なぜ秀吉は将軍ではなく、関白になったのだろう?
そんな疑問を持ったことはありませんか。
普通、武士が目指すトップは征夷大将軍であり、大河ドラマ『豊臣兄弟』の中でも近衛前久から同様のことを問われ、劇中の秀吉はこう答えています。
「将軍は、武家の棟梁に過ぎないですが、関白は天皇に代わって全ての民の上に立ちます。ワシはそこからの眺めを見たいのじゃ」
なるほど、ドラマの秀吉は明確に
関白>将軍
という図式が成り立っているようですが、果たして史実ではどう考えていたのか?

豊臣秀吉/wikimedia commons
秀吉の関白就任を振り返ってみましょう。
足利義昭に断られた?
秀吉は当初から関白を望んでいたわけではない。
そもそも「源氏じゃないから将軍になれなかった」という話を聞いたことはありませんか?
源頼朝も足利尊氏も、たしかに河内源氏(清和源氏)の一派。
いかにも信憑性のある話に見えますが、これは全くの間違いであり、制度としてそんな規定はありません。
今なおこうした見方が広まっているのは、以下の逸話が元になっているからでしょう。
源氏である足利家を継げば将軍になれる。
そう考えた秀吉は、備後の鞆(とも)にいた足利義昭へ「猶子にしてくれないか」と打診して、結局、断られてしまった。

足利義昭/wikimedia commons
【参考】小和田哲男『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』
しかし、同著者の小和田氏も指摘していますように、このエピソードには大きな矛盾があります。
秀吉は近衛前久の猶子となり、藤原氏として関白就任の資格を整えています。
仮に将軍就任に源氏の姓が必要であれば、足利義昭にこだわらず、いくらでもそのポジションは得られたはず。
では、なぜ将軍にならなかったのか。
小和田氏がその一因として考えているのが、徳川氏や北条氏、さらには伊達氏を始めとした東国の諸勢力でした。
「小牧・長久手の戦い」では、秀吉が織田信雄との講和に持ち込み、戦局を優位に収束させましたが、局地戦では徳川に敗れており、この段階ではまだ東国武家たちが羽柴に屈していない。
そのため朝廷が征夷大将軍に任ずることを躊躇したというのです。

北条氏政と徳川家康の肖像画/wikimedia commons
ただし、この説も決定的ではありません。
後に秀吉が奥州仕置で東北を平定した後、とくに将軍職にこだわったという話もなく、後継者候補の豊臣秀次は関白に就任しています。
豊臣家で関白の世襲を続けるつもりだったのでしょう。
そこで注目しておきたいのが、それ以前の秀吉の官位や姓です。
実はこの秀吉、関白になる以前は「平」の姓を称していました。
秀吉は信長と同じ「平」を名乗った
織田信長も平姓を称しており、その配下だった秀吉も、朝廷の文書では「平秀吉」と記されています。
秀吉が信長にならって平姓を名乗ったのか?
その経緯は明らかではありませんが、少なくとも源姓や藤原姓ではなく、平姓で官位を受けていたのです。

若き頃の秀吉を描いた月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』/wikimedia commons
そんな秀吉の官位については、口宣案(くぜんあん・官位の叙任を伝える文書)を見ると、妙なところがあります。
以下の経歴をご覧ください。
◆天正十年(1582年)10月3日 従五位下・左近衛権少将
◆天正十一年(1583年)5月22日 従四位下・参議
◆天正十二年(1584年)11月 従三位・権大納言
いかにも順調に官位を駆け上がったように見えますよね。
しかし、だからこそ怪しいもので。
研究者・藤井讓治氏の著書『天下人の時代』によると、この口宣案の筆跡がすべて同じであり、従三位・権大納言のときに全てまとめて記されたのでは?と指摘しています。
なんせ権大納言の叙任は、小牧・長久手の戦い直後です。
中央エリアでの羽柴天下がほぼ確定した時期であり、その権力にあやかりたい周囲の思惑も浮かんでくるわけで……秀吉の出世は、朝廷サイドの要望も影響した可能性が否めません。
そして、ここから話は大きくこじれていきます。
ドラマの中でも近衛前久が険しい表情になっていたように、天正十三年(1585年)2月、左大臣だった二条昭実が関白に就いたのです。
近衛と二条の関白相論
二条家が関白となり、空いた左大臣には近衛信輔が就任。
信輔は近衛前久の息子であり、それまでは右大臣でした。
すると玉突きで、右大臣の職が秀吉に回ってきたのですが、秀吉はこれを拒否します。
◆関白:二条昭実
◆左大臣:近衛信輔(前右大臣)
◆空いた右大臣:秀吉は拒否
理由が非常に示唆的です。
織田信長が前右大臣の地位にあったまま斃れたから受けられぬ。
要は「縁起が悪い」というわけで、朝廷や信長に対して強く出る秀吉のスタンスが見えてきますね。
結果、秀吉は従二位内大臣に叙任されるのですが、話はここで終わりません。
今度は左大臣になった近衛信輔が、関白の職を強く望み始めたのです。
対する二条昭実は、関白の座を死守したい。

二条昭実/wikimedia commons
昭実にも言い分はあります。
自分が関白になったのは、わずか3~4ヶ月前のことであり、1年以内で辞職など過去に例はなく、理不尽ではないか!
確かにその通りなのですが、信輔は信輔で天皇へ三度も申文を捧げており、なかなか折れようとしません。
「関白相論(かんぱくそうろん)」と呼ばれる出来事――この隙を突いたのが秀吉でした。
二条昭実の訴えは近衛家へ筒抜け
近衛信輔が天皇に訴えるなら、二条昭実も黙ってはいない。
自ら大坂へ赴き、所司代の前田玄以を通じて、秀吉への取りなしを頼みます。
昭実も秀吉の力を利用しようと考えたのですね。

月岡芳年の描いた前田玄以/wikimedia commons
しかし前田玄以は近衛家と親しく、昭実の訴えを逐一、近衛信輔へ知らせていたと研究者の今谷明氏は指摘しています。
さらに近衛家には、前久が所持する「光忠の刀」を秀吉が「拝見」したがっているとの連絡まで届きました。
信長の形見と伝わる刀であり、それを「拝見したい」とは、事実上の献上を意味します。
前久はこの一件を「迷惑」と書き残していました。
そりゃ、そうですよね。
近衛と二条という、元はと言えば藤原氏の同族内で争いを留めておけばよかったのに、秀吉まで巻き込んでしまえば、事態がややこしくならないわけがない。
現にこうしてプレッシャーをかけられているではないか……。
そんな前久の懸念は、最悪のカタチで的中してしまいます。
関白相論の収拾を求められた秀吉は、こんなことを言い出したのです。
「朝廷のため」と言いつつ自身が就任
「いずれが非となってもその家の破滅となり、それでは朝廷のためによろしくない」
どちらが勝っても負けてもよろしくないなら、自分が関白になろう、と提案したのです。
信輔は当然、渋りました。
そこで秀吉は条件を重ねます。
まずは自身が信輔の父である近衛前久の猶子となり、信輔とは兄弟の契りを交わす。
そして関白職はいずれ信輔に譲る。
そのうえで近衛家には1000石、他の摂家にも500石を与える。
ここまで積まれて、前久はこう漏らしたと伝わります。
四海を掌にしている秀吉を、だれが否といえようか

近衛前久『贈答百人一首』/wikipediaより引用
信輔も「当家の再興になるならば」と、やむなく賛成するしかありません。
そして天正十三年(1585年)7月11日、秀吉は従一位関白に叙任されました。
紀州攻めを終え、まだ四国攻め最中のことです。
関白になったとき豊臣ではない
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも言っていたように、当時の関白は藤原氏五摂家から選ばれるのが慣例でした。
【五摂家】
近衛家(このえけ)
一条家(いちじょうけ)
九条家(くじょうけ)
鷹司家(たかつかさけ)
二条家(にじょうけ)
前久の猶子となった秀吉は平姓から藤原姓へ改めることとなり、関白の就任時点では藤原秀吉だったことになります。
しかし、これは秀吉にとって問題がありました。
藤原を名乗れば、旧来の藤原氏一族と同化してしまう。
そうなれば秀吉といえども藤氏長者の統制下に入ることになり、なにかと都合が悪い。
そこで区別を図るため、豊臣姓を新たに作らせたのです。

豊臣秀吉/wikimedia commons
『押小路家文書』には、天正十三年(1585年)9月9日付で豊臣姓への改姓を申請し、それを許可した文書が残されています。
ただし、その日付が実際の改姓時期と一致するわけではなく、翌天正十四年(1586年)、太政大臣に任官した時では?とする見方もあります。
なお、豊臣は「姓」であって「苗字」ではありません。
苗字は最後まで羽柴のままでした。
以下のような変わり方です。
羽柴(苗字)+藤原(姓)+朝臣(カバネ)+秀吉(名)
↓
羽柴(苗字)+豊臣(姓)+朝臣(カバネ)+秀吉(名)
関白を武家政権の標識に
秀吉の関白就任を当時の人々はどう見ていたのか?
奈良の僧・多聞院英俊は、日記にこう書きつけました。
【意訳】前例のないことだ
【原文】先代未聞ノ事也
同日記には「武家クルヰ」という言葉も出てきます。
「武家が狂っている」という意味でしょう。
公家二人が争っていた関白の座へ乗り出したのですから、そう言われても仕方のない話です。
源頼朝にせよ、足利尊氏にせよ。鎌倉・室町の武家政権では、征夷大将軍が政権を示す官職となっていました。
秀吉はそれに代えて、関白職を新たな武家政権の標識にしようとした。
わざわざ、そんな特色を出す必要などあったのか?
重要なのは関白と将軍のどちらが上かではなく、秀吉が関白を自らの政権を示す新たな標識として利用した点でしょう。
なお、秀吉が関白相論に取り掛かっている間、弟の秀長が大将を務めた四国攻めについては、以下に関連記事にがございますのでよろしければ併せてご覧ください。
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なぜ秀吉は四国攻めで長宗我部元親を追い込んだのか|伊予を毛利に渡すため?
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参考文献
- 藤井讓治『天下人の時代』(2011年11月 吉川弘文館)
- 黒田基樹『羽柴秀長の生涯』(2025年9月 平凡社)
- 小和田哲男『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』(2002年3月 PHP研究所)
- 今谷明『武家と天皇 王権をめぐる相剋』(1993年6月 岩波書店)
- 林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』(2005年4月 中央公論社)

