往年の名作、横山光輝『三国志』。
あまたの登場人物の中で最も「お人好し」オーラを出しているのが、呉の重臣・魯粛でしょう。
下膨れの風貌といい、温厚な性格といい……
横山三国志では、諸葛孔明と協力して劉備と孫権を同盟させ、孔明の打ち出す「天下三分の計」をアシストする役割を果たします。
しかし、軍略の天才孔明と呉の俊英周瑜、二人の間の連絡役として右往左往する、ちょっとかわいそうな役回りも。
孔明に翻弄された挙句、上司の周瑜に「お主は他のことはよくできても、外交官の才能は零(ゼロ)だのう」と言われるシーンは余りにも気の毒です。
それなら魯粛を外交官として使うなよ、周瑜!
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注:あくまで横山三国志での話です
「天下三分の計」オリジナルは魯粛?
さて、なぜ筆者がここまで魯粛に同情してしまうか?
というと、正史における魯粛は、極めて優秀な戦略家と言えるからです。例えば、多くのメディアでは「天下三分の計」は孔明が献策することになっています。
横山三国志でも同様です。
しかし、正史を紐解いてみると、意外な事実にいきあたります。
なんと、魯粛のほうが孔明より先に「天下三分」を唱えていたのです!
孫策が横死し孫権が跡を継いだばかりの頃(紀元200年頃)、魯粛は献策を行います。
「三国志」魯粛伝に曰く。
――曹操は強く、漢は復興できないので、殿は江東を拠点に三分された天下の一つを支配する状況を作り出し、皇帝を名乗ってから、天下が変わるのを待つべきです――
まさにこれぞ「天下三分の計」と呼ぶにふさわしいものではありませんか!
補足しておきますと、渡邉義浩「『三国志』の政治と思想 史実の英雄たち」(2012年、講談社)によれば、「孔明が魯粛の策をパクった」とかいう単純なものではなく、魯粛と孔明の策は根本の思想から違っていた、ということは注意しておいてください。
孔明が劉備に進言した策をまとめると、
「まず天下を曹操・孫権・劉備で分け、孫権と連合して曹操を倒し、そののち孫権も倒して、漢朝を復興させましょう」
というものです。
漢朝の復興が前提にあって、そのための一番現実的な筋道としての天下三分だったわけです。
それに比べて魯粛はどうか?
孔明より早く皇帝につけと進言
魯粛は主君の孫権に「皇帝を名乗れ」と言っています。
漢の復興に見切りを付け、孫権の勢力を生き残らせるのを最優先する戦略が、魯粛にとっての天下三分。
漢朝への忠誠を一番に考える儒教的な考えを持っていた当時の名士たちから見れば、相当に常識を超えた策です。
また、曹操・孫権に続く「第三の男」として劉備勢力を育てようとする、という戦略も革新的ですね。
「自ら帝位を名乗る」という大胆な発想はその時の孫権にはなく、魯粛の天下三分の計は生かされませんでした。
先見の明がありすぎたのでしょう。
しかし後年、赤壁の戦い(208年)においては、劉備に孫権との同盟を承諾させ、自らの戦略通り天下三分へと中国史を動かしていくのです。
これが真の姿だ!!(くらたにゆきこ・絵)
実は大胆不敵なエピソードの多いイカシタ男
そもそも正史では、
「富豪の家に生まれたが、乱世になると私兵を集めて訓練をし始め、周りから『狂児』と呼ばれた」
「周瑜に食料の援助を頼まれたとき、倉一つをまるごとあげてしまった」
などなど、大胆不敵にして気前の良い快男児であったことがうかがえます。
最近では、ゲームでの知略値を高くしてもらったり、漫画「蒼天航路」では能動的に動くかっこいいキャラクターとして登場したりと、魯粛の扱いは確実に向上していますが、その能力や魅力は、さらに評価されてしかるべきではないでしょうか?
三城俊一・記
【参考】
『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』渡邉義浩(→amazon link)