大河ドラマ『豊臣兄弟』で衝撃的な追放劇が描かれました。
相撲に負けた佐久間信盛が織田家を追い出されたのです。
むろん、相撲は建前であり、実際は、本願寺に通じて織田家を裏切ろうとしていたという“疑惑”が取り沙汰されていましたが、果たして史実ではどうだったのか?
実は佐久間信盛は、追放前に「十九ヶ条の折檻状」という文書が信長から出されています。

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikimedia commons
非常に刺激的な内容として、戦国ファンにはお馴染みの文書ですが、そこには一体何が記されていたのか?振り返ってみましょう。
とにかく辛辣な「十九ヶ条の折檻状」
まずは簡単に状況だけ説明させていただきます。
「十九ヶ条の折檻状」は天正八年(1580年)、織田信長によって直筆で書かれたものです。

織田信長/wikimedia commons
中身は、佐久間信盛と佐久間信栄の親子を徹底的にこき下ろしたもの。
残念ながら大河ドラマ『豊臣兄弟』では一行も触れられなかっただけに、その内容を現代口調で端的に記しましたので、以下をご覧ください。
佐久間よ、本願寺相手に何してた?
佐久間よ、おまえ、大坂の天王寺で本願寺と対峙しながら、5年間ほとんど大したことをやってなかったな。
敵が僧侶だから黙ってても降参すると思ってたんだろ?
明智光秀は丹波、羽柴秀吉は数カ国で功績があり、池田恒興も収入少ないのに頑張っていた。
柴田勝家も北陸で一国を平定したしな。
武力で本願寺を攻め落とすのが難しかったら、なんで儂(信長)に一言の相談もねぇんだよ?
保田安政(やすだやすまさ)に報告させて、自分はそれに乗っかるだけで、結局、何もしてねー!
織田軍の中でも、佐久間軍は特別扱いしてやってたのにな。
三河や尾張、近江、大和、河内、和泉といった、大勢の勇敢な将兵たちをつけてやったじゃないか。
水野信元の旧領も与えたのに、その家臣も雇い入れず、金銀でもたんまり溜め込んでたんか?あぁ?
山崎でも同じことしてたな。
それで馴染みの家臣ばかり厚遇しやがって。
そうそう、天正元年(1573年)8月のことを思い出したわ。
あんとき朝倉義景が逃げ出すのをおまえらが見逃して、儂が注意したとき、おまえだけ「私たちほど、よく働く家臣はいませんよ」とか大口叩いてたな!

朝倉義景/wikimedia commons
※朝倉義景の一件、詳細は以下の記事へ
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信長激怒! 佐久間が発した余計な一言とは?|信長公記第97話
続きを見る
三方ヶ原で平手を見捨てたよな?
息子の佐久間信栄も、あまりに書くことが多くて、正直、書ききれーん。
だからザッと記しておくね。
信栄は欲深くて、気難しくて、家臣も雇わず、だらしがない。要は、親子揃って武士の心構えが足りてないのよ!
働かせるのは与力ばかりで、しかも自分の領地ばかりをどんどん増やしやがって。
そのくせ人格者みたいな顔してスン!と居座ってるから、みんなから嫌われてんだよ。おまえのこと、誰が好きなん?
現に、この30年、目立った手柄を挙げてないよな。
信玄との激戦となった三方ヶ原の戦いもそうだよ。

絵・富永商太
別に、戦(いくさ)だから勝ったり負けたりするもので、負けたこと自体は問題じゃない。
けどさ、佐久間軍、誰一人として死んでないよね。
ナニソレ? そりゃおかしいでしょ?
平手汎秀(ひろひで)だけ討死したのは、おまえが見捨てたからじゃねーの?
こうなったら、おまえにもやってもらうわ。
どこかの敵を制圧して、その後、それを手土産に織田家へ復帰してくれ。
それか、頭を剃って、高野山にでも行けばいいんじゃない? 月日が経てば、許されるかもよ~。
使用人からも見捨てられた哀れな最期
かなりざっくりと現代口調にしましたので、気分を害された方は申し訳ありません。
この文書を届けられた佐久間信盛は、大慌てで高野山へ退去します。
しかし、織田信長の怒りはそれでも収まらなかったのか、信盛はさらに退去命令が出され、結局、熊野の奥地へ逃亡すると、使用人からも見捨てられ哀れな最期を辿ったとされます。
『信長公記』によると、その後、林秀貞、安藤守就・安藤定治父子、さらには丹羽氏勝が追放されたことも記述。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれ、彼らの去就についてはまた別記事にて掲載したいと思います。
なお、ドラマでの注目度が高かった安藤定治については、以下に詳細記事がございます。
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安藤定治は本当に武田家へ内通したのか?父・安藤守就の織田家追放の謎
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参考文献


