関ヶ原の戦いに敗れ、京都の六条河原で首をはねられた石田三成。
西軍の決起を主導した中心人物ですから、敗戦後は子供たちも厳しい処分を受けたと思われるでしょう。
しかし、少なくとも嫡男の重家は処刑されず、出家して生涯をまっとうしました。
しかも100才近くまで生きたとみられるのです。
いったい何がどうして許されたのか。

石田三成/wikipediaより引用
石田三成の実子たちの行く末を振り返ってみましょう。
三男三女がいたとされる
後世の系図や家伝では、石田三成には三男三女の子がいたとされます。
◆三成の子とされる人物
長男:重家
次男:重成
三男:左吉
長女:名前不明
次女:小石殿
三女:辰姫
ただし、六人すべての実在や、三成との続柄が確定しているわけではありません。
比較的確かな経歴を追える嫡男の石田重家から見て参りましょう。
嫡男・重家は家康に託された?
嫡男の石田重家は不思議な縁の持ち主といえるかもしれません。
慶長四年(1599年)閏3月、三成が加藤清正らによる排斥運動を受けて佐和山へ退く際、重家は家康に託されたと研究者の今井林太郎氏が著書『石田三成 人物叢書』の中で記しています。
まだ12〜13才だったとされるときから家康に助けられていたんですね。

徳川家康/wikimedia commons
そしてその翌年、家康が上杉景勝を討つため会津へ向かうと、三成は重家を大谷吉継に預けて従軍させたいと願い出ます。
重家は家康のもとから佐和山へ戻りましたが、結局、会津へは向かいません。
その後、三成は大谷吉継との協議を経て挙兵へ動き、関ヶ原の戦いのころ、重家は大坂城にいました。
毛利輝元や長束正家らの子と共に人質として大坂城に置かれたのです。
しかし慶長五年(1600年)9月19日、父が関ヶ原で敗れて行方知れずになったと知るや、重家は乳母や家臣の津山甚内らに守られて大坂城を脱出。
向かった先は京都・妙心寺の塔頭である寿聖院(じゅしょういん)でした。
三成が父・石田正継のために建てた寺であり、三成に招かれた伯蒲恵稜(はくほ えりょう)という僧が任されていたのです。
出家して命を許された
重家を迎えた伯蒲は、すぐに髪を剃らせて仏門に入れます。
そして京都所司代の奥平信昌に届け出て命乞いをしました。

奥平信昌/wikimedia commons
そんな願いが聞き入れられるのか?
と大いに疑問に思うところですが、徳川家康は本多正信と協議の上、伯蒲の願いを聞き入れて重家の命を助けました。
すでに出家した身である、というのが助命の理由だったといいますから、伯蒲のとっさの判断が命を救ったといえるでしょう。
宗享(そうきょう)と名を改めた重家は、禅の修行に打ち込み、元和九年(1623年)には妙心寺の高僧から悟りを認められています。
のちに伯蒲のあとを継いで寿聖院の第三世となり、貞享三年(1686年)閏3月8日に亡くなりました。
関ヶ原のときに12〜13才だったとすれば、亡くなったのは100才近く。
父の三成が41才で斬られてから、実に86年後のことであり、すでに徳川将軍の治世も綱吉の時代でした。
関ヶ原から生類憐みの令まで知っているなど、なかなか他に例がないのではないでしょうか。
ほかの子供たちは名を変えて生きたのか?
前述の通り、石田三成には重家のほかにも、全部で三男三女の子がいたと考えられています。
ただし、表立って出自を名乗るわけにもいかず、その後の記録は系図や家伝による伝承であり、史実と断定できる例は多くありません。
そうした状況を踏まえて一人ずつ見て参りますと……。
まず次男の重成は、津軽へ逃れ、杉山源吾と名乗ったとされます。
三男の左吉も長男と同様に出家して清幽と名乗り、甲斐にある寺の住職になりました。
長女は名前も行方も不詳ですが、北政所に仕えていた次女の小石殿は蒲生家の家臣・岡重政に嫁いだとされますので、ただただ不遇だったというわけでもなさそうです。
最も知られているのが三女の辰姫でしょう。
津軽藩の二代藩主・津軽信枚(のぶひら)に嫁ぎ、彼女が産んだ津軽信義は弘前藩の三代藩主になったとされています。

津軽信枚/wikimedia commons
もしも彼女の話が本当なら、三成の血は北国の大名家に受け継がれたことになるんですね。
しかし、前述の通り裏付けが不十分であり、確実だとは申し上げられません。
例えば、研究者の菊地浩之氏は著書『豊臣家臣団の系図』の中でも、次男の重成は、津軽家臣の杉山家が重家をモデルに作り出した人物だとみるのが合理的だと指摘しています。
さらに菊地氏は、三男や娘たちをめぐる系図にも食い違いが多いとして、実在や三成との続柄を慎重に判断。
比較的確かな経歴を追えるのは、やはり嫡男の重家ぐらいだとしています。
少なくとも嫡男・重家は生き延びた
西軍の決起を主導した石田三成は、関ヶ原の敗戦後に処刑されました。
しかし少なくとも嫡男の石田重家は、出家したことで命を許され、京都の寺で長い生涯を送りました。
後世の三成は、徳川の世に逆らった人物として否定的に描かれることが多くあり、最近になってようやくその能力が再評価されている印象です。
今後、もしも三成を描く物語が話題となれば、新たな研究成果も出て、三成の生き残った子たちの事績が辿れるようになるかもしれません。
そのときを待ちましょう。
なお、三成の最期については、以下の記事で詳しく扱っています。
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関ヶ原で敗れた三成 その後はどうなった? 最後は旧知の田中吉政に捕縛されて
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日本史随一の嫌われ者・石田三成を再評価|豊臣政権を支えた忠臣41年の生涯
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参考文献


