天正十三年(1585年)6月、羽柴軍が四国へ攻め込みました。
この一戦は、小牧・長久手の戦いで長宗我部元親が反秀吉包囲網に回ったため、その懲罰措置として攻め込まれたような印象があります。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも元親が当初は「大坂へ乗り込む!」と意気込んでいましたので、逆に攻め込まれても仕方のない展開と思えたでしょう。
しかし、小牧・長久手の戦いは秀吉優位のまま終結。
その後、羽柴軍が総勢10万規模ともいう兵力で四国へ攻め込む必要はあったのか。
長宗我部勢にしても勝ち目のない戦だと事前に理解できたはずなのに、なぜこれほど大規模な作戦となったのか。

長宗我部元親/wikipediaより引用
本記事では、秀長が大将となった「四国攻め」を史実面から振り返ってみましょう。
小牧・長久手の続きだった
なぜ羽柴秀吉は四国へ出陣したのか。
きっかけは前年にさかのぼります。
天正十二年(1584年)3月、織田信雄が秀吉と通じた家老三人を斬ったとき、信雄の家臣・織田信張は長宗我部勢に対し淡路までの進出を要請していました。
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そして直後に小牧・長久手の戦いが発生。
約8ヶ月に及ぶ長い対陣の末、秀吉と信雄が和睦を結び、家康方もそれに従うというカタチで終戦となりました。
問題は、反秀吉に回った全国の諸将です。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
戦後、雑賀衆や根来寺などの紀伊勢は羽柴軍に征伐され、四国出兵についても同様の目的で軍事行動が進められたと研究者の河内将芳氏は『図説 豊臣秀長』の中で指摘しています。
つまり、小牧・長久手合戦の延長線上にあった戦であり、しかも四国については、信長が生前に攻め込む予定ながら本能寺の変で流れていたという経緯もありました。
秀吉が天正十三年(1585年)4月14日に出した、小早川隆景宛の書状にもこうあります。
和泉と紀伊を平らげ、すぐにでも四国へ出馬する覚悟である――。
実際、この書状の通り、5月8日には「来月3日、長宗我部成敗のため四国へ出馬する」と告げ、同日に弟の羽柴秀長へ出陣を命じています。
ただ、その後の展開がどうも妙なのです。
そもそも長宗我部元親は、秀吉と対立を続ける考えだったのでしょうか?
実は降参を申し出ていた元親
小牧・長久手の戦いで織田信雄と徳川家康が事実上の敗北を喫した。
それでもなお長宗我部元親は秀吉に抗う気などあったのか?
いいえ、そうではありません。
実は天正十三年(1585年)6月18日より前、元親はすでに秀吉方へ「阿波と讃岐を差し出し、実子を人質に出したうえで、嫡男の信親を大坂で奉公させる」と申し出ていました。

長宗我部信親(落合芳幾・作)/wikipediaより引用
土佐と伊予の領有を認めてもらう代わりに、阿波と讃岐を差し出すという大幅な譲歩。
事実上の敗北宣言ですね。
秀吉も一度はこれを受諾するつもりだったようですが、6月20日になると一転、秀長へこう命じています。
土佐と伊予を長宗我部に与えようとしたが、小早川隆景が伊予を欲しがっているのでそちらへ与えることにした。
長宗我部が土佐一国でもいいから許してほしいと願うなら受け入れよ。
そして、長宗我部の人質を元親へ返しました。
つまり長宗我部元親からの申し出は白紙に戻すということです。
宇野主水が記した『顕如上人貝塚御座所日記』(『宇野主水日記』)にも、長宗我部側は当初から合戦を望まず和議を懇望していたものの、「芸州毛利家より存分があって和議が破れ、その結果ぶつかったのだ」と記されています。
秀吉の書状にもあるように、毛利家の意図が働き、まとまりかけていた話が壊れたんですね。

毛利家の要・小早川隆景/wikipediaより引用
二ヶ国を差し出すとまで決意した元親にしてみれば、たまったものじゃないでしょう。
ただし、秀吉も、決して順風満帆ではありません。
天正十三年(1585年)6月3日を予定していた出馬が6月16日へ延期され、その後、近江坂本城で病に倒れてしまうのです。
秀吉は病に倒れ秀長が大将に
実は、病気で倒れていた秀吉。
朝廷からは、石清水八幡宮などへ病気平癒の祈祷を命じる綸旨が出るほど、一大事と受け止められました。
正親町天皇の嫡子である誠仁親王も「名代を出馬させるのがよい」と書状で勧めているほどですが、この辺の病気の話はドラマでは省略されていましたね。
結局、秀吉は6月初旬に回復。
後から渡海する構想も持っていましたが、四国攻略は弟の羽柴秀長に委ねられました。

豊臣秀長/wikimedia commons
では、秀長率いる羽柴軍の規模はどれほどだったのか?
◆羽柴軍 8〜10万
・ルイス・フロイスの書簡では10万を超えたと伝わる
・秀吉が大村由己に書かせた『四国御発向并北国御動座事』では、秀長勢が8万余騎、大船600艘・小船300艘(ドラマでは船が千艘という表現)
・阿波方面は秀長と秀次
・讃岐方面は宇喜多秀家・蜂須賀正勝・黒田孝高
・伊予方面は毛利輝元・吉川元春・小早川隆景
対する長宗我部軍は以下の通り。
◆長宗我部軍 2万前後
・『元親記』では元親が「国元の兵1万8000を率いて海部で決戦に及ぶ」と記す
・一宮城に江村親頼と谷忠澄
・脇城に長宗我部親吉が籠城
『長宗我部元親・盛親』の著者である平井上総氏は、羽柴方の人数について「信憑性を確かめる手段は無い」としています。
大村由己は秀吉の御伽衆であり、盛られている可能性も高い。
ただ、それでも秀長が連れている諸将は羽柴家の有力武家ばかりであり、かなりの大軍だったことは間違いないでしょう。
実際、秀長軍は瞬く間に阿波の諸城へ迫っていきます。
瞬く間に阿波の諸城へ迫る秀長軍
四国へ渡海した秀長軍。
7月5日に木津城を落とすと、19日までに牛岐城を乗っ取って一宮城の塀際まで押し寄せ、甥の羽柴秀次も21日までに脇城へ迫りました。
地図でその位置をご確認ください。
中央の赤い拠点が長宗我部方の一宮城
取り囲む黄色い拠点が羽柴方の脇城・木津城・牛岐城
先に触れた『宇野主水日記』では、元親自身が阿波の一宮まで出てきながら、何の手立ても講じず土佐へ帰ったと伝えられています。
そんな長宗我部軍に対する秀吉の指示は力攻めではありません。
一宮城を干し殺しにせよ――つまり包囲して締め上げ、降参させる算段でした。
長宗我部軍は決して脆弱ではありません。
しかし、それをも圧倒的に上回る羽柴軍が、まるで弱い者イジメでもしているかのようにジワジワと攻め立てるのでした。
元親は決戦を挑まず降伏した
一方、別の史料『元親記』などからは、元親が阿波の白地城に腰を据えていたとみられます。
※地図一番左の赤い拠点が白地城
籠城する長宗我部兵はどうにか持ちこたえるも、水を断たれた城に時間の余裕はありません。
そこで7月25日、秀長は元親の家臣へ起請文を送ります。
・土佐一国が元親に与えられるよう努める
・交渉のため5日間は戦闘を止める
わざわざ無益な戦いをする必要がない、そんな秀長の心情が見えてきますね。
一方、秀吉から秀長に対しては、催促のような書状が届けられていました。
長宗我部が降伏してこないならば一宮城と脇城の籠城者は一人残らず首をはねろ。
元親についても、自分が土佐へ遊山がてら出陣して首を取る。
そもそも白旗を挙げていた元親に対し、それを踏みにじるような秀吉からの降伏勧告。
さすがに元親も激怒したと『元親記』では伝えられています。
西国の弓矢取りとして名を知られた自分が、一戦もせずに降伏などできようか――。

長宗我部元親像
ただ、それでも家老たちが三日かけて説き伏せ、ようやく元親は折れました。
元親が「一戦もせずには降伏できない」と言い張ったのは、土佐一国へ逆戻りすることを家臣へ納得させるためのポーズでもあっただろう、と平井上総氏は見ています。
結局、決戦を挑まないまま“元親の四国”は土佐一国へ戻ったのです。
四国の大部分は羽柴の勢力下へ
長宗我部の敗北を受け、8月には四国の国分け(領土配分)が決まりました。
元親が開戦前に出していた申し出を思い出してください。
阿波と讃岐を返上し、実子を人質に出す。
しかし、領有を求めていた伊予は認められず、最終的に土佐一国のみとなりました。
平井氏は『戦国武将列伝10 四国編』の中で、秀吉は毛利氏の意向を無視して元親の降伏を受け入れるよりも、長宗我部を攻撃して毛利に伊予を与え、恩を売ったほうがいいと判断したのだと分析しています。
もともとは降参を願っていた元親と、毛利からの領土要求を天秤にかけ、毛利の意見を重視した秀吉。
かくして長宗我部の領土は大きく奪われ、四国各地に羽柴勢の有力者が入り込むのでした。
なお、小牧・長久手の戦いにおいては「遺言書を書いてから出陣した」という森長可の動きも興味深く、よろしければ以下の関連記事を併せてご覧ください。
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遺言状を書いてから出陣した森長可|なぜ「弟に跡を継がせるな」と書いたのか
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参考文献
- 和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(2025年10月 中央公論新社)
- 河内将芳『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(2025年5月 戎光祥出版)
- 平井上総『長宗我部元親・盛親 四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(2016年8月 ミネルヴァ書房)
- 平井上総編『戦国武将列伝10 四国編』(2022年12月 戎光祥出版)※平井上総「長宗我部元親」



