松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)

豊臣兄弟感想あらすじ

松永久秀は“将軍殺し”なのか?義輝暗殺から本圀寺の変へと繋がる史実|豊臣兄弟

大河ドラマ『豊臣兄弟』の第11回放送は梟雄として知られる松永久秀(竹中直人さん)が登場。

他にも堺の豪商との交渉や「本圀寺の変」の勃発など、見どころ満載の内容でしたが、今回のレビューはまず「将軍殺し」の悪名を着せられた久秀について、史実面から振り返ってみましょう。

 

信長と連絡を取り合っていた久秀

小栗旬さん演じる織田信長と対面し、茶器の名物「九十九髪茄子」を献上した松永久秀。

劇中での両者は、いかにも初めて見知ったような雰囲気で描かれていましたが、実際は以前から信長と久秀は連絡を取り合っていました。

なぜか?

というと久秀が、三好三人衆と敵対するようになったからです。

といっても、少々わかりにくいと思われますので、それまでの流れを見ておきましょう。

もともと松永久秀は、天文二十二年(1553年)頃からの三好政権で重臣を務めていました。

三好政権とは、三好長慶のもとで畿内一帯や四国の一部を制していた勢力であり、久秀はその長慶から絶大な信頼を得て、京都の政務や大和を任されていたのです。

三好長慶の肖像画

三好長慶/wikimedia commons

大河ドラマ『麒麟がくる』での吉田鋼太郎さんを覚えている方も多いでしょう。

京都政務や大和支配を担う、三好政権の中枢人物でした。

しかし、その政権も10年以上が経過し、永禄七年(1564年)に三好長慶が死亡すると、風向きが変わってきます。

翌永禄八年(1565年)に、久秀が「将軍殺し」の悪名を着せられることになった「永禄の変」が勃発。

将軍・足利義輝が殺され、当時僧侶だった覚慶こと足利義昭(尾上右近さん)が三好勢の意向で監視下に置かれます。

そんな義昭を久秀が脱出させたことにより三好三人衆との対立が激化し、永禄八年末には三好政権から追い出されてしまいました。

この段階で

三好三人衆
vs
松永久秀

という構図です。

 


上洛を待ち望んでいた久秀

永禄八年末、三好政権から追い出された松永久秀は苦境に追いやられていきます。

大和では筒井氏との争いがあるだけでなく、堺での一戦などでも敗戦に追い込まれ……。

そうした劣勢の中で、足利義昭の上洛要請に名乗りを挙げていた織田信長と接触を取り始めます。

当時の織田信長は尾張統一を済ませたばかりで上洛可能性は危ういものでしたが、永禄十年(1567年)9月に美濃攻略を果たすと、俄然現実味を帯びていきます。

おまけに三好政権では、跡継ぎの三好義継が松永久秀と手を組むこととなり、三好三人衆との対立が激化。

そこで勃発したのが久秀の悪名を高める「東大寺大仏殿の戦い」です。

構図的にはこうなりますね。

三好三人衆
vs
松永久秀・三好義継・織田信長

永禄十年(1567年)10月、三好三人衆と東大寺で合戦を始めた松永久秀。

東大寺盧舎那仏像

東大寺盧舎那仏像

大仏が焼かれてしまうという大事件に発展しますが、そもそもこの戦いは三好三人衆が東大寺大仏殿近くに陣を構えたために起き、どちらか片方だけの責任とも言えません。

いずれか一方に罪を負わせるのは難しいでしょう。

こうして三好三人衆と対立したまま久秀が待ち望んでいたのが織田信長と足利義昭の上洛でした。

永禄十一年(1568年)9月、ついに織田軍は京都へ向けて進軍を始め、同月中に京都へ入ると、その後は瞬く間に畿内一帯も制圧。

詳細は「信長の上洛戦」に譲りますが、織田軍が三好勢を一蹴すると、永禄十一年(1568年)10月、足利義昭が15代将軍に補任され、信長と義昭による政権が樹立されました。

そこでドラマの冒頭、織田信長と松永久秀の対面となるわけです。

 

将軍殺しの真犯人は?

松永久秀は「九十九髪茄子」と同時に娘も人質として差し出します。

一方、織田信長は久秀に大和一国の支配権を与え、久秀は新政権にも名を連ねました。

ドラマの中では「将軍殺しの久秀を用いるなど認められない!」と足利義昭の側近らに嫌われていましたが、ここでの「将軍殺し」という見方は正しいのかどうか。

というのも史実の久秀は永禄の変に参加していません。

実行犯は三好義継と松永久通(久秀の嫡男)です。

そもそもこの争乱は「御所巻(ごしょまき)だったのでは?」という指摘があります。

御所巻とは、将軍の御所を取り囲んで要求を押し通すことであり、このときは三好義継と松永久通の軍勢1万が義輝を囲みました。

松永久秀の肖像画(高槻市立しろあと歴史館蔵)

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikimedia commons

ただし、義継と久通の要求が足利義輝の側近の排除、つまり権力剥奪という高圧的なものであり、また、最初から義輝を殺害して三好義継が将軍の地位を狙っていたのでは?という指摘もあります。

足利義輝としても簡単に譲れるわけなく、ゆえに殺害事件にまで発展してしまったのでしょう。

いずれにせよ久秀によるものではなく、松永家の家督も永禄六年(1563年)暮れに久通へ譲られていたと目されます。

それでもドラマで久秀が「将軍殺し」と罵られたのは、こうした背景を説明するのが大変ですし、三好義継も松永久通も、久秀一派として括られたからかもしれません。

 

最大の貿易自治都市「堺」

晴れて15代将軍となった足利義昭。

史実の織田信長は、その義昭から「副将軍」あるいは「管領」の補任を打診され、それを断る一方、堺の直轄化を認められました。

いったい堺とはどんな都市だったのか?

というと、当時最大の貿易港であり、もともとは日明貿易から巨利を得て、発展してきました。

戦国時代には、会合衆(えごうしゅう・かいごうしゅう)と呼ばれる有力商人により運営され、町の周囲は堀で囲まれ、浪人などを雇って防御に努めていることはドラマでも描かれていましたね。

いわば自治都市ですから、これを直轄化しようとなれば当然衝突します。

上洛後の信長は、制圧した各地域に矢銭(やせん・軍資金用の臨時税)を課していますが、他が数千貫単位であるのに対し、堺には2万貫という巨額の負担を告げます。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

当時の堺は東アジアだけでなく東南アジア(ひいては世界単位)での貿易を展開。

例えばドラマでも鉄砲の販売が主に注目されていますが、同時に日本では産出できない火薬なども取り扱っていて、莫大な収益をあげていました。

 


今井宗久による手打ち

武器はある。

浪人たちによる自衛部隊も整っている。

さらには三好三人衆との繋がりもある。

当時の会合衆は津田宗及が最有力者であり、反信長の姿勢だったため、堺は信長と敵対する道を選びました。

しかしその一方で、早い段階から親信長派だったのが今井宗久です。

今井宗久の肖像画

今井宗久/wikimedia commons

ドラマでは、三好三人衆らに鉄砲を渡して、その後の「本圀寺の変」へと進んでいきますが、それは一旦置いといて史実に目を向けますと、堺はその後、信長に降伏します。

当初は浪人を集めて徹底抗戦の様子を見せるも、織田軍の軍勢を前にして慌てふためき、今井宗久らの主導により手打ちとなったのです。

結果、今井宗久は信長から信頼され、領地を貰えるだけでなく堺の代官にも任ぜられています。

今後、しっかり税金を持ってこいよ、というわけであり、宗久は事実上の堺の支配者となったのです。

ちなみに宗久は、信長に名物「松嶋の壺」「紹鴎茄子」を献上しています。

「紹鴎茄子」については相続に絡んで所有権を争っていたのですが、信長に献上することでちゃっかりその地位を認められるなど、商人としてのしたたかさを持っていました。

 

本圀寺の変

今回、豊臣秀長の見せ場となったのが「本圀寺の変」でした。

いったん史実の流れを踏まえておきますと……上洛を果たした足利義昭が仮住まいとしていた本圀寺(ほんこくじ・京都市山科区)。

そこへ三好三人衆と斎藤龍興らが襲いかかったのです。

斎藤龍興浮世絵

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikimedia commons

信長の上洛により四国へ追いやられていた三好三人衆らは摂津から上陸しており、浪人らを雇って、本圀寺へ向かったとされます。

そして永禄十二年(1569年)1月5日に取り囲み、襲撃を開始しました。

義昭を守る側としては、明智光秀や三淵藤英(みつぶちふじひで)の名があり、豊臣秀長は記されていません。

ドラマの創作ですね。

秀長は僧侶の姿に扮して「火をかければ三好家が呪われる」と脅していましたが、ここは100%創作というわけでもなく、実際に本圀寺の僧侶が三好三人衆を相手に講和交渉をしたと伝わります。

守備側にとってはこの交渉が重要な時間稼ぎになりました。

その間に三好義継・細川藤孝・池田勝正らの軍勢が接近しており、さらには信長軍上洛の噂も流れて攻撃の手が緩み、結局、斎藤龍興も三好三人衆も撤退することとなったのです。

ドラマのように豊臣秀吉が堺での浪人たちを雇い入れて救助に来たという記録はありません。

史実の三好三人衆らの行動をトレースしていたような印象ですね。

松永久秀の接近や、堺との交渉、三好三人衆らによる本圀寺の変――これらの事象は、実は一つの流れで繋がっている。

そんな史実の中に豊臣秀吉や豊臣秀長らを絡ませて描かれた大河ドラマ『豊臣兄弟』の第11回放送。

なかなか巧みな展開だったように感じます。

「豊臣秀長の僧侶姿は無理があるだろ」とか「なぜ斎藤龍興が秀長に気付かないんだ?」というツッコミもその通りかとは思います。

創作を交えつつも、史実の流れを巧みに再構成した回だったと言えそうですね。

なお、今後の注目となる浅井家の離反については「信長が浅井長政に裏切られた理由」をご覧ください。

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考文献

天野忠幸『戦国武将列伝8 畿内編【下】』(2023年2月 戎光祥出版)
谷口克広『信長の政略』(2013年6月 学研プラス)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)

【TOP画像】松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikimedia commons

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川和二十六

歴史学科を卒業。大河ドラマ『豊臣兄弟』レビューおよび歴史エンタメ記事を担当。歴史記事以外でも様々な分野のライティングや編集業務もこなしている。 ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001138406

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