織田信長の肖像画

織田家

なぜ信長の一族には「津田姓」の武将が多いのか?織田信澄も元々は津田信澄

大河ドラマ『豊臣兄弟』で一気に注目を集めている織田信澄(おだのぶずみ)。

信長に誅殺された織田信勝の子で、信長にとっては甥にあたる武将ですが、この信澄、実は「津田信澄」という名でも知られます。

歴史ファンには、むしろ津田信澄のほうが馴染み深いかもしれません。

なぜ織田一族なのに「津田」を名乗るのか?

というと、現代ではあまり注目されないだけで、信長の時代には、兄弟や甥など分家にあたる一族が津田を名乗り、その好例といえるのがまさに信澄でした。

織田信澄イメージイラスト

本記事では、織田一族における「津田姓」の由来などを振り返ってみましょう。

 


分家・庶流が名乗った津田

まず織田一族で津田姓を名乗る人物がどれだけいるか?

例えば、以下のような人々です。

◆津田信広

→信長の異母兄です。今川軍との合戦で捕らえられ、松平竹千代との人質交換で知られます。

◆津田秀成

→信秀の九男または十男とされる人物で、信長の弟にあたります。天正二年(1574年)の伊勢長島攻めで討死しました。

◆津田長利

→信長の末弟。本能寺の変で、織田信忠と共に二条御所で討死しました。

◆津田信張

→小田井織田家の一族で、信長の従兄弟にあたる人物です。紀伊方面の軍政にも関わりました。

◆津田源三郎信房

→信長の子です。系図類には「津田源三郎」として記されます。

こうして並べてみると、津田姓は決して信澄だけの特殊例ではないんですね。

信長の異母兄、弟、従兄弟、さらには子にも、津田の名乗りが見えます。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

では、いったい津田にはどんな由来があって、そう呼ばれるようになったのか?

 


なぜ「津田」なのか?

結論から申しますと、織田も津田も、織田氏の由緒伝承では“地域名”と結びつけて説明されます。

まず織田の由来とされるのは越前国織田荘――現在の福井県丹生郡越前町織田の周辺で、劔神社の所在地としても知られる地域です。

織田氏は、この地と関わる中で「織田」を称するようになったと考えられています。

一方の「津田」についても、織田氏の系図伝承に登場します。

それによると、織田氏の始祖とされる平資盛の遺児・親真(ちかざね)が、近江国津田郷に逃れたとされます。

つまり、系図上では、最初に近江の津田郷との縁が語られ、後に越前の織田荘と結びつくという流れになっているのですね。

名字が、ある地域(荘園)に由来するのは非常によくあること。

例えば甲斐源氏「武田氏」の「武田」も、そもそもは源義清が常陸国「武田郷」に土着したことがキッカケでした。

源義清の父である源義光像(摂津国寿命寺蔵)/wikipediaより引用

もちろん、親真が実際に近江国津田郷へ逃れたかどうかは、史実としてそのまま断定できません。

大事なのは、織田家の由緒を語る系図の中で、「織田」と「津田」が最初から結びつけられていた点です。

ゆえに信長の周囲に津田姓の人物が複数いても、「無関係な津田家が混ざっている」という話ではなく、織田一族の名乗りとして津田が使われていた、と理解するとわかりやすいでしょう。

そこで改めて気になるのが織田信澄です。

なぜ、戦国ファンには、津田信澄として知られているのか。

いったい信澄は、織田と津田のどちらを実際に名乗っていたのか。

 

信澄自身も「津田七兵衛」だった

『信長公記』の信澄は、当初は「津田七兵衛」として登場します。

『寛政重修諸家譜』などによれば、永禄七年(1564年)に元服し、当初は津田姓を名乗ったとされます。

ところが『信長公記』では、天正七年(1579年)ごろから「織田七兵衛」と記されるようになります。

研究者の菊地浩之氏は『織田家臣団の系図』の中で、信澄が大溝城主となった天正六年(1578年)ごろを境に織田姓を許されたのではないか、と推察しています。

そのころ信澄は、近江高島郡の大溝城を任され、織田一門の有力者として地位を高めた頃。

分家・庶流の名乗りとして使われた津田から、本流に近い織田の名乗りへ移ったのでしょう。

「津田七兵衛」から「織田七兵衛」へ。

正式に織田姓を許されたと明記する史料はありません。

ただし『信長公記』の著者・太田牛一は織田家中の動向に近い人物であり、その表記変化には一定の意味を見てよいでしょう。

当時の近江は、琵琶湖の南に明智光秀の坂本城、北に羽柴秀吉の長浜城があり、大溝城は湖西エリアを固める重要ポジション。

信長から相応の信頼を得ていなければ任されない場所です。

 


まとめ

次男の織田信雄が北畠信雄となり、三男の織田信孝が神戸信孝になるなど。

織田信長は自身の息子を養子入りさせ、他家を事実上乗っ取る政略を実行しています。

ゆえに織田とは異なる姓を見ると、一瞬、その一つと思ってしまうかもしれません。

織田信雄(右)と織田信孝/wikipediaより引用

しかし津田姓は、織田氏と無関係ではありません。

由緒伝承の中で織田と結びつけられ、信長の周辺では

・本流に近い立場=織田

・分家・庶流=津田

という使い分けがあったようです。

ただし、厳密な法令や制度ではありません。信長の兄弟でも織田姓と津田姓が混在し、信澄のように途中から織田姓で記される人物もいます。

その人物の血筋・役割・重要度に応じて、名乗りが変わることもあったと見るのが自然でしょう。

例えばこれが秀吉となると、身近で重要な武将たちに次から次へと「羽柴姓」を与え、政権内は「羽柴だらけ」という状況に陥ります。

「羽柴姓」についてはあらためて記事を公開いたしますので、そのときは信長と比較してお楽しみください。

今回は、織田信澄の記事をご覧いただければ幸いです。

織田信澄のイメージイラスト
なぜ織田信澄は本能寺の変後に殺されたのか?光秀の婿となった信長甥の運命

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◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

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参考文献

【TOP画像】織田信長/wikimedia commons

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五十嵐利休

武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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