大河ドラマ『豊臣兄弟』で今最も注目度が高いのが藤堂高虎でしょう。
第18回放送で豊臣家に仕えるため数々の試験を受けた大男。
身長六尺二寸(約190cm)とも伝わる並外れた巨漢であり、自ら槍を振るい、全身傷だらけの無骨な武士だったと伝わります。
しかし、単なる猪武者でもありません。
豊臣秀長のもとで文武両道で活躍し、後には築城名人として知られ、徳川家康からも厚い信頼を得る人物となっていきます。
「主君を七度変えねば武士とは言えぬ」という言葉から誤解されがちな面もある藤堂高虎。

藤堂高虎の肖像画/wikipediaより引用
本記事では、恩人となる豊臣秀長との出会いを含めて、その前半生を史料や伝承を踏まえながら追っていきます。
近江の土豪の次男として生まれる
藤堂高虎は弘治二年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)に生まれました。
父は藤堂虎高、母は多賀良氏の娘。
藤堂氏はもともと在地の土豪でしたが、高虎が生まれた頃にはすでに没落しており、父の虎高は一時期、甲斐の武田信虎(信玄の父)に仕えていた時期もあるとされます。
次男として生まれた高虎は、家を優先的に継げる立場でもなく、自らの腕一本で道を切り拓く必要がありました。
190cmもの大男が槍をぶん回す――。

怖くて誰も近づけないだろ!とは思いますが、当人は全身傷だらけだったとも伝わります。
研究者の諏訪勝則氏も著書『図説 藤堂高虎』の中で以下のように指摘されています。
「身長六尺二寸(約190cm)の巨漢であったと伝えられ、その体格は戦場において圧倒的な存在感を放っていたであろう」
一説に、当時の平均身長は157cm程度と考えられており、その前に190cmの大男が現れたらどうなるか。
「身長六尺二寸」という記述は『藤堂家譜』などに記録が残されていて、それが事実であれば、戦場で相当目立つ存在だったことは想像に難くありません。
全身が傷だらけだったという伝承も、戦場でたびたび危険な局面に身を置いていたことをうかがわせます。
初陣「姉川の戦い」と浅井氏の滅亡
永禄十二年(1569年)頃、藤堂高虎は北近江を支配する戦国大名・浅井長政に仕えました。

浅井長政/wikimedia commons
当時の藤堂家は、浅井氏配下の国衆という立場。
高虎が初めて大きな戦功を挙げたのは、元亀元年(1570年)6月28日に発生した「姉川の戦い」です。
織田徳川連合軍と、浅井朝倉連合軍が激突したことで知られるこの著名な合戦で、15歳の高虎は敵の首級を二つ挙げたと伝わる、鮮烈なデビューを飾りました。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも暴れ回る様子が描かれていましたね。
しかし、浅井氏の命運が長くは続かなかったこともドラマで描かれた通り。
元亀四年(1573年)7月、足利義昭を京都から追放した織田信長は北近江へ侵攻すると、まず同年8月に朝倉義景を滅ぼし、8~9月にかけて小谷城を陥落させると、浅井長政を自刃へと追い込みました。
高虎は18歳にして最初の主家を失い、浪人の身となってしまうのです。
迷走と流浪
浅井氏の滅亡後、藤堂高虎は次々と主君を変えていきます。
一見すると節操がないようにも見えます。
しかし、実力主義が支配する戦国時代において、己の価値を認めてくれる主君を探すのは当然のこと。
まず仕えたのは、浅井旧臣で織田方に降った阿閉貞征(あつじ さだゆき)でした。
しかし、満足な評価を得られなかったのでしょう、長くは続かず、次に同じく浅井の旧将であり、佐和山城に関わりの深かった磯野員昌(いその かずまさ)に仕えます。
勇将として知られる磯野員昌。

磯野員昌(落合芳幾画)/wikipediaより引用
高虎はそのもとで天正元年(1573年)から天正三年(1575年)にかけ、対本願寺戦などの最前線に投入されました。
特筆すべきは、高虎が単に武力に走るだけでなく、後年の築城家としての高虎を考えると、この時期の実戦経験も無関係ではなかったかもしれません。
その後、高虎は信長の甥でもある織田信澄(津田信澄)に仕え、ここでも結局折り合いが悪いため、わずかな期間で去ることになりました。
果たしてこれは高虎の性格が災いしたのか?
研究者の黒田基樹氏は『羽柴秀長とその家臣たち』の中で、こう指摘されています。
「高虎のような在地性の強い国衆出身者は、自身の知行や一族の保全に極めて敏感であり、期待した恩賞が得られない、あるいは主君との信頼関係が築けないと判断すれば、即座に次を模索する」
当時の武家社会では、こうした主君替えも珍しいことではありませんでした。
高虎の性格に問題があったわけではないでしょう。
天正四年 運命の出会い
流浪を続けていた21歳の藤堂高虎に、人生最大の転機が訪れたのは天正四年(1576年)のことでした。
豊臣秀長(木下小一郎)への仕官です。
織田家の有力部将として北近江の長浜を統治していた羽柴秀吉の弟。

豊臣秀長/wikimedia commons
そんな秀長に高虎を紹介したのは、父・虎高と縁があった人物、あるいは高虎の武勇を聞きつけた秀長自身のスカウトだったとも伝わります。
当初の知行は300石(一説には80石)という小身からのスタートでした。
姉川の戦いでの武功など、経歴を考えれば、決して破格の待遇ではありません。
しかし、秀長という人物は、高虎にとってこれまでの主君とは全く異なる存在でした。
兄・秀吉の出世を支えるために、内政、兵站、調略、そして家臣団のまとめ役として活躍していた秀長は、何よりも「実務能力」と「誠実さ」を重んじていたと考えられます。
それだけに高虎が持つ武勇だけでなく、実務に向く資質も見ていたのかもしれません。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも「橋の一部破損を一瞬で見抜く」という高虎の眼力と、その気遣いに感心する秀長というシーンがありました。
コメディばかりで物議を醸している同ドラマですが、高虎と秀長の関係性を考えるうえでは興味深い演出でした。
単なる兵(つわもの)ではなく有能な将として――高虎はこの後、秀長配下の有力武将として軍事のみならず、彼の得意分野「築城」の才能を開花させていくことになります。
流浪の終わり
藤堂高虎が秀長に仕えた天正四年(1576年)は、織田信長が安土城の築城を開始し、天下統一への歩みを加速させていた時期です。
近江の没落土豪の息子として生まれ、浅井氏の滅亡とともに荒波に放り出された高虎。
数度の主君交代を経て、ようやく自身を重用してくれる羽柴家という有力武将に引き立てられ、秀長という理解者を得ることができました。
後に徳川家康からも絶大な信頼を得る高虎は、ときに「裏切り者」と揶揄されることもあります。

徳川家康/wikimedia commons
しかし、江戸時代を築き上げた偉大な政治家・家康に重用されたということは、単に実務能力が優れていただけでなく、少なくとも信頼を寄せるに足る忠誠心が認められた人物だったのでしょう。
その基礎の一つには、秀長のもとで積み上げられた経験があったのではないでしょうか。
信長と秀吉の飛躍に伴い、秀長の右腕として四国や九州の平定を駆け巡り、築城家としての地位を確立していく高虎。
後日、別記事でまたその詳細をまとめていきたいと思います。
なお、実は浅井氏滅亡後に史料に登場し始めた秀長の考察については別記事「豊臣秀長はいつから史料に登場したのか」をご覧ください。
参考文献
諏訪勝則『図説 藤堂高虎 ―乱世を駆け抜けた稀代の名将―』(2025年9月 戎光祥出版)
黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち ―秀吉兄弟の天下一統を支えた18人―』(2025年6月 KADOKAWA)
河内将芳 編『図説 豊臣秀長 ―秀吉政権を支えた天下の柱石―』(2025年3月 戎光祥出版)
和田裕弘『豊臣秀長 ―「天下人の賢弟」の実像―』(2011年6月 中央公論新社)
柴裕之 編『戦国武将列伝 別巻1 織田編』(2025年8月 戎光祥出版)
