女物の着物に執着を見せる長宗我部元親の隣で、常に武士らしく引き締まった表情をしていた。
谷忠澄とは一体何者なのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』をご覧になって、そんな疑問を感じた方は多いでしょう。
一宮城を守りきれず、ついに羽柴秀長が城内へ乗り込んできたときも、
「介錯を頼む」
とだけ言い放ち、本当は『こっちが主君だったんじゃないの?』と思わせる迫力があったほど。
実はあの描写、まんざら大袈裟な表現とも言い切れません。
史実における谷忠澄も、主君・長宗我部元親に対し反対意見を押し通し、結果的に同家を救ったとも考えられているのです。
ではいったい何をしたのか?

本記事で、谷忠澄の事績を振り返ってみましょう。
土佐神社の神職だった谷忠澄
そもそも谷忠澄は、土佐一宮である土佐神社の神職でした。

土佐神社
それが長宗我部家へ出仕するようになると、知謀を買われて同家の外交を担当。
非有や栄音といった僧侶らとともに帷幄(いあく・本陣などのこと)に参じ、元親を支える軍略家としても活動しました。
そのうち岡豊城下の滝本寺にいた栄音は、伊予の金子元宅との交渉を担っています。
一方、谷忠澄の兄とも弟とも言われる非有は、国書や仏典、経書に通じた学者タイプの僧侶でした。
このように長宗我部の外交では、神職や僧侶出身の人物が大きな役割を担っていたのですが、その中で谷忠澄はどんな立場だったのでしょう?
四国進出の拠点・白地城を預けられた
谷忠澄の立ち位置がはっきり分かる出来事があります。
天正四年(1576年)のことです。
この年、阿波の大西覚用が長宗我部に服属することとなりました。
しかしこの大西、まもなく毛利方へ離反すると、翌天正五年(1577年)、再び元親に攻められ、あらためて長宗我部に服属。
今度は、元親も警戒して領内に白地城(はくちじょう)を築くと、同城を忠澄に預けたのです。
研究者の平井上総氏は著書『長宗我部元親・盛親』の中で、白地城は阿波・讃岐・伊予三カ国に通じる要所にあり、四国進出の重要拠点と説明しています。
いわば四国を切り取るための前線基地です。
そこを任された谷忠澄がいかに元親から重用されていたか、ご理解いただけるでしょう。
浅井長政を滅ぼした後、長浜城を任された秀吉みたいなもの……とはさすがに言いすぎかもしれませんが、最前線の要衝を任されたという点では同等の役割でした。
そんな谷忠澄の性格を伝える逸話が残されています。
「僧侶が戦争の何を知っている」
讃岐の軍記『南海治乱記』に掲載された話です。
あるとき長宗我部元親が雲辺寺の住職に「伊予・讃岐を攻略しようと思うがいかがであろう?」と尋ねました。

長宗我部元親/wikipediaより引用
住職は、こう答えます。
土佐七郡の軍勢で讃岐へ攻め込むのは、茶釜の蓋を水桶の蓋にしようとするようなものだ――。
さらには、欲をかいて侵略した者たちの末路まで続けて語ると、それを聞いた人々は感心しました。
後日、元親がこの話を忠澄に伝えます。
すると忠澄は、こう言い放ったというのです。
仏道は僧に聞き、武道は武士に聞くべきで、僧が(戦争の)何を知っているのでしょう?
すでに元親様は私の進言によって阿波国半国を得たのですから、伊予・讃岐も数年で手に入ります。
元は自分も神職だったのに「僧が何を知っている」と頭から否定し、しかも「私の進言によって阿波半国を得た」と、はっきり主張する。
この逸話だけ見れば、温厚な補佐役というより、押しの強い実務家の姿が浮かんできますね。

ただし、雲辺寺の逸話は『長元記』『土佐物語』にも出てきて、話の中身がそれぞれ異なっています。
そういう話もあるんだな……ぐらいに考えていただき、話をクライマックスへ進めましょう。
そう、羽柴軍による四国攻めです。
一宮城で秀長と向き合った
本能寺の変により織田軍の四国攻撃計画が中止となり、九死に一生を得ていた長宗我部家。
その後、天下人へとのし上がってきた羽柴秀吉に対し、元親はあらためて譲歩案を提示しました。
阿波と讃岐を渡す代わりに、伊予と土佐の支配を認めて欲しい――。
しかし、秀吉はこの案を一蹴。
土佐一国しか認めないとして、天正十三年(1585年)、羽柴秀長を総大将とする10万規模の大軍を四国へ送り込みました。
このとき忠澄が籠もったのが、阿波の一宮城です。

阿波一宮城
もともと一宮城は、一宮成祐(いちのみや なりすけ)の居城でした。
山本大編『長宗我部元親のすべて』によると、元親は協力関係にあった成祐を謀殺して城を手に入れ、江村氏と谷忠澄を守将に置いたとされています。
羽柴軍総大将の秀長は、鮎喰川を隔てた辰ノ山に本陣を置き、北と東から攻めかかりました。
城はなかなか落ちません。
しかし、水を断たれ、いよいよ苦境に陥ります。
秀吉から秀長に対しては、

豊臣秀長/wikimedia commons
「一宮城を干し殺しにせよ」という指示が出ていました。
「丸め込まれたか!」と元親に罵られ
包囲から20日ほど経ったころ、谷忠澄が呼び出されます。
『元親記』によると、そこで羽柴秀長はこう語りました。
一宮城と岩倉城(脇城か)を落としたあと、南の牛岐・海部へ攻め込み、元親をおびき出して決戦するつもりだ。
その段階で降伏しても、元親には不利になる。
しかし、今のうちに降っておけば、秀吉も満足するのではないか――。
忠澄はこれを、白地城にいた元親へ伝えます。
返ってきたのは罵倒の言葉でした。
以下はすべて『元親記』が伝える言葉です。

長宗我部元親像
◆元親の言葉
籠城した者が負けた場合は切腹するのが武士の習いであろう。
大納言殿に丸め込まれて意見するとはどういうことか!
伊予の金子元宅は譜代でもないのに毛利殿に攻められ腹を切ったぞ。
たとえ一宮・岩倉が落とされたとしても、国元の兵1万8000を率いて海部で決戦に及ぶつもりである。
西国の弓矢取りとして名を知られた元親が一戦もせずに降伏などできようか!
譜代でもない金子元宅は腹を切った――これは忠澄への当てこすりに読めますね。
「おまえも譜代ではないだろう」というわけで、神職から取り立てられた者にとって最も刺さる言い方をしています。
しかも金子元宅は、忠澄の同僚である栄音が交渉相手としていた人物でした。
長宗我部の外交が積み上げてきた相手の死を、元親は引き合いに出したことになります。
それでも忠澄は引きません。

主君を直接説得するのをやめ、家老や重臣たちを口説きにかかるのです。
彼らもこう応じました。
殿のお怒りはもっともだが、本国近くまで攻められてから降伏するのはよろしくない。両城が持ちこたえているうちに話に乗っておこう――。
そして三日かけて、ついに元親を折れさせたのです。
豊臣政権期、谷忠澄は幡多郡を担当する奉行に任じられました。
土佐の西端にあたり、かつて一条家の領国だった、統治の難しい土地です。
主君に罵られてなお引かなかった人物が、その後も難所を預かっていたことになり、依然として信頼されていた証でもありましょう。
しかし、この元親と忠澄のその後には、哀しい逸話も残されています。
降伏してから1年後のことです。
信親の遺骸を捜索し遺骨を持ち帰る
天正十四年(1586年)12月、九州の戸次川で長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親が討死しました。

長宗我部信親(落合芳幾・作)/wikipediaより引用
信親は、元親の大切な嫡男であり、それだけに遺体は確実に引き取っておきたい。
そこで『元親記』によると、恵日寺の僧と忠澄が信親の遺体を捜し、この二人が遺体を荼毘に付して遺骨を持ち帰ったとされます。
あるいは山本大編『長宗我部元親のすべて』によると、忠澄が敵の島津方へ赴き、信親の遺骸と遺品を受け取ったと記します。
同書によれば遺灰は高野山の奥の院に納められ、忠澄は同じ戦いで死んだ土佐兵700人を供養する石塔婆も建立。
長宗我部家はその後、関ヶ原の戦いで西軍につき、戦国大名としては滅亡してしまいます。
谷忠澄も同年、病死しました。
享年67。
なお、羽柴軍による四国攻めの間に秀吉は関白となっていましたが、その詳細については以下の関連記事をご覧ください。
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秀吉はなぜ征夷大将軍ではなく関白になった?関白相論に割り込んだ策略
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なぜ秀吉は四国攻めで長宗我部元親を追い込んだのか|伊予を毛利に渡すため?
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参考文献
- 平井上総『長宗我部元親・盛親 四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(2016年8月 ミネルヴァ書房)
- 山本大編『長宗我部元親のすべて』(1989年8月 新人物往来社)
- 平井上総編『戦国武将列伝10 四国編』(2022年12月 戎光祥出版)※平井上総「長宗我部元親」


