大河ドラマ『豊臣兄弟』ではあまり目立たぬ存在ながら、実は重要な役割を担っていた浅野長勝。
若き秀吉の才能を見込み、寧々との結婚を決めたのも長勝ではなかろうか?という指摘がある。
秀吉と寧々の将来に大きな影響を与えた、浅野長勝の生涯を振り返ってみよう。
信長の側近「六人衆」の一人
浅野長勝は生年が不詳。
出身は尾張であり、織田信長に仕えた「六人衆」の一人に数えられている。
「六人衆」とは『信長公記』にも掲載されている信長の側近で、

織田信長/wikimedia commons
弓の得意な「弓三張」、槍の得意な「槍三本」が選ばれており、長勝は弓三張の一人だったのだ。
◆弓三張……浅野長勝・太田牛一・堀田孫七
◆槍三本……城戸小左衛門・伊藤清蔵・堀田左内
では長勝は、どれだけ弓が得意だったのか?
こうなると弓に関わるエピソードが欲しくなってくるが、残念ながらそうした逸話は残されていない。
槍三本には、ドラマの中で豊臣兄弟の父の仇とされていた城戸小左衛門も入っており、さらに弓三張には『信長公記』の著者・太田牛一も入っている。
なかなか個性的なメンバーだったと言えよう。
しかし、史実の長勝当人に大きな武功などは残されておらず、その代わりと言ってはなんだが、同時代で一人しか成しえない大きな功績を残している。
それが養女・寧々と秀吉の結婚だ。
秀吉の将来性を見込んで長勝から?
寧々と秀吉は恋愛結婚じゃなかったのか?
一般的にはそう信じられがちな二人であり、実際、ドラマの第6回放送では秀吉が寧々にプロポーズしていた。
しかし当時の結婚とは当事者だけの問題ではない。
秀吉の実家、寧々のいた浅野家、そして何より、両者が仕える信長にも関わってくる話であり、好きだからといって簡単に結ばれるような環境ではなかった。
では二人は、どんな経緯でいつ結ばれたのか?
ひとつ大きなヒントになりそうなのが結婚時期である。
秀吉と寧々の結婚は、永禄四年説(1561年)と永禄八年説(1565年)があり、かつては寧々が13歳のとき=永禄四年が妥当ともされていたが、『豊臣兄弟』時代考証の黒田基樹氏は永禄八年説を支持。
確定までには至らないが、実は永禄八年というのは、秀吉にとって非常に重要な年と言える。
なぜなら調略を成功させて、初めて史料に登場するのがこの永禄八年11月なのだ。
グイグイと出世し始めていた時期と見ることもでき、これだけ信長に才能を見込まれているなら、寧々の結婚相手に良さそうだ――浅野長勝がそう決めたと見る方が自然であると、歴史学者の呉座勇一氏も『真説 豊臣兄弟とその一族(幻冬舎)』の中で指摘している。

娘婿の浅野長政が五奉行筆頭へ大出世
浅野長勝も、さすがに秀吉が関白まで出世するとは夢にも思わなかったであろう。
ただ、残念なことに、当人はそれよりかなり前に亡くなっている。
正確な年月日は不詳で、以下のように3つの説がある。
・永禄十一年(1568年)9月『祖父物語』
・永禄十二年(1569年)3月20日『高野山過去帳』
・天正三年(1575年)9月10日『寛政重修諸家譜』
長勝の跡取りは、実娘の婿に迎えた浅野長政。

浅野長政/wikipediaより引用
長政は天文十六年(1547年)生まれなので、長勝の没年が上記いずれの年であっても、浅野家を継ぐのに問題はなかっただろう。
長政は織田家の弓衆になった後すぐに秀吉の与力として仕えていて、天正元年(1573年)に150石、天正十年(1582年)に京都奉行、天正十一年(1583年)には近江坂本城主となり2万300石の知行を獲得。
さらには豊臣政権で五奉行の筆頭にまで出世したことは皆さんもご存知であろう。
徳川政権においても、浅野家は秀吉に近いことから逆に家康に重宝され、互いの娘を嫁がせたりして関係を強化している。
そうして幕末まで御家を存続させたのも、すべては浅野長勝の決定から始まっていたと思うと感慨深いものがある。
👉️長政の詳細については別記事「浅野長政の生涯」をご覧ください
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
参考書籍
黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(2025年5月 KADOKAWA)
呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(2025年11月 幻冬舎)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
