前田利家の肖像画

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なぜ前田利家は出仕停止を喰らいどうやって復帰したのか|豊臣兄弟レビュー第5回

織田家への出仕を停止されていた前田利家が復帰となり、御前試合で強さを発揮。

決勝では秀吉を軽くあしらっていましたが、そもそも利家はなぜ信長の怒りを買い、復帰できたのか、ドラマのレビューと併せて見てまいりましょう!

『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説

 

家康と清洲同盟

永禄五年(1562年)、美濃攻めに集中したい織田信長は、三河で独立した松平元康(徳川家康)と同盟を締結。

いわゆる清洲同盟を結ぶと、その帰り、秀吉が案内を請け負います。

馬に乗り、三河への道中を進む家康一行。

秀吉はいきなり「草むらの中に人影がいる」と嘘をついて家康と二人きりになると、偉くなる秘訣を尋ねます。

「信長殿を信じること、大事なのはここじゃ、熱意じゃ」

「ありがとうございます! 肝に銘じまする!」

松下洸平さんの家康に似合うエエ言葉やんけ!

と思いきや、石川数正と二人きりになると、突如、本心を明かします。

「全て逆のことを言うてやったわw 織田の下侍になぜ教えてやらねばならんのだw」

「ワハハハハハハ」

えっ? 全て逆ってことは、信長を信じず、熱意は不要ということ?

なぜ、そんな歪んだことを……。

信長は、家督を継いでから天下人になるまで、親類や大名から数々の裏切りに遭ってきました。自業自得の面もあり、もはや信長の得意技と言ってもいいほどでしょう。

しかし家康だけは違った。

徳川だけは、浅井朝倉、武田信玄から鬼のような重圧を喰らっても信長を裏切らず、なんなら本能寺の変で信長が亡くなっても、形式的にはその息子の織田信雄に味方しています。

戦国乱世で荒廃した人心が本作の家康像にも反映されているのでしょうか。だとしたら哀しすぎる……。

 


小牧山城への移転

徳川家康との同盟が締結した織田家は、もはや背後に憂い無し。

あの家康だったらいつ裏切るかわからんけども、ともかく全力で美濃攻略に取り掛かります。

第一歩として、永禄六年(1563年)、信長は本拠地を小牧山城へ移動しました。

近年の発掘調査で小牧山城は立派な石垣で建築されたことが明らかになっていて、美濃攻略において非常に重要な拠点だったことが語られます。

なぜ小牧山城が重要だったのか?

まずは以下の地図をご覧ください。

北の美濃へ攻め込むためには清洲城より小牧山城のほうが圧倒的に近い。

さらには本拠地の移動というのはコストもかかって面倒ですから、家臣団の引き締めにもなり、石垣の城で織田家の威光を示す意味もあったと考えられます。

どうじゃ、ワシはこんな城を作れるんだぞ! おまえらキッチリついてきて、働けよ! ということですね。

 

利家 出仕停止からの復帰

小牧山城への移転を果たすと、織田家では御前試合が開催されることになりました。

会場は『どうする家康』を彷彿とさせるコロッセオstyle――ブレイキングダウンの始まりですな。

竹柵の周囲には多くの見物人も集い、まるでムエタイの賭けのように、観客たちも「いけぇ!」「やれぇ!」と盛り上がっています。

👉️奉行の武士は別記事「武田佐吉は実在するのか?」をどうぞ

注目は、やはり優勝候補の前田利家でしょう。

「槍の又左」として若い頃は血気盛だったことも知られ、信長の怒りを買い、織田家へ出仕停止にさせられたのも暴力事件が原因でした。

いわゆる「笄斬り」であります。

「笄」とは「こうがい」と読み、刀の装身具、あるいは髪を固めるための装飾品となります。

利家が使っていたのは、まつの父・篠原主計の形見の品だったのですが、永禄二年(1559年)、信長の同朋衆である拾阿弥にそれを盗まれ、さらには侮辱までされました。

そこで利家は拾阿弥をぶった斬るのです。

何も殺すことはないだろう……とは皆さんも思うかもしれません。しかも、信長の前で斬ったと『利家公御代之覚書』に伝わっていて、だとすれば出仕停止も致し方ないかもしれません。

前田利家の肖像画

前田利家/wikipediaより引用

では、その後どうやって復帰したのか?

まず永禄三年(1560年)、利家は桶狭間の戦いへ勝手に現れて首を3つ取り、さらには永禄四年(1561年)5月、森辺の戦い(森部の戦い)にも参戦。

そこで「首取り足立」の異名を持つ猛将・足立六兵衛を討ち取り、信長に赦されたのです。

 

秀吉と利家の仲が悪すぎる

利家が追放された「笄斬り」から御前試合までを、時間軸に沿って確認しておきましょう。

永禄二年(1559年)笄斬りで利家出仕停止

永禄三年(1560年)桶狭間の戦い

永禄四年(1561年)森辺の戦いで利家復帰

永禄五年(1562年)清洲同盟締結

永禄六年(1563年)小牧山城へ移転・御前試合

森辺の戦いから2年も経過しているのですが、前田利家と秀吉の仲が悪い! 寧々とまつの関係もよくない!

つか、いくらなんでも険悪すぎません?

秀吉は遺言書の中で利家のことを「おさなともだち」と古くから親密だったことを記しており、実際、豊臣政権の中でも重きを置いていました。

👉️別記事「史実から見る前田利家と秀吉の関係

もしかしてこの二人は、今後の戦場で極限状態に追い込まれ、そこで互いを助け合うなどして、「それからは一番の理解者に!」みたいな展開になるんですかね。

ともかく御前試合でせっかく利家が優勝しても、なんだかムズムズして素直に喜べません。

秀吉は、相変わらず汚い手ばかり使うしなぁ……。

信長だったら「相撲でもよかったのでは?」とも思ったのですが、「槍の又左」を目立たせるためにには武芸大会しかなかったのか。

本作は、豪傑タイプの武将が不憫でなりません。

利家だけでなく、城戸小左衛門にせよ、柴田勝家にせよ、意地悪感が半端ない。

豊臣兄弟の主人公目線だからそうなるのかもしれませんが、山口馬木也さんの勝家は個人的にお気に入りなので、散り際が華々しいものになるよう願っています!

 


斎藤道三と大沢次郎左衛門

今回は、もう一人の豪傑・大沢次郎左衛門も登場。

御前試合で豊臣兄弟が策を弄したことを見抜いた信長が、二人に次郎左衛門の守る鵜沼城の調略を命じます。

かなり安易な気もしますし、秀長自身が「御前試合とはわけが違う!」と狼狽しますが、秀吉は出世のことしか頭にありません。

しかも、鵜沼城の大沢次郎左衛門は斎藤道三に見出された猛将で、そう簡単ではない相手ですから、ここをどう口説くか?というのは今回一番の見どころになるのでしょう。

兄弟はまず、弥助らを使って稲葉山城下に「次郎左衛門が織田家へ内通」の噂を流しました。

と、程なくしてそれを耳にした斎藤龍興が呼び出し、次郎左衛門がひれ伏します。

龍興いわく、身の潔白を証明するためには、妻の篠を人質として出さねばならんとか。

斎藤龍興の鬱屈した小物感がイメージ通りっすねぇ。

そして豊臣兄弟が、いざ本番とばかりに、次郎左衛門を調略しにきました。

「稲葉山城から援軍はもう望めません。今こそ織田につくときです」

しかし、そこへ連れ出されてきたのが弥助。

二人の策が見抜かれるどころか、弥助が捕らえられるとは、さすがに驚きました。

いつまで噂を流してたんよ! 弥助はプロの間者ではないのか? 捕まるってマヌケすぎません?

大沢次郎左衛門が刀を構えます。こんなもん一刀両断にするしかないべ。と、思ったら秀吉の大演説。

「ワシは侍大将になって、寧々殿と結婚するんじゃ~!」

一言でいうとこんなところで、どうしようもなくどうしようもないのですが、なぜか刀を収める次郎左衛門。

篠の姿が頭をよぎる次郎左衛門が「気が変わらぬうちにさっさと失せよ」と続けると、秀吉は「残る!」と主張します。

「わしは這い上がる、信長様の期待に応える」

「織田信長とはどんな男じゃ」

「あなた様が仕えるのに相応しい方です!」

いやはや、これで調略成功……って、さすがに言葉を失いそうになったところで、斎藤道三の肖像画そっくりな麿赤兒さんが画面に現れ、すっかり意識は『ネットニュースになるな』と持っていかれてしまいました。

斎藤道三の肖像画

斎藤道三/wikipediaより引用

兄の秀吉を鵜沼城に残し、大沢次郎左衛門を小牧山城へ連れていくことができた小一郎(秀長)。

しかし、待っていたのは厳しい展開でした。

 

次郎左衛門を殺すメリットが薄すぎる

次郎左衛門の従者が苦無(くない・忍者の武器)のような武器を隠し持っていて、しかも毒が塗られていました。

果たして次郎左衛門は信長と刺し違える気だったのか。

従者の単独行動か。

どっちにしろ成功率は著しく低く、じっくり調べる必要があるでしょう。

しかし、即座に「始末せよ」と言い放つ信長。

嗚呼、それは、ノブヤボ知力10以下の所業……。

信長は秀吉がどうなろうと構わないのでしょうか。

仮に、次郎左衛門が殺されれば、鵜沼城に残された秀吉も殺される可能性が高いはず。

しかし「城に残る」と言ったのは秀吉です。

少なくとも当初の段階で、次郎左衛門が信長を殺す気などなかったはずで、もしもここで次郎左衛門を始末してしまったら、鵜沼城を手に入れられず、秀吉まで殺されてしまいます。

そうなれば秀長が信長に対して殺意を抱くリスクも生じる。

殿、ここはとにかく秀吉の安否確認が絶対ですぞ!

次郎左衛門は牢に入れておき、もしも秀吉が殺されていたら、その段階で始末すればいいじゃないですかぁあああああああ!

 


史実の信長はどう攻略した?

そもそも今回の大沢次郎左衛門調略については、拠点攻略の手順に無理があるように感じました。

まず、犬山城の織田信清攻略も済ませずに、それを通り越して鵜沼城へ調略を仕掛けたことです。

実は鵜沼城のすぐ北には多治見修理の守る猿啄城(さるばみ・勝山城)があり、もしも次郎左衛門が一人で織田家に降ったら、あっという間に取り囲まれてしまうリスクがあります。

以下の地図をご覧ください。

鵜沼城と犬山城の間には木曽川が流れていますので、互いに攻めにくいにしても、斎藤龍興が稲葉山城と猿啄城(さらに北には加治田城)から兵を送ったら、次郎左衛門はどう対応するのか?

織田方が、犬山城と同時に鵜沼城、猿啄城を調略工作しているならわかります。

しかしこんな危険な状況で次郎左衛門が首を縦に振ると思えないのです。

では実際、信長はどうやって攻めたか?

『信長公記』を参考にしますと、永禄七年(1564年)に犬山城を攻略し、永禄八年(1565年)夏に鵜沼城と猿啄城、さらに北の加治田城を落としています。

つまり先に犬山城の攻略があって初めて鵜沼城と猿啄城(と加治田城)へ攻め入ることができたのであり、それが自然な流れでしょう。

ではなぜドラマでは、こんな展開になったのか?

考えられるのは“キャラクター性”でしょうか。

犬山城は落城の時期に異説(永禄八年)があるだけでなく、城主の織田信清がハッキリ言って地味です。

信長に敗れて、武田信玄のもとへ逃げているところは面白いのですが、他に強いエピソードはありません。

一方、鵜沼城の大沢次郎左衛門は、身長2m20cmほどの巨漢であったという猛将伝説が残されているだけでなく、後に豊臣秀吉と豊臣秀次(兄弟の姉ともの子)に仕えることになる。

となると、今回の話が何らかの伏線となって活きてくる可能性もあるわけで……よろしければ別記事「大沢次郎左衛門とは何者か?」をご覧ください。

来週は選挙でお休みですので、次の第6回放送は2月15日となります。

『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説


参考書籍

太田 牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年10月 吉川弘文館)

【TOP画像】前田利家/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

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川和二十六

歴史学科を卒業。大河ドラマ『豊臣兄弟』レビューおよび歴史エンタメ記事を担当。歴史記事以外でも様々な分野のライティングや編集業務もこなしている。 ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001138406

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