁元年(1201年)6月29日は、最終的に鎌倉幕府の捕虜となった板額御前が甲斐の浅利義遠(よしとう)に妻として引き取られた日――。
本稿は小説『女武将 板額』(→amazon)の著者・島政大氏に、史実の板額御前の足跡を記してもらった。
知られざる女武将の生き様をご覧あれ。
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越後に強大な勢力を誇った城氏
板額を生んだ城氏は、平清盛と血脈を同じくする平氏の一門である。
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「並ぶ者なきつわもの」と讃えられた鎮守府将軍・平維茂の一流であり、維茂の息子繫成が「秋田城介」の地位を得るにおよんで、越後国阿賀野川以北に絶大な勢力を誇った。
「城」という姓は、秋田城介に由来する。
源頼朝、木曽義仲が挙兵した当初、平家政権は始祖を同じくする城氏に大きな期待を寄せた。
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都を拠点とする平氏にとって、東北の城氏と共闘すれば、坂東武者を挟み撃ちにできるからだ。
板額の兄・城資永(じょうすけなが)は、平清盛の元で検非違使左衛門尉を務めており、都の政情と源氏の動向に精通していた。
難局を乗り切れるだけの経験と器量を期待され、勇躍越後へと帰還する。
「甲斐信濃両国においては、他人を交えず、一身にして攻落すべき由」と資永は豪語。
木曽義仲の反乱を独力で鎮圧してみせると大見得を切ることができるほど、城氏の軍事力は強大だった。
しかし、出兵の当日、資永は急逝してしまう。
後を継いだ弟の長茂が四万の軍勢を率いて信濃の国境を越えたものの、義仲軍の策謀にかかって壊滅寸前の大敗北を喫してしまう。
北方の雄・城一族は、一夜にして没落したのだった。
討幕の旗を掲げる
その後の城氏の動向はわかっていない。
北越のどこかで細々と命脈を保っていたようであるが、平家の滅亡後、長茂は捕らえられ、鎌倉幕府の宿老・梶原景時に預けられた。
いかに敗軍の将とはいえ、長茂は身長七尺(212センチ)の大男で、無双の勇士と評された豪傑であったから、梶原の配下として従軍した奥州合戦で武勲をたて、晴れて御家人に列せられる。
梶原景時が健在であり続けたら、城氏の命脈は保たれたであろう。
しかし、頼みの梶原は、幕府の有力御家人たちから弾劾されたあげく滅ぼされてしまった。
この辺りの生々しい権力闘争については、2022年に放送予定の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で詳しく描かれたので、ご存知の方も多いだろう。
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後ろ盾を失った長茂は、起死回生を賭けて都で挙兵。
鎌倉幕府を嫌悪する後鳥羽上皇から討幕の院宣を得ようと試みるも、京都大番役の小山朝政に討伐され、首級を六条河原にさらされた。
これと呼応するかのように、越後の山城、鳥坂城において、城氏の残党が挙兵した。
資永の遺児・小太郎資盛と、その叔母・板額である。
幕府が派兵した追討軍の総大将は佐々木盛綱。
源平争乱期、藤戸の海峡を馬で押し渡り、平氏一党を散々に蹴散らした伝説の猛将だった。
女性の身たりといえども 板額の奮戦
盛綱の手にかかればひとひねり――そう思われた鳥坂城の戦いは、意外にも幕府軍が大苦戦を強いられることになる。
緒戦から名だたる猛将たちが板額の弓矢に射倒されてしまったのだ。
鳥坂城の矢倉門に立った板額の奮闘ぶりを、吾妻鑑の編纂者は次のように記している。
童形の如く髪を上げせしめ、腹巻きを着し矢倉の上に居て、襲い致すの輩を射るに、中たる者死なずと云うこと莫し。
正面からまともに攻めても板額を討ち取れなかった攻城軍。
弓箭の眉目と讃えられた信濃の豪族・藤澤清親に命じて、背後の山から板額の足を射て、生け捕りにした。
このとき城内に小太郎資盛の姿はなかった。
板額の奮戦は、まだ若い嫡子資盛を城外へ脱出させるための時間稼ぎだったのだろう。
母性の成せる戦略に違いなかった。そして……。
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