天正十年(1582年)6月2日に起きた本能寺の変。
明智家中からは、少なくとも大きく目立つ離反者は確認されていません。
それに比べて、どうにもムズムズしてしまうのが、事件直後にサクッと光秀から距離を取り、離れていった盟友の武将たちです。
細川藤孝・細川忠興
筒井順慶
高山右近
中川清秀
果たして光秀に味方をしなかった彼らの判断は正しかったのか。
彼ら自身は、どんな運命をたどったのか。

明智光秀/wikimedia commons
光秀に味方をしなかった者たちの、気になる“その後”を見てみましょう。
光秀は誰に味方を求めたのか
そもそも光秀は、誰に助力を要請したのか?
①細川藤孝・忠興(丹後)……明智家の与力大名で光秀の娘(細川ガラシャ)が細川忠興の妻となっていた
②筒井順慶(大和)……同じく明智家の与力大名で、光秀と共に大和支配を進めていた
③高山右近(摂津高槻)・中川清秀(摂津茨木)・池田恒興(摂津)……秀吉の進路上にいた摂津衆
④土橋重治ら紀州の雑賀衆……光秀が味方になることを求めた書状(6月12日付)が残っている
⑤足利義昭……上記の書状に足利義昭の関与をうかがわせる「上意」の語も見える
細川と筒井は、織田政権の家臣でありながら、軍団編成上は光秀の指揮下に置かれていた大名です。
ゆえに、絶対に味方にしたい勢力でしたが、見事なまでに離脱されました。
それでも光秀に味方をする者がゼロだったわけではありません。

京極高次/wikipediaより引用
いくつかの勢力は明智軍に参じています(詳細は以下の記事へ)。
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光秀に味方した武将は全員滅亡?京極高次・武田元明・明智の血の意外な結末
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しかし、もう一つの誤算とも言える不幸もありました。
娘婿の織田信澄です。
光秀の娘婿である信澄は摂津(大坂)にいたのですが、事件3日後の6月5日、織田信孝と丹羽長秀に討たれてしまいます。
叛逆者の縁者だというだけで、弁明の時間すら与えられず、あっという間の出来事。
まぁ、当時の状況からして仕方ないかもしれません。
もしも信澄が明智軍に味方なんてことになったら、織田信孝と丹羽長秀は背後を取られるリスクがある。
まず排除しておくべきだ、という判断になったのでしょう。
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なぜ織田信澄は本能寺の変後に殺されたのか?光秀の婿となった信長甥の運命
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こうして光秀の外交は手詰まりになり、その後の「山崎の戦い」で惨敗。
ということで
「光秀に味方しなかった武将たちがその後どうなったか?」
という現実を見て参りましょう。
光秀とは昵懇の間柄だった細川父子
細川藤孝は天文三年(1534年)の生まれ。
三淵晴員の子で細川家の養子に入り、足利義輝・足利義昭に仕えた幕臣です。
義昭と信長が決裂すると信長を選び、天正八年(1580年)には丹後一国を与えられて宮津城に入りました。
息子の忠興は永禄六年(1563年)生まれで、天正六年(1578年)に光秀の娘・玉を妻に迎えています。

細川藤孝/wikimedia commons
以上のように細川家は、明智光秀とは単なる同僚ではありません。
義昭を信長に引き合わせた頃からの盟友であり、しかも親戚。
誰よりも味方になってくれそうな相手でした。
ところが藤孝は、本能寺の変の一報を受け取ると、髻(もとどり)を切って剃髪し、幽斎玄旨と号すると、忠興も続きます。
信長への喪に服す、という意思表示ですね。
そして光秀の娘である玉(細川ガラシャ)は、丹後の山奥・味土野に幽閉して、光秀への返事としては、これ以上ないほど明確な態度を示すのです。
もしも光秀がそのまま天下を取っていたら、細川父子は無事には済まなかったでしょう。

細川忠興/wikimedia commons
しかし、実際に慌てたのは光秀でした。
細川家に味方をして欲しくてたまらない――そんな覚書が以下の通りに伝わっているのです。
・お二人が髪を切られたのは腹立たしくもあったが、もっともなことと思い直した
・忠興には摂津を、藤孝には但馬か若狭を進呈したい
・五十日、百日のうちに近国を固め、その後は十五郎(光秀の子)と与一郎(忠興)に引き渡して隠居する
出典:光秀覚書(『綿考輯録』所収の写し)
国を差し出し、自分は引退するとまで宣言して、ほとんど懇願ですよね。
ただ、理屈としては少しおかしい。
細川父子にとって丹後は「信長からもらった国」であり、光秀の与力ではあっても配下ではなく、丹後入国を境に細川家は織田政権の一大名として自立しつつある状況でした。
光秀の口利きで得た領地ではないのだから、義理を返す筋合いもないのです。
何より、今後の見通しが重要です。
中国地方の羽柴秀吉、北陸方面の柴田勝家、そして関東エリアには滝川一益、摂津にも丹羽長秀など。
まだ何ひとつも欠けていない織田軍団すべてを相手に、光秀がすべて勝ち切れるとは思えなかったのでしょう。

上段(柴田勝家・豊臣秀吉)と下段(滝川一益・丹羽長秀)/wikimedia commons
実際この判断が、超長寿のチート細川家を生み出します。
細川父子は程なくして秀吉に仕えるも、慶長五年(1600年)の関ヶ原では東軍につき、幽斎が丹後田辺城に籠城、西軍の大軍を釘付けにしました。
藤孝は「古今伝授」を継ぐ唯一の人物だったことから、後陽成天皇の勅命で開城という前代未聞の幕引きに持ち込んだのです。
軍事力だけでなく、政治力に加えて、朝廷を動かす外交力まで有している。
敵に回してこれほど厄介な相手もいないでしょう。
細川家はその後、豊前小倉に39万9000石を拝領し、さらに寛永九年(1632年)には細川忠利が肥後熊本54万石へと移りました。
そしてそのまま幕末まで続くだけでなく、平成には細川護熙という総理大臣まで輩出するのですから、これ以上望めないほどの展開でしょう。
ガラシャひとりが、慶長五年(1600年)の大坂玉造で落命。
光秀の娘であることの代償は、彼女だけが払ったようにも見えてきます。
筒井順慶は洞ヶ峠で日和見したのか
筒井順慶は天文十八年(1549年)生まれ。
興福寺の衆徒であり、寺の武力を出自とする大和の国衆です。

筒井順慶/wikimedia commons
松永久秀と長く争いながら信長に従い、天正四年(1576年)に大和一国を任されると、天正八年(1580年)には郡山城を本拠とします。
その間、光秀の与力として、伊賀攻めなどにも従軍しました。
そんな筒井順慶といえば、こんな慣用句がよく知られます。
「洞ヶ峠を決め込む」
有利なほうにつこうと日和見する
信長を討った光秀は果たしてそのまま天下を取れるのか?
行く先を案じる筒井順慶が、明智軍への味方を渋り、様子見をする姿が「有利なほうにつこうとする」という意味の慣用句になったものですね。
しかし、この場面、実際に洞ヶ峠(京都府八幡市)に陣を敷いたのは、順慶ではなく光秀でした。
『多聞院日記』によれば、光秀は6月10日に洞ヶ峠まで出て、大和からの筒井軍を待ちましたが、当の順慶は郡山城にいて堀を掘り、兵糧を運び込んで籠城の支度をしています。
峠に出向いた事実はない。
要は「順慶=日和見」という図式自体が、江戸時代の軍記物なんですね。
とはいえ、順慶が迷わなかったわけでもなくて、変の直後には光秀に応じるかのような動きも見せ、それが数日のうちに反転して、6月11日には秀吉方への帰属を固めています。
恩義でいえば光秀ですが、大和一国を安堵したのは信長であり、その信長を殺した男に付いたのでは、寺社勢力を抱えた大和がまとまらないと考えたのでしょう。
光秀は、来ない味方を峠で待ち続け、そのまま山崎へ向かうことになります。

「山崎合戦之地」の石碑(天王山/京都府乙訓郡大山崎町)
生き延びた筒井家はどうなったか?
順慶は秀吉に大和を安堵されますが、天正十二年(1584年)8月11日に、36歳の若さで死去。
跡を継いだ養子の筒井定次は、翌天正十三年(1585年)に伊賀上野20万石へ移されると、慶長十三年(1608年)には、家臣の訴えなどをきっかけに改易となってしまいます。
しかも慶長二十年(1615年)大坂の陣に際しては、豊臣方への内通を疑われ、自害を命じられました。
大名としての筒井家は、ここで終わり。
日和見主義のマイナスイメージは今なお続いているようにも思えます。
高山右近・中川清秀はなぜ秀吉についたのか
摂津の二人は、細川家や筒井家とは立場が違います。
高山右近は天文二十一年(1552年)頃の生まれで、父・友照の代からキリシタン(洗礼名はジュスト)。
中川清秀は天文十一年(1542年)生まれで、荒木村重の一族です。
二人はともに村重の与力として摂津にいましたが、天正六年(1578年)に村重が信長へ叛くと、それぞれ信長方に転じたという経緯があり、もともと光秀の与力などではありません。
たまたま摂津という京都に近い土地にいたからで、本能寺の変以前から、中国方面の秀吉とは隣り合って動いてきました。
光秀に付く理由など全くない――そんな状況で事件は起き、秀吉から中川清秀宛にはこんな書状が送られていました。
上様(信長)も殿様(信忠)も、何のお怪我もなく切り抜けられ、膳所が崎へ退かれた
出典:秀吉書状(中川清秀宛)
真っ赤なウソです。
しかしこの一枚があれば、清秀は「信長が生きているなら光秀に付く目はない」と判断できる。
情報の遮断された畿内で、最初に届いた紙が秀吉の勝利に貢献したんですね。

高山右近/wikipediaより引用
羽柴軍と摂津衆は6月11日に尼崎で合流。
しかも秀吉は信長の三男・織田信孝を担いでおり、弔い合戦という名分まで揃っていいました。
それから2日後、6月13日「山崎の戦い」では、高山右近が先鋒に立ち、中川清秀もその隣で明智軍と戦っています。
光秀に味方しなかったどころか、最前線に立って明智軍と戦っていたわけですね。
では、その後は?
中川清秀は天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、大岩山の砦を佐久間盛政に急襲され、討死してしまいます。
42歳の生涯でした。

中川清秀/wikipediaより引用
子の中川秀政も文禄二年(1593年)、朝鮮で鷹狩りの最中に討たれたと伝わりますが、それでも御家は残りました。
中川秀成が豊後岡(竹田)7万石を与えられ、関ヶ原では東軍につき、岡藩中川家は、当主が二代続けて非業の死を遂げながら、幕末まで存続するのです。
一方、高山右近は、まったく異なる道を歩んでいます。
天正十三年(1585年)に明石6万石を与えられたまでは順調でしたが、天正十五年(1587年)に秀吉がバテレン追放令を出すと、右近は領地と信仰を天秤にかけ、信仰を取ったのです。
そして大名の身分をあっさり捨て、前田利家のもとへ。
以後は加賀の客将です。
慶長十九年(1614年)、徳川幕府の禁教令によって国外へと追放されるとマニラに渡り、翌慶長二十年(1615年)2月、63歳で亡くなりました。
それから約400年の時が流れ、2017年、右近はカトリック教会によって福者に列せられています。
領地も家名も失った男は全く別の形で名を残すのでした。
まとめ
光秀に味方をしなかった四家はどうなったか?
その行方をまとめましょう。
細川家……細川藤孝(幽斎)の智略で生き残って肥後54万石となり、現代まで続く
筒井家……順慶は36歳で病没、定次の代に改易・自害。大名としては断絶してしまう
中川家……清秀が賤ヶ岳で戦死して子の秀政も文禄の役で横死するが、御家は豊後岡藩として続く
高山右近……信仰を選んで大名をやめると、国外へ追放されるが、400年後に福者として列せられる
光秀に味方しなかった――その姿勢では同じなのに、結末はここまで違う。
彼らの判断を分けたものは案外単純で「誰から領地をもらったか」という一点ではないでしょうか。
細川も筒井も、光秀の与力でありながら、領地の出どころは信長であり、摂津の二人にいたっては光秀と指揮系統すら繋がっていません。
光秀が「同僚」と思っていた相手は、実のところ誰ひとり彼の部下ではなかったわけですね。
最後まで従ったのは、明智家中の者だけ。
人望の問題ではなく、命令の届く範囲が本人の想定よりずっと狭かったのでしょう。
なお、その後の清須会議で誰が一番得したか?という疑問は以下の記事にございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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清須会議で一番得したのは誰だ!織田家主要人物7名の政治力ランキング
続きを見る
【参考文献】
- 柴裕之『図説 明智光秀』(2018年12月 戎光祥出版)
- 金松誠『筒井順慶 シリーズ・実像に迫る019』(2019年10月 戎光祥出版)
- 桑田忠親『細川幽斎』(1996年09月 講談社)
- 『信長公記』『多聞院日記』『綿考輯録』
【TOP画像】上段(高山右近・筒井順慶)下段(細川藤孝・明智光秀)/wikimedia commons



