近衛前久

近衛前久『贈答百人一首』/wikipediaより引用

皇室・公家

秀吉が頼った近衛前久はなぜ信長や謙信と親しかった?武家と渡り合った関白

大河ドラマ『豊臣兄弟』で、秀吉が関白になるための交渉相手となった近衛前久(このえさきひさ)。

この前久については、ドラマでは伝わらなかった大きな特徴があります。

織田信長や上杉謙信など、武家の大物と非常に関わりが深かったことです。

しょっちゅう贈り物をする間柄だけでなく、現地を訪ねて共に時間を過ごしたり、さらには鷹狩にまで興じているのですから、非常に積極的というか公家っぽくないというか。

五摂家の上級貴族という枠ではとても括れない、近衛前久は一体、武家とどんな付き合いをしていたか?

近衛前久の肖像

近衛前久『贈答百人一首』/wikipediaより引用

史実面から振り返ってみましょう。

 

信長とは鷹の獲物を贈り合っていた

近衛前久と織田信長は頻繁に私信をやりとりする間柄でした。

その中身がなんだか微笑ましいものでして。

馬や鷹といった武家好みの贈答だけでなく、鯛や甘柿、さらには鷹狩りの獲物などまでやりとりしているのですから、両者の親密さが伝わってきます。

『流浪の戦国貴族 近衛前久』の著者である研究者の谷口研語氏によれば、前久はとりわけ鷹に対する情熱が凄まじく、鷹が病気になったときの薬まで講釈しているというのです。

鷹狩は、野山を駆け回る激しいスポーツとも言えます。

公家のトップと天下人が、そんな鷹の話で盛り上がっていたわけですね。

でもなぜ、信長は前久と仲良くしていたのか。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

秀吉のように関白の座を狙っていた?

というより、まず近衛前久の人間性そのものを好んでいた様子が伺えます。

前久は行動力があり、公家にありがちな儀式や礼法にのみ重きを置くタイプではなく、戦国の現実を直視する芯の強さがありました。

しかも、人懐っこい一面もあったようで、谷口研語氏によれば、信長も前久に頼られて悪い気はしなかったのでは?と指摘しています。

武家を格下に見るような素振りもなく、むしろ遠慮なく頼ってくる――信長にしてみれば、付き合っていて気持ちの好い相手だったでしょう。

もちろん、二人の付き合いは親しさだけではありません。

織田信長が近衛前久と付き合う大人の事情もありました。

主に2つ。

・朝廷に関する知識を得られる

・信長が敵対する相手との和睦交渉などにおいて政治的に利用できる

ただでさえ鷹狩で気が合う上に利用価値まであった。

親しくなって当然と言えるでしょう。

また、前久の父・近衛稙家は、十三代将軍・足利義輝の母と兄妹であり(つまり前久と義輝は従兄弟)、もともと武家に近い立場ではありました。

足利義輝の肖像画

十三代将軍・足利義輝/wikimedia commons

それだけに繋がりがあったのは信長だけではありません。

越後の上杉謙信です。

 


謙信は隼を贈り、大名たちも馬と鷹を用意した

永禄二年(1559年)に上杉謙信(当時は長尾景虎)が上洛してきたとき、近衛前久は隼(はやぶさ)を贈られました。

この上洛を機に、二人は隼や歌書などのやりとりを重ねながら親密になっていきます。

ただし、謙信が隼を贈ったのは単なる好意だけではありません。

研究者・今福匡氏の著書『図説 上杉謙信』に、その贈答品の一覧がまとめられています。

天文二十年(1551年)から翌年にかけ謙信は、鷹や太刀、銭など、凄まじい数の贈答品を

・足利義輝
・六角定頼
・細川晴元
・大館晴光
・朝倉教景

といった面々へも贈り続けているのです。

狙いは中央政治との関わりを強くすることであり、このとき役立ったのがやはり鷹でしょう。

そもそも謙信も鷹狩りを好み、

上杉謙信の肖像画

上杉謙信/wikimedia commons

奥州産と思しき上等な鷹を所有しておりました。

こうした鷹は中央では入手しづらく、近衛前久や織田信長にとっても垂涎の的であり、奥州に近い謙信にしてみれば格好の贈り物だったわけです。

 

史上初 現役の関白が越後へ

近衛前久は永禄三年(1560年)9月、関白の地位にあるまま越後へ下っています。

関白といえば朝廷の頂点に立つ役職ですから、現職のまま雪国へ移り住むというのは史上初のこと。

関東を平定して上洛するという構想を描いていた謙信にとっても、現職の関白を擁する意味は小さくありません。

なお、そんな近衛前久には他の武将たちも取り入りたかったようで、会津の蘆名氏もここぞとばかりに馬と鷹を贈ったであろうことが書状に残されています。

◆永禄四年(1561年)3月、知恩寺の僧・岌州が会津蘆名氏の重臣へ宛てた書状

【意訳】近衛前久様への今年の御礼品は、馬と鷹でよいであろう

【参考】『新編会津風土記』

翌永禄五年(1562年)10月には、公家の西洞院晴尚が上野の由良成繁に対して、「(前久が)足の速い馬を一頭ご所望である(早馬勝れたる一疋を御所望)」と送っています。

実際、近衛前久の馬や鷹好きは、他の公家の日記にも記されるほどで。

『言継卿記』によれば、永禄八年(1565年)の年末は12月12日、23日、25日と、鷹狩りに明け暮れていたことが書かれています。

鷹狩は、今で言えば大企業重役のゴルフみたいなものですね。

 


前久は秀吉と家康の求めで鷹の秘伝をまとめた

近衛前久の鷹好きは、趣味の域を超えているとも言えます。

天正十七年(1589年)4月、豊臣秀吉と徳川家康らの懇望を受け、前久は『龍山公鷹百首』を編み上げました。

龍山とは出家後の号です。

天下人と、その次に天下を取る大名が、そろって鷹の指南を前関白へ求めていたんですね。

豊臣秀吉(左)と徳川家康の肖像画

豊臣秀吉(左)と徳川家康/wikipediaより引用

信長は獲物を贈り合う相手。

謙信は隼を贈ってきた相手。

秀吉と家康は教えを乞う相手。

戦国を代表する武将たちが、前久と鷹で繋がっていました。

 

晩年、前久はそれを悔いていた

ここまでなら、趣味で天下人と渡り合った痛快な公家の話です。

ところが前久自身は、晩年にこう書き残しました。

【意訳】馬や鷹、あるいは武芸など、武家の真似事ばかりしてないで、もっと公家としての教養も高めておくべきであった

【原文】馬・鷹、自余の武芸をあいあいに習い候て、隙をかき今に堪えず口惜しく候えども、老後励み悔みといえどもに候

【参考】谷口研語『流浪の戦国貴族 近衛前久』

鷹と馬で戦国の武将たちと渡り合った当の本人が、老いてから悔やんでいたのです。

果たしてこれは本気だったのかどうか。

もしも鷹と馬を我慢していたら、逆に「公家らしく振る舞うことばかりしないで、もっと自分の好きな馬や鷹、武芸に熱中しておけばよかった」と書いていたかもしれませんよね。

そんな近衛前久の生涯を、谷口氏は「彼は武家になろうとした。そして、流浪した」と表現しています。

鷹をキッカケに地方の諸大名と親しくなり、実際に動き回った。

もしも公家に生まれてこなければ、なんら迷うことなく武家としての生涯を全うしていたのかもしれません。

なお、秀吉がなぜ将軍ではなく関白になったのか?という点については以下の関連記事をご覧ください。

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◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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