大垣城

美濃の城は何がすごい?大垣城・墨俣一夜城・岐阜城を歩いてわかったこと

2026/04/23

大河ドラマ『豊臣兄弟』で盛り上がる美濃(岐阜県)を堪能するにはどうする?

実際に現地を回るのが先決だろう――ということで前回、岐阜県観光企画課さんの協力も得て「関ヶ原」の現地レポートを送らせていただき、今回は「美濃の城」に注目。

西軍の本拠地となった大垣城、秀吉大出世のシンボル・墨俣一夜城、さらには信長天下布武の野望が詰まった岐阜城とは一体どんな城なのか。

戦国武将たちの築城の知恵と、戦火の裏側で生きた人々の物語をたどっていこう。

大垣城

 

大垣城

関ヶ原の戦いにおいて、石田三成ら西軍が当初は本拠としていた大垣城。

大河ドラマ『豊臣兄弟』では氏家直元(卜全)が本拠地としていた城であり、堅牢な要塞というだけでなく、非常に珍しい特徴を持った城郭でもある。

「城は数百年だけど、石垣には数億年の歴史がありまして……」

一見すると不思議な切り口から現地を案内してくれるのは、大垣城を知り尽くしたガイドの林田さん。

数億年とはいったい何のことなのか。

 

石垣に詰まった「地質学的奇跡」

石垣の一角を指差しながら林田さんが言う。

大垣城の石垣

「これ、何に見えますか?」

目を凝らすと、石の表面に無数の小さな渦巻きや不思議な模様が浮かび上がっている。

すべて化石――数億年とは、つまりそういうことだ。

古生代に生息していた有孔虫のフズリナや二枚貝のシカマイア、さらにはサンゴやウミユリなど。

その大半は、大垣城から約4km離れた金生山(かなぶやま)から運ばれてきた石灰岩だ。

「昔、この地域は海だったんです」

林田さんの説明を聞きながら、思わず足元の石垣を見直す。

戦国の城を支える石の中に、数億年前の海生物の痕跡が眠っているとは……まさに歴史と地球の時間が重なり合った場所ではないか。

以前ここを訪れた地質学者が「年代の違う化石が一つの石に詰まっているなんて奇跡だ」と絶叫し、石を抱きしめていたという逸話も残るほどだ。

石垣は、四角く整えられた石と、自然の形を残した石が混在。

前者は比較的新しい時代のものであり、後者は戦国期に「野面積み」と呼ばれる工法で積まれたものだ。

城の石垣は、単なる防御施設にとどまらない。

日本固有の地質、大工集団の技術、そして時代の変遷が刻まれているのである。

 

邪鬼を封じる鬼瓦

大垣城の天守は、全国的にも珍しい「四層四階」という構造を持つ。

通常、城の階数は縁起を担いで「三」や「五」にすることが多いが、あえての四層構造だそうだ。いったいなぜ?

「昔は“四”という数字を縁起が悪いと考える人も多かった」

林田さんはそう説明しながら、天守の屋根に据えられた鬼瓦を指差す。

大垣城の鬼面鬼瓦

鬼瓦には魔除けの意味があり、城に入り込む邪鬼を抑え込む役割があるという。

四層で不吉ともされる構造を守るため、その象徴としての鬼瓦だ。

また、石垣には、面白い“線”も刻まれている。

「明治時代に起きた洪水で、ここまで水位が上がったと記録されているんです」

水害の高さが記された大垣城の石垣

大垣は古くから水運で栄えた町であり、同時に水害と向き合ってきた土地でもある。

だからこそ、水害への警戒を後世へ伝えるため、消えにくい石垣に刻んだのだろう。

石垣からは、そんな歴史も見えてくる。

 

大垣城からの脱出と首化粧

大垣城で、意外なインパクトを放っているのが『おあむ物語』である。

大垣城『おあむ物語』

そもそも『おあむ』とは何か。

関ヶ原の戦いのとき「たらいに乗ってお堀を渡り、落城寸前の大垣城から脱出した」と伝えられる女性がいた。

石田三成に奉公した山田去暦の娘とされ、そんな彼女が老尼になってからの言葉をまとめたのが『おあむ物語』だ。

「おあむ」とは「御庵(おあん)」のことで、老女の尼を指す。

その中にこんな記述がある。

・城内の女性たちが、討ち取られた武将の首を丁寧に洗い、化粧を施していた

首の正体はいったい誰なのか、すぐに判別がつくよう名札をつけ「首化粧」を施し、主君が行う「首実検」にそなえる。

戦国時代の合戦は武功ばかりが語られがちだが、その背景にはこうした女性たちの役割もあった。そんなことも教えてくれるのが『おあむ物語』だ。

現在、大垣では、彼女の逸話をもとにした「たらい舟」のイベントを行い、人々に親しまれている。

 

墨俣一夜城

大垣城から東へ約8kmのところに全国でも屈指の知名度を誇る城跡がある。

長良川沿いに建つ墨俣一夜城――。

墨俣一夜城

豊臣秀吉が一晩で築いたという伝説で知られる場所だ。

城の建設には、上流の山で切り出した木材が使われた。

事前に加工され、川を利用して運ばれた後、現地で一気に組み立てられた、現代の建築で言えばまさに「プレハブ工法」だ。

秀吉がこの作戦に成功した最大の理由は、地域勢力の取り込みにあった。

長良川流域で水運事業を営んでいた「川並衆」を味方につけたことで、物資の輸送が可能になったのだ。

大河ドラマ『豊臣兄弟』では、築いた城がわずか一晩で焼け落ちたという描き方もされており、様々な想像でも楽しめる場所。

岐阜へ来たからには一度は訪れてみたい場所だ。

 

岐阜城

美濃の城――その締めくくりはやはり岐阜城だ。

岐阜城

織田信長が本拠としたこの城は、金華山の山頂に築かれている。

現在はロープウェイで山頂付近まで登ることができるが、頂上に立った瞬間、信長がこの城を選んだ理由が一目で理解できる。

眼下には濃尾平野が広がり、遠くには関ヶ原方面の山々まで見渡せる、まさに「天下を見渡す城」なのだ。

岐阜城からの景観

信長はこの地で「楽市楽座」を実施。

戦乱で離散していた住民を呼び戻し、新たにこの地を「岐阜」と名付けた。

山頂の城から見下ろす城下町の景色は、まさに信長の「天下布武」構想を象徴しているようにも感じられる。

信長を語るうえで外せない場所だ。

なお、麓の長良川では1300年以上続く伝統漁法「鵜飼」が現在も行われている。

信長もこの鵜飼を愛したと伝えられており、戦国の城と古代から続く文化が同じ景色の中に共存しているのが興味深い。

 

関ヶ原の前後に広がる「戦略の舞台」

前回、関ヶ原の体験レポートで「天下分け目の6時間」を体感させていただいた。

大垣城や岐阜城は、その決戦を支えた舞台でもあった。

数億年前の海の記憶を宿す大垣城の石垣。

秀吉の伝説を物語る墨俣一夜城。

そして信長が濃尾平野を見渡した岐阜城。

美濃の各城には、武将たちの息遣いが刻まれている。

知名度は低くても斎藤家や土岐家、織田家とゆかりのある城が他にも数多あるため、一度では回りきれないかもしれない。

そんなときは、現地の展示に記された言葉を思い出したい。

『美濃へは何度でも訪れよ』

――織田信長の言葉として紹介されている一節である。

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

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取材協力

岐阜県観光企画課(公式サイト
現地ガイド林田さん

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菅堅太

1992年生まれ、大阪府出身の編集者・ライター。出版社や編集プロダクションで書籍・雑誌の制作に携わり、独立後の2019年には記事制作会社「合同会社エーライト」を設立し、同代表を務める。イベント取材や発表会レポートを中心に、一次情報をもとにした記事制作を得意とする。歴史や地域文化、ライフスタイル分野での執筆実績多数。現地での体験を重視し、読み手に“行きたくなる”臨場感ある記事を届けている。

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