大河ドラマ『豊臣兄弟』でようやく注目された羽柴秀長の家臣団。
桑山重晴や小堀正次、羽田正親などが登場し、ようやく藤堂高虎以外の武将たちも陽が当たるようになりました。
しかし!
ドラマだけでは、いまいち印象が薄くありませんか?
例えば吉川平助などは、後にとんでもない事件に巻き込まれますのでいずれ注目されるでしょうが、

吉川平助イメージイラスト
他の武将たちについては「ぶっちゃけ、高虎以外わからん!」という方が大半でしょう。
そこで今回は秀長家臣団のうち、大和入りで最も功績があった武将を選んでみたい。
来週の第38回放送でクローズアップされ、本記事がネタバレになったらごめんなさい。
後年の記録で並べると、この順番になる
「最も功績があった」とは、何をもってして「最も」と言えるのか。
判定が難しいため、まずは羽柴秀長の主な家臣をズラリと並べ、彼らの石高を確認しておきましょう。
◆桑山重晴……3万2000石(のちに分知)
◆伊藤祐時(掃部助)・加藤光泰……2万6000石
◆藤堂高虎・横浜良慶・多賀秀家……2万石(良慶は秀長時代は1万8000石か)
◆杉若無心(すぎわかむしん)……1万9000石
◆本田利朝……1万5000石(秀長時代は1万石か)
◆尾藤頼忠……1万3000石
◆小川祐忠……1万2000石
◆吉川平助……7000石
◆小堀正次・井上高清……2000石
【参考】黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』
この数字は大和羽柴家が断絶した後、慶長期の記録をもとに整理されたもので、ある一時点で一斉に測られた数字ではありません。
その上で、頭ひとつ抜けているのが桑山重晴ですね。

桑山重晴イメージイラスト
大永四年(1524年)生まれで、秀長より一回り以上も年上にあたる武将。
但馬時代は竹田城、紀伊と和泉を得たときは岸和田城、次いで和歌山城と、秀長が新しい領地を手にするたび真っ先に送り込まれた腹心です。
留守を預かる番頭役というところですね。
しかし、大和に入ってからの動きだけを見ると、必ずしも序列通りとはなっていません。
検地を仕切ったのは2000石の男だった
一覧のいちばん下に、小堀正次(こぼりまさつぐ※)という名前が見えるでしょう。
2000石ですので、桑山重晴の16分の1です。
しかし、この最下位にいる小堀が中心となって、秀長の検地を引き受けていました。
※小堀正次は小堀遠州の父でもある

小堀正次イメージイラスト
大和入りの直前にあたる天正十三年(1585年)閏8月9日のこと。
秀長は紀伊のすべての村へ向けてこんな命令を出しています。
・百姓は出頭して村の境界に見落としのないよう確認すること
・検地の規定は小堀に命じてあるので、小堀の指示どおりに行うこと
検地の規定づくりから現場の判断まで、まるごと小堀に預けられていたわけですね。
研究者の和田裕弘氏は著書『豊臣秀長「天下人の賢弟」の実像』の中で、正次を検地のスペシャリストというべき人材だったと評しています。
もっとも、この時点での紀伊検地が実際にどこまで行われたか、検地帳そのものが確認されていないため疑問視する向きもあります。
天正十四年(1586年)には検地への反発から熊野で一揆も起きており、思うように進んでいません。
それでも天正十五年(1587年)ごろには大和・紀伊で検地が行われ、知行の割り当てにも繋がりました。
2000石の武将が部下を動かして、大和・紀伊の土地支配を実務面から支えていたわけです。
しかし、大和での政治力で比較すると、別の功労者も浮上してきます。
それは誰なのか?
知行帳を配って歩いた男
横浜良慶(よこはまりょうけい)です。
所領は2万石で、藤堂高虎と同規模。
良慶は法名で、庵号を「一庵」と称し、自らもその名で署名しています。
後に大蔵卿法印に任官しますが、それは天正十七年(1589年)2月ごろのことでした。
『多聞院日記』の記録から、良慶は天文十八年(1549年)11月3日生まれと判明し、秀長より9才若くなりますが、大いに信頼されていたのでしょう。
秀長が郡山城へ入った天正十三年(1585年)9月、

郡山城図/wikimedia commons
土地の石高を記した知行帳を家臣や寺社へ配る作業が始まると、その実務を回すための職務に就いたのが良慶でした。
例えば同年9月27日、伊藤祐時に対して「1000石の知行帳を渡すので、翌日、郡山城へ出頭するように」と伝える文書が残っています。
また同月に、興福寺の寺領を2万6000石から1万1205石まで削る旨の通知も出され、良慶によって届けられました。
寺の取り分を削った紙を届けに来る人物ですから、大和の寺社にとっては憎き相手だったでしょう。
秀吉「秀長の死後はあの男に従え」
良慶の立場がはっきり分かるのは、秀長最期の場面です。
天正十七年(1589年)、病が深刻なものになってしまった秀長。

豊臣秀長/wikimedia commons
同年12月26日、奈良の寺社へ祈祷を頼む書状が届き、その中には祈祷の条件として、春日大社の社家・禰宜に500石、興福寺に200石、東大寺に100石を渡すという内容が記されていました。
この書状を出したのが「大蔵法印」こと良慶です。
そして翌天正十八年(1590年)10月20日、秀長が危篤との報せを受けた秀吉は、見舞いのため郡山城を訪ねています。
秀吉は、養嗣子の豊臣秀保(ひでやす)が家督と領国を継ぐことを承認。
天正十九年(1591年)正月22日に秀長が亡くなると、その5日後、秀吉から秀保へ一通の朱印状が出されました。
◆秀吉からの朱印状
【意訳】侍従殿(秀保)を守り立て、何もかも一晏法印(良慶)の指示に従うように。
【原文】万事各一晏法印次第に相随わらるべき
【参考】黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』
秀長の家臣は全員、良慶の指示に従えと秀吉直々に命じられたのです。
『多聞院日記』にも、この一件は「比類無き名誉、又一大事の始末」と記されています。
一人を選ぶなら良慶か
大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証者である黒田氏は著書『羽柴秀長とその家臣たち』の中で、横浜良慶を「執政」と捉えられる可能性を指摘しています。
当主に代わって事実上の領国統治をおこなう役目です。
こうした役割は、代替わりの日に突然できたとは考えにくい。
つまり、秀長の生前から、大和の統治は良慶の策定で進められていた可能性を示唆しています。
ちなみに、この良慶と小堀正次は姻戚でもありました。
良慶の娘が正次の後妻となり、文禄二年(1593年)には正次の五男・正春を産んでいるのです。
結婚は文禄元年(1592年)頃と推定され、ちょうど二人が共に秀保の重臣だった時期にあたる。
検地を仕切った男と、国そのものを回していた男――大和の実務は、この二人のあいだで回っていたことになりますね。
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所領の筆頭は桑山重晴。
検地の現場を仕切ったのは小堀正次。
そして国そのものを回していたのは横浜良慶。
大和の立ち上げから、秀長が世を去った後の統治まで含めて、功労者を一人選ぶならやはり良慶となるのでしょう。
なお、跡継ぎである豊臣秀保もわずか4年後の文禄四年(1595年)に逝去し、大和羽柴家は断絶してしまいます。
良慶の名が今ひとつ知られていないのは、そのあたりに理由がありそうです。
なお、秀長の大和入りによって伊賀へ移された筒井定次の悲しき最期については、以下の関連記事で詳しく扱っていますので、よろしければ秀長家臣団の顔ぶれと併せてご覧ください。
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参考文献
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人』(角川選書)
- 黒田基樹『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治』(2025年9月 講談社現代新書)
- 和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(2025年10月 中公新書)
- 河内将芳『図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石』(2025年5月 戎光祥出版)



