天正十三年(1585年)6月、羽柴秀長が四国へ攻め込みました。
相手はご存知、長宗我部元親ですが、この合戦、本来はあり得ない戦いでした。
なぜなら元親が事前に降伏を申し出ていて、秀吉も「阿波と讃岐を差し出す」という条件を呑むつもりだったのです。
ところが土壇場で和睦交渉は決裂。
10万規模の羽柴軍が四国へ押し寄せることになりますが、現地ではいったい何が起きていたのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも説明されていたように、原因は毛利家です。

小早川隆景/wikipediaより引用
同国の重臣・小早川隆景が伊予を欲しがったのでした。
長宗我部との和睦を崩した毛利の要求
小早川隆景が伊予を欲しがったから秀吉は方針を変えた。
これは本当なのか?
天正十三年(1585年)6月20日、弟の秀長へ宛てた書状にきっちり記されています。
◆秀吉から秀長への書状
土佐と伊予を長宗我部に与えようとしたが、小早川隆景が欲しがっているので毛利へ渡すことにした。
長宗我部が土佐一国でもいいから許して欲しいと願うならば、降伏を受け入れるように。
参考:平井上総氏『長宗我部元親・盛親』
長宗我部は、自ら切り取った二ヶ国を譲ると決め、さらには人質まで送ったのです。

長宗我部元親/wikipediaより引用
しかし、毛利が欲しがっているからそちらへ渡す、という秀吉は、元親から預かっていた人質を送り返しました。
交渉は完全に決裂。
もはや長宗我部は「土佐一国」という条件を受け入れない限り、強大な羽柴軍から攻め込まれることが決まってしまいました。
秀吉とて、もはや一歩も引けません。
なぜなら秀長へ書状を送る前に、すでに小早川隆景に対してはこんな書状を出していたのです。
【意訳】伊予についてはあなたが望むのですから是非もない(問題なく渡します)。人質を返したうえで伊予一国を進呈しましょう。
【原文】伊与儀、その方御望みの事候間、是非に及ばず、長曽我部人質相返し候上、伊予国一職にその方進ぜ候、自然、長曽我部宥免せしめ候わば、土佐一国宛行うべく候也
まったくもって長宗我部にとっては辛い話と申しましょうか。
『元親記』によれば、そもそもは織田信長に四国の切り取り(支配拡大)を認められていたのに、それを一方的に否定され、秀吉にも方針が引き継がれてしまった。

織田信長/wikimedia commons
しかも、こうした泥沼の争いは他人にとっては蜜の味のようで。
大坂の外にまで筒抜けになっています。
和泉国貝塚を拠点にしていた本願寺の記録『顕如上人貝塚御座所日記』(別名『宇野主水日記』)の中で、こんな風に記されているのです。
長宗我部が望んだ内容で交渉が成立しようとしていたところ、毛利側の望みによって和睦が破れたらしい。
参考:『宇野主水日記』天正十三年7月条
大坂の僧侶にまで広まっているのですから、注目度も大きかったのでしょう。
最終的に出兵を命じたのはもちろん秀吉ですが、この合戦の原因は毛利にあると研究者の光成準治氏も指摘しています。
ここで気になってくるのが毛利の事情です。
小早川隆景は、突然、そんなワガママを言い出したのでしょうか?
伊予と土佐はもともと毛利へ渡す約束
四国攻めが始まる半年前。
同年1月17日、黒田孝高と蜂須賀正勝が毛利家臣・井上春忠へ宛てた連署状に注目です。
【意訳】夏には四国へ手を出すので伊予と土佐の両国を毛利へ進呈する。長宗我部がいくら懇願してきても許さない。
【原文】四国の儀、来夏御てだて及ばるべきの条、伊予・土佐両国進め置かるべき由、仰せ出られ候、それにつき、長曽我部種々懇望いたし候といえども、御許容なく候
なんと秀吉は、伊予だけでなく土佐まで毛利に渡すと言ってるではありませんか。
他国を勝手に渡すだの、時期は夏だの、言いたい放題です。
ただ、秀吉にも大盤振る舞いをしなければならない理由がありまして……。

豊臣秀吉/wikimedia commons
上記の連署状が記された時期が、毛利と羽柴で国境の協議を進めていた頃とかぶるのです。
要は、自分の主張を毛利に受諾させるため、勝手に四国・長宗我部領を渡すと決めていたというのですね。
小早川隆景が急にワガママを言い出したわけじゃない。
大河ドラマ『豊臣兄弟』では「毛利との約束」としか説明されませんでしたが、なんてことはない、突き詰めて考えてみれば秀吉の主張でした。
毛利には家臣へ配る土地が無かった
それにしても、です。なぜ毛利は海を渡ってまで領地が欲しかったのか。
確かに瀬戸内海の制海権を有していても、陸続きの方が支配しやすいのは言うまでもありません。
実は毛利は、秀吉との事前協議で美作や備中東部を手放していました。
秀吉にしてみれば播磨から西へ勢力を拡大させる代わりに、毛利には長宗我部領を引き渡すと勝手に決めたのです。
そうなると、もともと美作や備中に根ざしていた毛利傘下の者たちに、代わりの所領をあてがわなければならない。
こうした状況について研究者の光成準治氏は著書『小早川隆景・秀秋』の中で、毛利にとって新たな所領の獲得は不可欠であったとしています。
まぁ、当たり前ですね。
もしも毛利が新たな土地を用意できなければ、結果的に秀吉に所領を奪われた国衆や家臣たちに見限られ、父・元就から託されていた毛利家そのものが瓦解してしまう。

毛利元就/wikipediaより引用
ゆえに小早川隆景も必死だったのでしょう。
伊予にこだわったわけではなく、家臣に配る土地があればよかったのです。
では、なぜ伊予なのか?
実は小早川家は以前から同地に縁がありました。
伊予の守護・河野氏は婚姻を通じて毛利と関係を深めており、当主・河野通直にとって隆景は母の叔父にあたる人物です。
通直の隠居にともない外戚の隆景が伊予の領有権を受け継ぐことは正当性もあった、と光成氏は指摘しています。
ただ、関係が深いからこそ、隆景にとっても元親にとっても、複雑な感情を抱くことにもなりました。
そもそも両者の仲は悪くなかったのです。
かつて隆景は元親と河野の和睦を仲介
長宗我部元親と小早川隆景はどんな関係だったのか?
両者の間で起きた出来事といえば、天正七年(1579年)12月の書状から見て取れます。
隆景が、東伊予の国衆・金子元宅へ書状を送り、伊予と土佐の関係について触れ、「特に宇和郡での戦いはよくないので双方のために和睦を実現したい」と述べています。
しかも隆景は、同じ書状のなかに、こんな一文も書き添えていました。
元親はこちらに対して悪い感情はありません。
当時の毛利は、羽柴秀吉(背後に織田信長)とバチバチやっていた頃。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
とても長宗我部と対決する余裕などなく、長宗我部と河野を仲裁して、余計な紛争を避けようとしています。
ところがその隆景が六年後、長宗我部の降伏をはねつけ、所領を寄越せ、と主張する側に回っている。
むろん、個人的感情などからではありません。
先ほど説明しましたように、毛利が秀吉に所領を譲ったため、隆景は、その代わりとなる土地を是が非でも手にしなければならなかったのです。
手に入れた伊予を隆景は二年で失う
結局、天正十三年(1585年)8月、長宗我部元親は秀吉に降伏。
土佐一国だけ許され、伊予は約束どおり隆景のものとなりました。
万事これで解決……とは言えません。
天正十五年(1587年)、あれほど強く求めた伊予が、他ならぬ秀吉に召し上げられてしまうのです。
九州攻めを終えた秀吉は、代わりの条件として筑前一国と筑後、肥前の一部を差し出す案を提示しました。
なぜ、そんなややこしいことを秀吉はしたのか?
研究者の光成準治氏は、著書『小早川隆景・秀秋』の中で、こうした秀吉の動きに対して小早川隆景が警戒していた3つの事案を指摘しています。
以下の通りです。
・毛利家から切り離されて独立大名にされること
・結果、輝元を支えられなくなること
・さらには大陸侵攻の先兵にされること
後年には、秀吉の養子・秀秋を自家に送り込まれる隆景です。
なんとしてでも本家・毛利家を守らなければならず、とにかく秀吉に対しては常に緊張感を強いられていたようで。

毛利輝元/wikipediaより引用
結局は伊予を取り上げられ、筑前へ移らざるをえなくなりました。
長宗我部との和睦を壊してまで手に入れた土地が、わずか二年で離れてしまったのです。
ちなみに隠居させられていた河野通直も、隆景の国替えのあと安芸の竹原へ移されて直後に死去し、河野家はそこで絶えてしまいました。
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こうなると、どうしても考えてしまいます。
いったい四国攻めとは何だったのか?
毛利輝元に自力で伊予国を奪い取らせ、満足させるための戦争であったと、研究者の平井上総氏は述べています。
だとしたら土佐一国にまで追い込まれてしまった長宗我部のなんと不幸なことか。
なお、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目された四国の武将・谷忠澄については以下の関連記事をよろしければご覧ください。
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参考文献
- 光成準治『小早川隆景・秀秋 消え候わんとて、光増すと申す』(2019年3月 ミネルヴァ書房)
- 平井上総『長宗我部元親・盛親 四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(2016年8月 ミネルヴァ書房)
- 光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』(2016年5月 ミネルヴァ書房)


