大河ドラマ『豊臣兄弟』の第25回放送で予告されている安藤守就の追放劇。
そこで注目されるのが、息子の安藤定治です。
美濃三人衆の一人・安藤守就の実子である定治が武田家に内通していた――そんな疑いで織田家を追放されることになるのですが、果たしてこれはどこまで史実に沿った話なのか?
いったい安藤定治とは、どんな人物だったのか。

安藤定治イメージイラスト
当時の状況を振り返ってみましょう。
美濃三人衆・安藤守就の子だった安藤定治
安藤定治は、美濃三人衆の一人・安藤守就の子とされます。
史料によっては「安藤尚就(ひさなり)」という表記もあり、生年などは不詳。
斎藤龍興がまだ美濃国主であった頃の永禄九年(1566年)、重臣の日根野弘就や氏家直元、竹腰尚光らと共に「伊賀平左衛門尉」という名で、定治が連署した書状が残されています。
父・安藤守就の代理で名を記したのでしょう。
当時の斎藤家で、定治がそれなりの地位にあったことがうかがえます。
美濃三人衆・安藤守就の長男であれば、相応のポジションにいるのは自然なことですね。
そして永禄十年(1567年)8月、織田信長に美濃を制圧されると、状況から見て父と共に織田家の傘下に入ったのでしょう。

信長甲冑イメージ/絵・富永商太
次に安藤定治の名が見える大きな動きは、元亀二年(1571年)「大田口の戦い」です。
長島一向一揆との戦いで、『信長公記』に掲載。
そこで定治は、柴田勝家や美濃三人衆らと共に長島方面へ攻め込むのですが、思うようには戦果を挙げられず、しかも撤退中に一揆側の逆襲に遭い、大きな犠牲を出しました。
勝家が怪我を負い、氏家卜全(氏家直元)が討死してしまったのです。
そのため氏家家では長男の氏家直昌(直通・直重とも)が跡を継ぎ、新たに美濃三人衆として行動を共にすることになりました。
武田への内通は本当にあったのか
天正六年(1578年)10月になると、荒木村重が織田から離反。
村重が有岡城に籠ったときにも、『信長公記』に安藤定治が登場します。
織田家は、当時すでに家督を継いでいた織田信忠を中心に、丹羽長秀や滝川一益、池田恒興らの重臣が大軍で有岡城を包囲。
安藤定治も、美濃三人衆らと共に刀根山に布陣したことが記されています。
前回の元亀二年(1571年)長島一向一揆からは7年ほど経過していますね。
残念ながらその間の記録はありませんが、おそらく父の安藤守就や美濃三人衆と共に従軍していたのでしょう。

安藤守就イメージイラスト
翌天正七年(1579年)4月の有岡城包囲戦線でも、依然として定治の名が見られ、錚々たる織田家諸将の中でも一定の地位にあったことがわかります。
それだけに不可解なのが、その後の追放劇でした。
天正八年(1580年)8月、父の安藤守就が突如、織田家を追われてしまうのです。
追放されたのは守就だけではありません。
佐久間信盛・信栄父子や林秀貞、丹羽氏勝など、いずれも織田家ではかなりの重臣たちでした。
いったい信長は何を考えていたのでしょうか?
特に佐久間信盛に関しては、信長から自筆の折檻状が突きつけられ、
「働きが足りん! やる気がないなら出てけ!」
という厳しい叱責が『信長公記』にも記されています。

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikimedia commons
しかし、守就を追放した理由については少々不可解です。
『信長公記』では「かつて信長が窮地に陥った折に野心を持っていた」ということが記されているだけ。
実に曖昧な内容であり、武田家への内通や安藤定治の名前は出てきません。
いったい織田家で何が起きていたのか?
信長の真意は古参重臣のリストラか
安藤守就・定治父子の追放について、次にヒントになるのが『当代記』です。
『信長公記』より後に成立した史料ながら、同時代に近い情報も含むとされる『当代記』において、
「安藤守就は、武田信玄に内通したため遠方へ追放された」
と記されています。
内通したのは守就であり、安藤定治とは記されていない。
気になるのは、内通相手の武田信玄が天正元年(1573年)4月に亡くなっており、安藤父子の追放時の7年も前の話だったことでしょう。
そんな古い話が、なぜ突如ぶり返されたのか。
研究者の間では、安藤守就の追放は内通が原因ではなく、
信長による“家臣団の整理”が真の理由ではないか?
と見られています。
というのも、天正八年(1580年)当時、織田家から追い出されたのは古参武将ばかりで、家臣団整理の一環と見る方が自然なのです。
一言でいえばリストラですね。
その対比としてわかりやすいのが柴田勝家でしょう。
勝家は、佐久間信盛や林秀貞と共に織田家に仕えてきた古参中の古参であり、当時も北陸方面軍を任されるほど信長に信頼されていました。

柴田勝家/wikipediaより引用
信長にとって重要なのは、過去の経歴より「いま戦場で役に立つかどうか」という点だったのでしょう。
なんせ勝家は、かつて織田信長に反旗を翻し、「稲生の戦い」では直接対決をしたこともあります。真っ先に野心を疑われて織田家から追放されても不思議ではない。
しかし“使える”から北陸方面軍を任されていた。
反対に、安藤守就と安藤定治の父子は、“用無し”と判断された可能性が浮上してきますね……。
ただ、彼らも、座して死ぬわけではありません。
注目は、本能寺の変が起きた直後の行動です。一体この父子は何をしたのか?
本能寺の変後に定治主導で挙兵
天正十年(1582年)6月2日、明智光秀の軍勢が本能寺を襲い、織田信長は自害に追い込まれました。
この混乱を好機と見て挙兵したのが安藤定治。
旧領を取り戻すため家臣を江渡城(ごうどじょう・河渡城とも)に集めると、北方城には安藤守就が入りました。
そう、父子は旧領を復活させるため、混乱に乗じて挙兵したのです。
ところが!
彼らの前に立ちはだかったのが、他ならぬ美濃三人衆の一人・稲葉一鉄でした。
北方城周辺の所領を与えられていた稲葉一鉄は、旧知の仲であった安藤軍への反撃を開始し、同年6月8日、定治は父の安藤守就と共に討ち取られてしまいます。
研究者の木下聡氏は『戦国武将列伝6 東海編』の中で、当時かなりの高齢だった安藤守就は織田家を追放されたときから隠居の身であり、定治が家臣団を率いていた可能性を指摘しています。
★
武田に内通していたというのは、あくまで『当代記』に記された安藤守就の話。
むしろ定治の実像については安藤家再興に懸けた姿の方が印象に残ります。
そもそも『信長公記』では守就の追放理由を「野心」という趣旨で片づけるだけで、武田のことも定治のことも記してはいません。
やはり守就らの追放は、佐久間・林・丹羽ら重臣リストラの一環であり、安藤家を継いでいた定治もそれに巻き込まれたのでしょう。
今回の大河ドラマで、安藤定治が「武田への内通者」と印象付けられるとしたら、さすがに不憫な気もします。
なお、追放された佐久間信盛や林秀貞らについては以下に詳細記事がございます。
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佐久間信盛の生涯|なぜ織田家の重臣は信長に追放されたのか?退き佐久間の末路
続きを見る
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なぜ織田家の筆頭家老・林秀貞は信長に追放されたのか “消息不明”な最期
続きを見る
参考文献
- 木下聡『斎藤氏四代 人天を守護し、仏想を伝えず』(2020年2月 ミネルヴァ書房)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年11月 吉川弘文館)
- 柴裕之・小川雄編『戦国武将列伝6 東海編』(2024年6月 戎光祥出版)
- 池上裕子『織田信長 人物叢書』(吉川弘文館)
- 藤本正行『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』(講談社)


