伊東祐親

伊東祐親の像(物見塚公園)

源平・鎌倉・室町

八重の父で孫の千鶴丸を殺した伊東祐親~義時の外祖父でもあった生涯

史上初の武家政権となった鎌倉幕府は、謀略と殺戮の繰り返し。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』メンバーのうち、多くの者が「乱」や「変」に散っていきますが、その中でも相当悲惨な終わりを迎えたのが伊東祐親(すけちか)一族かもしれません。

なんせ、家を守るため孫を殺しながら、その孫を生んだ娘には入水自殺され、さらには戦に敗れて養和2年(1182年)2月15日に自ら死を選ぶと、その息子も父に従って散っていったのです。

何が哀しいって、この祐親一族は源頼朝との繋がりも深く、しかも、主人公・北条義時にとって外祖父でもあったことでしょう。

伊東祐親

娘-北条時政

北条義時

つまり、少し違う道を選ぶだけで、勝者の中心にもなれた一族と言える。

それがなぜ?

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』序盤では義時の妻・八重の父として注目された伊東祐親の生涯を振り返ってみましょう。

 


伊豆の豪族・伊東祐親

伊東祐親の父は、伊豆の豪族・伊東祐家で、母は不明。

残念ながら祐親の生年や若い頃の記録はほとんど残っていません。

この時代にはよくあることで、誕生年を推定しますと、1120年代後半~1130年代前半あたりの生まれでしょうか。

祐親の長男・河津祐泰が久安二年 (1146年)生まれという説があり、仮にこのときの祐親を18歳頃だと仮定すると、大まかに大治三年(1128年)前後の生まれという流れです。

壮年期の逸話としては、伊東家の相続に関する動向が伝わっています。

このころ伊東家は、当主だった父の祐家が亡くなり、存命だった祐家の父・伊東家継(祐親の祖父)がこう決めます。

「(もう一人の息子である)祐継が継げば良い」

祐親にとっては“おじ”に当たる伊東祐継に家督が渡ったんですね。

祖父・伊東家継

父・伊東祐家-おじ・伊東祐継

本人・伊東祐親

これが祐親にとっては納得ならない話であり、「なぜ自分が父の跡を継げないのだ!」と憤り、たびたび訴訟を起こす程でした。

恨みはかなり深かったらしく、伊東祐継が亡くなると、その子・伊東祐経の所領を奪ったとされているほど。

実は祐親の娘が祐経に嫁いでいたのですが、このとき離縁させています。

土地と妻を両方奪われた祐経は、当然のことながら大激怒。

安元二年(1176年)10月、郎党に命じ、狩りに出かけていた祐親を襲撃させました。誰も彼もいきなり武力に訴えすぎで、いかにも鎌倉武士という感じですね。

祐親は無事だったものの、嫡子・伊東祐泰が矢を受けて亡くなってしまいました。

 


曾我兄弟の祖父でもあり

実は、伊東祐親の息子である伊東祐泰も、この時代で重要な人物であります。

というのも、祐泰の息子たち、つまり祐親の孫が日本三大敵討ち【曾我兄弟の仇討ち】で有名な兄弟だったのです。

この仇討ちは建久四年(1193年)、つまり頼朝政権が始まってすぐの出来事であり、少なからず鎌倉幕府に影響を与えています。

北条義時から見ると、母方の実家で起きた事件ということになりますね。

詳細は以下の記事に譲り、

曾我兄弟の仇討ち
曾我兄弟の仇討ちとは?工藤祐経が討たれて源範頼にも累及んだ事件当日を振り返る

続きを見る

伊東祐親の話に戻りますと、当初、彼は平家に接近し、伊豆で代官のような立ち位置を確保していました。

平家との間に特段の逸話はないようですが、【平治の乱】の後、伊豆へ流刑となった源頼朝の監視を命じられていますので、信頼は割と厚かったのでしょう。

平治の乱
平治の乱で勝利を収めた清盛の政治力~源平の合戦というより政争なり

続きを見る

しかし、この時代の地方武士には、地元を空けなければならない負担がありました。

【京都大番役】です。

文字通り、地方の武士が京都に上って、都の警護を務めるという職。

ただでさえ交通手段が乏しい時代、かつ長期に渡るため「大番役に行っている間に地元が大変なことになっていた」ということもままありました。

伊東家もそのご多分に漏れず、祐親が上方で役目を果たしている間に、大事件が起こります。

監視していたはずの源頼朝が、祐親の三女・八重姫のもとに通い、なんと息子(千鶴丸)までもうけてしまったのです。

八重姫とは……そうです。『鎌倉殿の13人』で新垣結衣さんが演じたことで一気に知名度の上がった女性ですね。

ドラマでは、後に義時の妻となり北条泰時を生んだという設定ですが、史実において、最初に頼朝の子を生んだことは、伊東祐親にとってとんでもない話でした。

 


家を守るため孫の千鶴丸を川に……

帰国後、伊東祐親は大激怒!

伊東家の人々が誰一人知らなかったというのも考えにくいですが、祐親の怒りようからして、知らせた者がいなかったのでしょう。

上方で育った頼朝としては、普通に妻問い婚をしただけのつもりだったかもしれません。

しかし、当時の立場は罪人。

見張り役の家を知らなかったはずはありませんから、八重姫が伊東家の娘であったことを知った上で、堂々と通っていたことになります。大した度胸と言わざるをえません。

ただし、当時の祐親からすれば、頼朝と縁続きになるなど論外のこと。

平家への叛意と受け取られ、家ごと潰されてもおかしくありません。

やっと手に入れた家を、罪人の身勝手で滅ぼされてはたまらないでしょう。

となれば、疑いをかけられる要因を徹底的に排除せねばなりません。

かくして祐親は安元元年(1175年)9月、頼朝と八重姫の間に生まれた男子・千鶴丸を、松川に沈めて殺してしまいます。

残酷なようですが、家を守るためには仕方のない処断でした。

なんせ頼朝も殺そうとしたぐらいで、その件は祐親の次男・伊東祐清により危険が知らされ、頼朝は難を逃れています。

ではなぜ、息子の祐清が父に反抗するような動きをしたのか?

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