とは、現代人の誰もが望むことながら、ほとんどが叶えられていない願望でしょう。
お金がないとか、努力が続かないとか、そのポジションに見合った才能がない……など、多くの人が何かと理由を付けて諦めていく一方、天才たちは一心不乱にその道を突き進む。
まさにそんなタイプの人物が2023年度前期の朝ドラ『らんまん』に出て大いに話題となりました。
主人公の牧野富太郎です(ドラマでは槙野万太郎)。
神木隆之介さんが演じるこの牧野富太郎は、昭和32年(1957年)1月18日が命日。
「日本植物学の父」と呼ばれ、数多の新種を見つけるなど科学分野で多大な貢献をする一方、研究にハマりすぎるがゆえに借金を重ねるなど無茶苦茶な生活をした御方です。
敬意を込めて「植物バカ一代」としか言いようがない、そんな富太郎の生涯を振り返ってみましょう。
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土佐佐川に生まれ、祖母に育てられる
幕末動乱の時代――文久2年(1862年)。
この年、関東では生麦事件が起こり、高杉晋作らが英国公使館を焼き討ちをしました。
土佐藩では、武市半平太の密命を受けた土佐勤王党が、参政・吉田東洋を暗殺。
そんな物騒な時代に、土佐・佐川村の商家で男児が生まれ、「成太郎」と名付けられました。
同家は雑貨商と酒造業を営む裕福な商家であり、地元では「佐川の岸屋」で知られる藩の御用商です。名字帯刀も許されていました。
しかし、生まれて程なくして、次々に不幸に見舞われます。
3歳のときに父の佐平、5歳で母の久寿、6歳になると今度は祖父の小左衛門を亡くし、その後「富太郎」と名を改め、祖母・浪子のもとで育てられることとなりました。
祖母のもとで、のびのびと育てられた富太郎は、明治5年(1872年)、寺子屋へ通い始め、翌年、寺子屋が廃止となり伊藤塾という教育機関へ入学。
さらには佐川藩校・名教館(めいこうかん)に入り、新たな学問に取り組みます。
漢籍教養だけではなく、英語、数学、物理学といった分野に目覚めたのです。
例えば
などを読み耽り、周囲を士族の秀才に囲まれても、町人の出である富太郎の知性は際立つものでした。
しかし明治7年(1874年)、彼にとっては不幸な制度が導入されます。
明治5年の「学制」発令から2年後、佐川にも小学校ができたのです。
学校が出来たのであれば、そこでさらなる才能を発揮で……とは残念ながら、なりませんでした。
明治9年(1876年)に退学してしまうのです。
富太郎は、自伝でもこの一件について詳細を記していません。
ただ、推測はできます。
彼がかつて通っていた江戸時代の藩校は、各自がそれぞれ学ぶことができ、横並びの教育システムではありませんでした。
独学で進める子はどんどん先へ進めるのに対し、明治以降の学制は完全な横並びとなり、生徒の出来不出来に関係なく一斉に詰め込むやり方になりました。
要は偏差値50に合わせるわけですから、頭の良い子にとっては「知っていることを繰り返す」だけの苦痛でしかありません。
それに耐えられなかったのでしょう。
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授業中でもケンカ上等だぁ! 会津藩校「日新館」はやはり武士の学校でした
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富太郎は、楽しかった思い出は文部省発行の『博物図』を見ることだけだったと振り返っています。
現代ならば「ギフテッド」と呼ばれるような才能の持ち主でした。
植物学に目覚める
小学校を辞めた富太郎ですが、生活には困りませんでした。
実家の商売はもう一人の祖父と番頭たちに任せ、思うままに自習する日々を過ごしたのです。
そして幸運なことに、彼の周囲には「勉強ができないから中退したのではない」と見抜いている人もいて、明治10年(1877年)、佐川小学校の「授業生(代用教員)」に任命されました。
小学校中退の富太郎が、最年少の教員となったのです。
彼は教え子たちの興味を惹き、好奇心を刺激すような授業を心がけ、子供たちも楽しく学びました。
富太郎にとっても教えることは楽しい。
しかし、同時に疑問も湧いてしまいます。
『これが己の天職だろうか?』
富太郎は植物に強く引き付けられ、授業の合間に採取して書き写し、観察を続けました。
そんな毎日を過ごしているうちに、次第に、教員でもなく酒屋でもなく、植物の研究に打ち込みたい――そんな願いが湧いてきます。
彼は、とある老人が『本草綱目啓蒙』の写本を持っていると聞きつけると、その閲覧を頼み込み、許可を得ました。
『本草綱目啓蒙』とは、明・李時珍の著作である『本草綱目』について、江戸時代の小野蘭山が講義した記録です。
富太郎は植物学にすっかり魅せられていました。
祖母の浪子にも、いかに素晴らしい書物であるかを熱心に語っていると、彼女もその熱意に負けたのか、『重訂本草綱目啓蒙』という、やや異なる本を大阪から取り寄せます。
植物学への情熱はさらにさらに渦巻いてゆきます。
本が欲しい!
顕微鏡や道具も!
研究環境だって必要だ!
そして自らを「植物の精」だと自覚した富太郎にとって、郷里である佐川は狭過ぎました。
明治14年(1881年)に富太郎は、「第2回内国勧業博覧会」を見学し、顕微鏡や参考書を購入するための上京を決意。
豪商のおぼっちゃまらしく、浪子がつけたお供とともに、盛大に送り出されます。
植物を採取しながら上京すると、彼は『博物図』の作者である博物局の田中芳男も訪問しました。
そこで、田中だけでなく、小野職愨(もとよし)からも歓迎を受け、
『こうなったら東京で植物学をおさめるしかない!』
と腹を決めるのです。
しかし、そうはトントン拍子に進みません。
いざとなると最愛の祖母になかなか言い出せない。
周囲も富太郎が酒造業の跡を継ぐと考えている。
気を紛らすためなのか、当時、燃え盛っていた自由党に誘われ、一時入党したこともありました。
まさに迷走の日々です。
とはいえ、いつまでもこのままではいられない。
富太郎はついに祖母へ本音を切り出します。
上京し、植物学を極めたい――。
そう聞かされた彼女の衝撃はいかほどのものだったでしょう。
しかし浪子は富太郎を尊重し、酒造業を継がせることを断念します。頑固で猪突猛進型の富太郎を止めても無駄だと、わかっていたのかもしれません。
かくして22歳の富太郎は明治17年(1884年)、祖母の愛を残し、再び上京することにしたのです。
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