日本の歴史に触れる上で、これほど濃密な“6時間”も珍しい。
慶長5年(1600年)9月15日、東西約15万もの軍勢がこの地に集結し、日本の行く末を決した関ヶ原の戦い――。
今回、筆者は現地ガイド天野さんや岐阜県観光企画課さんの協力を得て、戦場を実際に歩き、五感で辿った。
史実と現地の地形を照らし合わせながら、初心者にもわかりやすく、その魅力を辿っていきたい。
15万人の駒を動かす「軍師」の視点
取材当日は、あいにくの雨。
しかし、現地ガイドの天野さんは目を輝かせる。
「関ヶ原の戦い当日も、前夜からの雨が上がり、開戦時は深い霧が立ち込めていたといいます。今日のこの天気は、まさに420年前の再現ですよ」
立ち込める白霧の向こう、西軍・石田三成が布陣した笹尾山が幽玄に霞む。
当時の武将たちが見た視界の悪さ、湿り気を帯びた空気。その臨場感のなかで、関ヶ原への旅は始まった。
岐阜関ケ原古戦場記念館
ツアーの拠点であり、最大のハイライトの一つが「岐阜関ケ原古戦場記念館」だ。

ここは単なる歴史資料の展示施設ではない。
来館者に「慶長5年9月15日」を立体的に追体験させる、没入型の展示施設である。
シアター前に「地形」を脳に刻む導線
映像展示へと続く回廊は、時系列順に合戦へと向かう歩みが描かれている。

ここを通るだけで、否応なしに高まる緊張感。
まず驚かされるのは1階の「グラウンド・ビジョン」だ。
床一面の巨大スクリーンに、関ヶ原の起伏に富んだ地形と、刻一刻と変化する両軍の布陣図が映し出される。
西軍8万、東軍7万。
三成は笹尾山、家康は桃配山に本陣を構えた。
西軍は鶴が翼を広げたような『鶴翼(かくよく)の陣』。
対する東軍は、魚の鱗のように連なった『魚鱗(ぎょりん)の陣』――。
ナレーションと共に、東西の駒が地形を縫って動き出すのを「空からの視点」で俯瞰する。
この予習があるからこそ、次に向かう「シアター」での没入感が跳ね上がるのだろう。

「シアター」ではどこからか風が吹き抜け、巨大スクリーンの中で武将たちが咆哮する。
さっきまで俯瞰していた「駒」の一つひとつが、血の通った一人の人間としてぶつかり合う様を、身体全体で体感できる。
動き出す屏風が伝える関ヶ原
2階の展示室では、関ケ原の戦いの発端から終結までの流れを、古文書などの資料や映像展示とともに紹介している。

戦いの経緯だけでなく、江戸時代以降に関ヶ原の戦いがどのように語り継がれてきたのか、史跡保存の経緯なども解説されており、関ヶ原が「歴史として受け継がれてきた戦い」であることが分かる構成だ。
展示の中でも印象的なのが、合戦図屏風をもとに制作されたデジタルアート作品「動く合戦図屏風」である。

嘉永七年(1854年)に描かれた『関ヶ原合戦図屏風』をモチーフにした『関ヶ原群像図屏風』や、重要文化財『関ヶ原合戦図屏風』をもとにした『関ヶ原山水図屏風』など。
屏風に描かれた武将や足軽、武器の動きがピクセルアニメーションによって再現され、静止画では想像しにくい合戦の緊迫感を映像として体感できる。
仕上げは5階の展望室だ。

先ほど映像で見た「物語」が、目の前の「リアルな地形」として完璧に重なり合う。
「あそこに石田三成がいた笹尾山がある」
「家康はあそこからこの距離まで前進した」
展望室から視覚的に距離を測り、武将たちの心境を想像してから実際のフィールドへ向かう――この導線こそが、記念館が提示する“関ヶ原の歩き方”なのだ。
なお、別館にはレストランやお土産屋も併設されている。
「戦略武将カレー」や「必勝かつ丼」など、関ヶ原をイメージした料理に舌鼓を打ち、同地の歴史に思いを馳せてみてはいかがだろう。

関ケ原笹尾山交流館で「甲冑体験」
記念館を堪能した後は、関ケ原笹尾山交流館で「甲冑体験」に挑む。
ここで体験できる甲冑は、見た目の再現度だけでなく、重量感までしっかり感じられる仕様だった。

身体に食い込む「死戦」のリアリティ
筆者が纏ったのは石田三成モデルの甲冑。
専門スタッフの手を借りて着込んでいくが、とにかく重い。

実物に近い構造の甲冑は、およそ7kgから10kgを超え、ずっしりと肩に食い込む感触は忘れがたい。
武将たちは、この重さを背負って雨の関ヶ原で指揮を執っていたのか……。
実際に着てみることで、後の史跡巡りで目にする「陣跡」間の移動距離が、単なる地図上の数字ではなく、凄まじい身体的負担を伴った「生と死の距離」として迫ってくる。
晴天時であれば、甲冑姿のまま史跡まで歩くことも可能とのこと。
三成と同じ重圧を背負い、家康の陣を睨む。
こうした没入体験は、関ヶ原という土地ならではの魅力だろう。
黒田長政と福島正則の兜交換
また、甲冑には武将同士のドラマも刻まれている。
特筆すべきは、同じ豊臣子飼いの将でありながら、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の時に、名槍「日本号」を巡って一時不仲となっていた黒田長政と福島正則のエピソードだ。

その後に和解した二人は、その証としてお互いの自慢の兜を交換した。
正則から長政へは、竹中半兵衛から譲り受けた「銀箔押一の谷形兜」が贈られ、長政から正則へは、水牛の角が伸びた「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」が贈られた。
驚くべきは、その後の関ヶ原の戦いにおいて、二人がその「交換した相手の兜」を被って出陣したという点だ。
展示室で彼らの兜を見比べる際、この友情の物語を知っているかどうかで、造形美の奥にある熱量は俄然変わってくる。
さぁ、戦場へ繰り出そう
この日、最後に行ったのは史跡巡りだ。

石田三成の陣跡をはじめ、徳川家康の最初陣跡である桃配山や、最後に勝どきを上げた陣場野などを訪問。
今回は車で各史跡を巡ったが、歴史の解像度を上げたい方は、電動自転車での散策をおすすめしたい。
自分でペダルを漕ぎながら陣跡を目指す高揚感は、代えがたいものがあるからだ。
駅前や古戦場記念館でレンタルできるため、気軽に活用してみてほしい。

家康の縁起担ぎ「大柿は落ちた」
徳川家康が最初に陣を置いた「桃配山(ももくばりやま)」は、壬申の乱(672年)にて勝利した大海人皇子が桃を配ったと伝えられる縁起の良い場所だ。
家康はこうした「縁起」を徹底して重んじたが、それを示す興味深い逸話が伝わっている。
関ヶ原へと進軍する途中、家康が立政寺で休憩していた際のことだ。
住職が家康に柿を献上しようとしたが、うっかりその柿を地面に落としてしまった。
慌てる周囲をよそに、家康はこれを「大柿(大垣)が落ちた」と喜び、西軍の重要拠点であった大垣城の陥落を予兆するものとして勝利を確信したという。
一見不吉な出来事さえ勝利の兆しとして受け取ってしまう――家康の恐るべき胆力とユーモアを感じさせる。
陣場野の「床几場」と首実検
家康が最後に勝どきを上げた「陣場野(じんばの)」では、過酷な戦いの後、「首実検(くびじっけん)」が行われた。
家康は「床几(しょうぎ)」と呼ばれる折りたたみ式の椅子に腰掛け、次々と運ばれてくる西軍諸将の首を一つひとつ検分したとされる。
そのため、この場所は別名「床几場」とも呼ばれる。
霧に包まれたこの場所を歩いていると、勝利の喜びよりも、凄まじい緊張感と静謐さが漂っているように感じた。

天下分け目の地を「体感」する旅へ
関ヶ原は、教科書の中だけで語られる場所ではない。
記念館で戦いの全体像を理解し、甲冑体験で武将たちの重みを体感……そして実際に古戦場を巡ることで、歴史は一気に現実味を帯びてくる。
案内してくれた天野さんのように武将愛に満ちたガイドさんと現地を歩くことで、石碑に刻まれた文字の裏にあるドラマに出会える。

なお、実際に足を運んでみるなら、特別な日「9月15日」をおすすめしたい。
同日の午前8時、黒田長政、竹中重門陣跡にて再現された狼煙(のろし)が上がり、法螺貝が響き渡るのだ。
当時の製法を研究し尽くした「本物の煙」が霧の中に立ち上がる光景を、ぜひ現地で体感してみようではないか。
※なお関ヶ原の戦いを全国規模で把握されたい方は別記事「関ヶ原の戦い 全国版」をご覧ください
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取材協力
岐阜県観光企画課(公式サイト)
岐阜関ケ原古戦場記念館(公式サイト)
関ケ原笹尾山交流館
現地ガイド天野さん
