大河ドラマ『豊臣兄弟』与一郎イメージイラスト

豊臣兄弟感想あらすじ

与一郎は本当に慶の連れ子だったのか?秀長の実子説と養子設定を史実から整理

大河ドラマ『豊臣兄弟』第19回「過去からの刺客」は、レビューする側にとっても難しい展開となりました。

織田信長から信忠への家督継承や、秀吉と勝家の北陸遠征などはわずかな時間で済まされ、その大半が秀長の妻・慶(ちか)の過去に費やされる。

「これは戦国時代を描いた大河ドラマなのか……」

当初そんな疑問を抱いていたところ、ドラマ上では彼女と前夫との間に生まれていた息子・与一郎を、秀長が養子に引き取るという驚きの展開となりました。

果たして、これは史実通りの展開なのか?

与一郎少年は「慶の前夫の子」だったのか?

秀吉と勝家の喧嘩トラブルについては別記事「秀吉が勝家の北陸戦線から勝手に帰還!信長に激怒された後どうなった?」に譲り、今回は秀長の家族構成を史実面から振り返ってみましょう。

 


慶(ちか)は慈雲院にあたる女性

ドラマに登場する慶(ちか)は、史実では慈雲院にあたる女性と見られます。

彼女は豊臣秀長の正室ですが、豊臣秀吉の正室・寧々(北政所)や、母のなか(大政所)に比べると、あまり知られていませんね。

それも無理はありません。

慈雲院については確認できる史料やエピソードも少なく、生涯を辿ることが難しいからです。

和田裕弘氏の著書『豊臣秀長「天下人の賢弟」の実像』によると、慈雲院は神戸伝左衛門秀好の娘とされます。

ドラマでは安藤守就の娘という設定かつ「慶・ちか」という名で吉岡里帆さんが演じていますが、史料上で辿れるのは後年の慈雲院という呼び名から。

※安藤 守就の娘とされている点については、別記事「吉岡里帆演じる慶(ちか)は実在したのか? 秀長の妻・慈雲院殿の正体と謎」で詳しく整理

大河ドラマ『豊臣兄弟』慶(秀長の妻・吉岡里帆さん)イメージイラスト

慈雲院は天正十三年(1585年)、秀長が大和郡山へ入った頃の記録に姿を見せます。

この年、秀長は紀伊・和泉・大和を支配する大大名として郡山城を拠点とするようになり、妻である慈雲院も入りました。

戦国時代の妻は、非常に重要な存在です。

もちろん夫婦であることに変わりはありませんが、大名の妻は家と家をつなぎ、家臣や寺社とも関わり、もちろん後継者問題にも影響してくる。

慈雲院も例外ではなく、そうした働きを示す記録もあり、だからこそ皆さんの大きな疑問になったのが、ドラマでの展開でしょう。

果たして与一郎少年が、慶と前夫の子であり、秀長の養子というのはあり得るのか?

 


与一郎は本当に「前夫の子」だったのか

結論から申しますと、ドラマ独自の演出でしょう。

もちろん「与一郎は慈雲院の前夫の子ではない」と明確に否定する史料はありません。

反対に「慈雲院の前夫の子である」とする根拠もない。

しかし秀長には「与一郎」と呼ばれる男子がいたのではないか、と推定される記述が江戸時代の『森家先代実録』にあり、ここが非常にややこしいところ。

「その与一郎は秀長の実子なのか?」

そう思いたくなりますが、戦国時代に近い史料にそうした記録は残されておらず、確定まではされていません。

秀長の男子については、後世の記録や系図類に混乱があり、後に養子として迎えた豊臣秀保との混同も疑われています。

豊臣秀保イメージイラスト
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いったんまとめますと……。

・与一郎が存在した可能性はあるが江戸時代の史料にのみ登場している

・それが慈雲院の前夫の子だったという確証はない

・したがって秀長が養子にしたという記録もない

ドラマでは、直を死なせてしまった秀長が慶という存在に救われ、血縁にはとらわれず彼女の息子・与一郎を家族として受け入れた、本作ならではの演出ですね。

同時に気になってくるのが「ならば豊臣秀長に実子はいなかったのか?」という点です。

 

秀長に実子はいたのか

豊臣秀長に娘がいたことは確認されています。

秀長の死が迫る天正十九年(1591年)、秀長の娘と、養子である豊臣秀保の祝言が実施されたと伝わります。

彼女は天正十五年(1587年)~天正十六年(1588年)頃の生まれと考えられ、おそらく別妻の子ではないか?と見られています。

つまり、秀長に子がいなかったわけではなく、少なくとも娘はいた。

問題は男子ですね。

大名家の継承という点で重要なのは、やはり男子後継者であり、秀長に男子がいたという話はあっても確実な史料には残されていません。

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikimedia commons

しかし、現実に後継者はどうなったのか?

というと、秀吉の姉・瑞龍院(とも・日秀尼)の三男である豊臣秀保が秀長の家を継ぐこととなります。

秀長から見て甥っ子であり、養子となりますね。

秀長の羽柴家に確実な男子後継者がいなかったからこそ、豊臣一門の中から秀保を迎えたわけです。

再びまとめておきましょう。

・秀長に男子がいたとする伝承はある

・しかし確実性には疑問も残る

・結局、秀長家の後継者は養子の豊臣秀保となった

史実で重要視されるのは、現実に跡を継いだのが甥の豊臣秀保だったという点であり、秀保は後にドラマでも登場するでしょう。

しかしそうなると、この先気になってくるのが養子として迎えられた与一郎少年の処遇です。

彼は一体どうなってしまうのか?

 


与一郎は天正十年に亡くなる?

いくら創作自由なドラマとはいえ、与一郎を、後の豊臣秀保として描くのはさすがに無理があるでしょう。

秀保は天正七年(1579年)生まれであり、劇中ではまだ誕生もしていません。

では与一郎は、今後どんな展開で描かれるのか?

極めて残酷な意見を申しますと、彼は天正十年(1582年)に亡くなったとされる秀長実子の運命がトレースされるかもしれません。

本作の時代考証・柴裕之氏の『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究14』の中で、天正十年(1582年)に秀長の「御実子」が亡くなったとする記述を紹介しているのです。

ただし、出典が藤堂高虎の一代記『高山公実録』に収められた『郡山城主記』であり、後世の史料のため信頼性では劣るとされます。

いずれにせよ、天正十年(1582年)は本能寺の変が起きた年です。

豊臣家(羽柴家)にとっても非常に重要な一年であり、混乱の最中に命を落とす――言い方は酷ですが「ドラマを盛り上げるため」の演出になりそうで……。

本作では、直という架空の女性キャラクターが秀長の初恋相手とされ、農民たちの水争いに巻き込まれて死ぬという劇的な最期を迎えました。

大河ドラマ『豊臣兄弟』直イメージイラスト

それと同じように描かれる可能性を感じさせます。

与一郎が亡くなるからこそ、秀保を養子に受け入れるというストーリー展開ですね。

なんせ史実としての与一郎は、現在のところ曖昧な存在です。

自由に描ける余白は大きく、秀長も秀吉も「家族を持つこと」と「家を残すこと」の難しさを実感させるのではないでしょうか。

 

慈雲院は秀長没後も郡山に残った

戦国時代の大名にとって、家族は政治そのもの。

妻を迎え、子を得て、家を継がせたり、他家へ嫁がせる――すべて家の存続と同盟関係に直結します。

しかも豊臣秀長は秀吉の弟ですから、ただの一武将では済まされません。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikimedia commons

兄が天下人へ近づくにつれ、秀長もまた豊臣一門の中心人物となり、なかなか実子に恵まれなかった秀吉にとっての支えともなりました。

同時に自身の焦りもあったでしょう。

なぜ男児に恵まれないのか。

養子を迎えた後、誰と結婚させればよいのか。

豊臣政権全体の問題でもあり、最終的に秀保を選び、天正十九年(1591年)に秀長は亡くなりました。

その後、家を継いだのは養子の豊臣秀保ですが、慈雲院は、秀長の死後も豊臣家で一定の立場を保ち、秀保の養母として郡山城に留まったとされています。

奈良の戒壇院再興に関わっており、郡山豊臣家の奥を支える立場にあったことがうかがえます。

慶(ちか)も、秀長が大名として成長していく中で、その家の内側を支える女性になっていくのかもしれません。

今回、手取川の戦い直前に起きた豊臣秀吉と柴田勝家の対立も描かれました。

天正五年(1577年)、上杉謙信が能登へ進み、七尾城を攻めると、その救援のため柴田勝家を中心とする北陸遠征軍が組まれたのです。

そこに秀吉も加わり、勝家と対立。

そもそも、なぜ柴田勝家を中心として北陸遠征が行われたのか。

この辺りは信長が嫡男の織田信忠へ家督を譲ったことや、安土城の築城を始めたこと、さらには同年に朝廷から右近衛大将などに任じられたこともあり、非常に見どころのある流れでもあります。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

確かに、秀吉や秀長の功績とは直接関係はない。

しかし、本来であれば秀吉が派遣される中国方面の動向や、松永久秀の謀反なども控えていて、戦国ドラマならではの醍醐味が感じられるところでもある。

それは次回の放送に期待するとしまして、戦線を離脱したことは別記事「秀吉が勝家の北陸戦線から勝手に帰還!信長に激怒された後どうなった?」をご覧いただければと存じます。

豊臣秀保イメージイラスト
17歳で夭折の豊臣秀保|秀長の養子となった豊臣兄弟の甥はなぜ早逝したのか

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◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考文献

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川和二十六

歴史学科を卒業。大河ドラマ『豊臣兄弟』レビューおよび歴史エンタメ記事を担当。歴史記事以外でも様々な分野のライティングや編集業務もこなしている。 ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001138406

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