天正十年(1582年)6月27日に開かれた清須会議では、誰がどの所領を得て、実際にどれだけの利を得たのか?
下世話な話ではありますが、その時点で誰がいちばん得したのか、気になりません?
会議の関係者は、以下の通り。
羽柴秀吉
柴田勝家
丹羽長秀
池田恒興
織田信雄
織田信孝
天下統一を進める織田家の首脳陣ですから、そりゃもう綺麗事ばかりの話し合いで済むはずありません。
例えば明智光秀の所領は誰のものとなったのか?
死んだ信長の茶器は?
表向きは「三法師様を中心に織田家を盛り上げていこう!」というスローガンを掲げていても、結局、腹の中は『ワシに所領をよこさんかい』という思いで一杯だったでしょう。
なぜなら、それが戦国時代だから。
ということで本記事では、清須会議で誰がいちばん得したのか? 七名の織田家重臣を対象に「儲かりまっかランキング」を作ってみました。
さっそく7位から見て参りましょう!
※点数は100点満点で、史料に基づく数値ではなく、所領と政治的立場から独断で判定しています(よろしければ皆さんの点数付けもSNSにご投稿お願いします)
第7位 織田信孝(35点)
「山崎の戦い」では名目上の総大将を務めた信長三男の織田信孝(のぶたか)。

織田信孝/wikipediaより引用
光秀を討ったのは俺だ!
という自負もあったようで、会議では美濃を得て岐阜城を居城としました。
しかも、安土城が再建されるまでのあいだ、幼い三法師を岐阜城で預かる権利も手にしています。
悪くない条件に見えますよね。
しかし、これが地雷でした。
信孝は三法師を岐阜城に抱え込み、自らが後継者として振る舞おうとしたため、秀吉に「取り決め違反だ」として攻める口実を与えてしまったのです。
天正十年(1582年)12月、秀吉は信長次男の織田信雄と手を組み、岐阜城を包囲して三法師を奪還。
そして天正十一年(1583年)に「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を滅ぼすと、信雄が岐阜城を攻めて信孝を降伏させ、尾張内海の大御堂寺で自刃させました。
会議からわずか1年のことです。
天下の座を3歳の甥に奪われ、所領でも秀吉に水をあけられ、最後は兄に殺されてしまう――やはり最も損をしたのはこの方でしょう。
なお、信孝の所領については、和田裕弘氏は美濃と南近江、平山優氏は美濃とするなど、研究者により見解が分かれています。
第6位 織田信雄(40点)
伊勢北畠家の養子へ出されていた、信長の次男です。

織田信雄/wikipediaより引用
清須会議で織田姓に戻して尾張を相続したため、従来の南伊勢・伊賀と合わせてなかなかの所領となりました。
尾張は織田家のホームグラウンドであり、7月には清須城へ本拠を移転。
領地だけ見れば、決して悪くありません。
問題は、肝心のポジションです。
三法師の名代、つまり当主代理の座を弟の信孝と争ったために話はまとまらず、政治の実権は宿老たちの合議に握られたままでした。
さらに信雄はこの後、秀吉に担がれる形で「賤ヶ岳の戦い」後に信孝を討ち、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と組んで秀吉と敵対、最後は単独講和で秀吉に屈服させられています。
要は、秀吉の外交政治力に振り回され続けたんですね。
なお、名代の扱いについても研究者で見解が割れています。
和田裕弘氏は「信雄と信孝が争ったため両人ともに除外され、名代は置かれなかった」とし、平山優氏は「名代(陣代)に叔父信雄・信孝の両名を据えた」としています。
第5位 柴田勝家(50点)
織田家の筆頭家老だった柴田勝家。
清須会議で得たものは、決して少なくありません。

柴田勝家/wikipediaより引用
以前からの越前八郡に加え、秀吉の旧領だった近江長浜領を獲得しており、異例の処置とも言えそうです。
なぜなら勝家は「山崎の戦い」に参陣していません。
光秀討伐に何も貢献していない重臣の中で加増を得たのは勝家だけであり、しかも信長の妹・お市の方との再婚まで決まります。
織田一門としての格を手に入れたわけです。
なのになぜ50点なのか?
というと政治力では秀吉に完敗していたから。
秀吉は、清須会議が始まる前に丹羽長秀と池田恒興を取り込み、勝家が推す三男の織田信孝は名代となれず、会議の場で孤立しました。
そして筆頭家老の地位から徐々に引きずり下ろされるようにして、半年後には秀吉と全面戦争へ。
天正十一年(1583年)4月「賤ヶ岳の戦い」で敗れ、北ノ庄城で自刃へ追い込まれてしまいます。お市も共に命を落としました。
領地と織田家嫡流の妻を得ながら、清須会議からわずか10ヶ月で落命してしまう。
なんとも切ない最期を迎えてしまいました。
第4位 丹羽長秀(70点)
「米五郎左」と呼ばれ、堅実な武将として知られる丹羽長秀。
清須会議でも堅実に立ち回り、従来の若狭国に加えて近江の高島郡と志賀郡を得ました。
水運利権も大きな琵琶湖西岸の要衝ですね。

丹羽長秀/wikimedia commons
派手さはありません。
しかし、この方の巧さは別のところにあると申しましょうか。
長秀は「山崎の戦い」でも秀吉と行動を共にしており、勝家よりも親近感を抱いていたようで。
会議でも秀吉派に回り、早い段階から“勝ち馬”を見極めていたように思えてなりません。
結果、家老としての地位も所領も安泰であり、三法師を支える体制の一翼を担いました。
ローリスク・ハイリターンというやつですね。
第3位 池田恒興(75点)
信長の乳兄弟です。
母が信長の乳母だったという縁から織田家で重用されてはいましたが、本来なら宿老に名を連ねる格ではありません。
ところが会議では四人目として席に着き、摂津の大坂周辺を獲得しました。

池田恒興/wikipediaより引用
血縁と、立ち回りの妙ですかね。
長秀と同じく恒興も早くから秀吉側に立ち、発言権を確保して肥沃な要衝を手に入れています。
最初から、秀吉が味方にするため会議へ呼び込んだのでは?という指摘もあるほどです。
しかし、この幸運は長続きしません。
天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、恒興は嫡男の元助や森長可らと共に討死してしまいました。
なお、池田恒興の所領については「摂津国の大坂周辺」とするものと、「河内十七箇所(茨田郡=寝屋川市・門真市など)と大坂城」とするものがあります。
第2位 堀秀政(80点)
第2位にランクインしたのは四宿老ではなく堀秀政です。
「名人久太郎」と呼ばれる信長お気に入りの側近将であり、その後の豊臣政権でも重用される武将です。

織田信長の側近・堀秀政を描いた落合芳幾の浮世絵/wikimedia commons
会議に出席した重臣は4人でしたが、当時の人が「天下を山分けした」と見た織田家の武将は5人であり、その5人目が堀秀政だったんですね。
秀政が得たのは、近江・織田直轄領の管理権と、幼い三法師の傅役、つまりお守り役でした。
非常に絶妙なポジションと言えるでしょう。
宿老同士が主導権を争う横で、中立のまま新体制の中心に入り込み、新当主が手の内にある。
隠れた大勝利者、と呼んでいいのではないでしょうか。
なお、秀政が管理することになった織田直轄領の規模は、柴裕之氏が「近江坂田郡のうち2万5000石」、和田裕弘氏が「近江のうちで20万石」など、研究者の見解によって大きな開きがあります。
第1位 羽柴秀吉(100点)
1位はやはり羽柴秀吉で動かしがたいものでした。
京を握った者が天下を握る――秀吉が獲得したのは、山城、河内の東部、そして丹波と、従来の播磨と合わせて天下の中心とその周辺丸ごとを押さえているのです。

『絵本太閤記』に描かれた豊臣秀吉と三法師/wikipediaより引用
名代争いを起こしていた織田信雄と織田信孝ではなく、宿老たちによる合議制へと持ち込んだ時点でガッツポーズだったかもしれません。
当時の『多聞院日記』にはこう記されているほどです。
【意訳】だいたい秀吉の思いどおり
【原文】大旨ハシハカママノ様也
秀吉が得た丹波国については、興味深い話があります。
『多聞院日記』7月7日条には、秀吉の新たな所領として「丹波一円」と記したうえで、こう説明されているのです。
【意訳】これは筑前=秀吉の弟、小七郎へ
【原文】これはちくせんか弟の小七郎へ
秀吉の弟小七郎、すなわち小一郎であり豊臣秀長のことですね。

豊臣秀長/wikimedia commons
和田裕弘氏は、この記述から秀長が丹波一国を得たと見ており、但馬と合わせれば信長旧臣のなかで秀吉・勝家に次ぐ大身となりました。
兄が満点を取った裏で、弟も相当な所領を手にしていたのです。
ただし、丹波について秀長の支配はあくまで名目的なもので実質は秀吉であり、秀長には福知山周辺が与えられたとか、秀吉の養子・秀勝が得たとする指摘もあります。
なお、冒頭で触れた“信長の茶器”については秀吉のものとなりました。
天下人の証として茶の湯政治に使われたのです。
信長の威光も加味された名物は、大名たちに披露したり、時には分け与えたりして豊臣政権の運営に利用されたのですね。
ただし、信長が愛する名物38種類が本能寺に持ち込まれていたため、その多くが信長と共に焼失したとされます。
※『山上宗二記』は「38種すべてが運命をともにした」と伝えています
総評
清須会議の結果を受け、興福寺の僧侶・英俊は日記にこう記しています。
天下は五人で山分けされた。
信長の子供たちは何の役にも立たない——。
『多聞院日記』
子供たちとは信雄(40点)と信孝(35点)のことで、五人とは
と並ぶ重臣たちにあたります。
ただし、彼ら七名の中で最も長生きしたのが、73才まで生き延びた信雄(40点)であり、きっちり子孫を残して信長の血脈を繋いだのも信雄でした。
なお、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目された三法師の詳細については以下の記事をご覧ください。
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三法師はその後どうなった?清須会議で後継者となった織田秀信の生涯
続きを見る
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秀吉は本当に筆頭家老宣言などしたのか?豊臣兄弟 第30回 清須会議の史実解説
続きを見る
【参考文献】
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社・中公新書2758)
- 和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(2025年10月 中央公論新社・中公新書2877)
- 藤井讓治『天下人の時代』日本近世の歴史1(2011年11月 吉川弘文館)
- 平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA・角川新書)
- 日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』(歴史新書y)/柴裕之編『戦国武将列伝』(戎光祥出版)
- 『多聞院日記』『豊鑑』/大阪城天守閣所蔵文書
【TOP画像】上段(池田恒興・羽柴秀吉・丹羽長秀)下段(織田信雄・柴田勝家・織田信孝)/wikimedia commons


