徳川宗春像

徳川宗春像

江戸時代

吉宗に逆らった徳川宗春の最期|ド派手な名古屋の殿様は25年も蟄居させられ

明和元年(1764年)10月8日は、尾張藩七代藩主・徳川宗春の命日です。

将軍・徳川吉宗の倹約令に真っ向から逆らい、名古屋を派手に盛り上げた殿様として知られていますよね。

どれだけド派手なのか?

ってのは、現代の徳川宗春像をご覧いただければわかるかもしれません。

トップ画像にもあるこの像は

徳川宗春像

徳川宗春像

一見、ツルツルが強めに見えるだけでなく、実は

徳川宗春像

徳川宗春像(名古屋市中区栄)

黄金のポストの上に設置されているのです。

こんだけ金ピカにするのは、秀吉と同じ名古屋人のサガでしょうか。

しかし問題はこのお殿様の行く末です。

派手な政策で今も話題にはなりますが、その後どうなったか、後半生については意外なほど知られていません。

実はこの宗春、幕府から処罰を喰らい、藩主の座を追われて25年、そして亡くなってから75年、許されなかったのです。

御三家・尾張藩の藩主であるのに、なぜそこまで追い込まれてしまったのか。

徳川宗春の最期を振り返ってみましょう。

 


吉宗に逆らった8年間

徳川宗春が尾張藩主になったのは、享保十五年(1730年)11月のこと。

徳川吉宗が倹約を推し進めるさなか、宗春は真逆の道を選びました。

遊廓の設置を認め、芝居小屋を増やし、祭礼を華やかにして、名古屋に空前の賑わいをもたらそうとしたのです。

こんなことして平気なのか?

いえいえ、幕府は当然、黙っちゃいません。

享保十七年(1732年)5月25日、吉宗は滝川元長と石川政朝の2人を使者として送り、宗春へ三カ条の詰問を突きつけたと伝わります。

徳川吉宗の肖像画

徳川吉宗/wikipediaより引用

しかし宗春はこれに反論、なおも自らの政策を続けました。

その中身については、以下の記事をご覧いただくとして、

徳川宗春を演じた役者を描いた『夢の跡』の一頁
名古屋をド派手に盛り上げた徳川宗春の生涯|吉宗の倹約令は完全無視!

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結果、どうなったのか?

残念ながら宗春の開放政策は藩財政の悪化をもたらし、重臣たちとの対立も深まってしまいました。

重臣たちは、宗春が江戸にいる間の元文三年(1738年)に政策を旧来の方針へ戻し、遊廓は廃止、芝居小屋も縮小したと研究者の大石学氏が著書『徳川吉宗 日本社会の文明化を進めた将軍』の中で触れています。

派手な政策がうまくいけばまだしも財政を悪化させただけ……。

当然、宗春もタダでは済みませんでした。

 

母の葬儀にも出られない

元文四年(1739年)1月13日、幕府は徳川宗春に隠居と謹慎を命じました。

行状が悪いうえに藩政が整わず、家臣や領民を困窮させたというのが処分の理由。

徳川宗春

徳川宗春を演じた役者を描いた『夢の跡』の一頁/wikipediaより引用

8年余りで藩主の座を下ろされてしまいました。

そして同年10月3日、名古屋城三の丸の屋敷に閉じ込められてしまいます。

当初、外出は一切許されませんでした。

4年後の寛保三年(1743年)9月に宗春の生母・宣揚院(せんよういん)が亡くなったときも、葬儀だけでなく墓参りをも禁じられたと、研究者の川口高風氏が論文「『諦忍律師と徳川宗春』再考」の中で明かしています。

宝暦元年(1751年)に吉宗が亡くなっても、謹慎は解かれませんでした。

そして宝暦四年(1754年)、宗春は城下の御下屋敷へ移されます。

夜8時ごろに行列が出発し、道筋には葬式で使う白張提灯がともされたそうですから、まるで葬列のようだったでしょう。

この御下屋敷は、かつて藩主時代の宗春が改装し、町民を集めて盆踊り大会を開いた場所でもありました。

華やかな思い出の場所が、今度は幽閉の場所になったのです。

謹慎から既に15年も経過しているのに、さすがにこれは仕打ちがキツすぎないか……。

 


墓には金網がかけられていた!?

宝暦十年(1760年)、近衛家に嫁いでいた娘の頼姫(よりひめ)が亡くなりました。

これで徳川宗春は子どもをすべて失ってしまいます。

父母の墓参りが許されたのは、謹慎から22年が過ぎた宝暦十一年(1761年)4月のことであり、許可を得た宗春は同年6月5日の父の命日に、尾張徳川家の菩提寺・建中寺を訪れています。

すでに宗春自身も66才とかなりの高齢。

さぞかし失意の底に沈んでいたのでしょう。

そしてそのまま3年後の明和元年(1764年)10月8日、宗春は御下屋敷で69才の生涯を閉じ、建中寺(名古屋市東区)に葬られました。

建中寺

建中寺(名古屋市東区)

宗春への処分は死後も解かれません。

処分が続いていることを示すように、その墓には「金網がかけられていた」とも伝わります。

そこまでやる必要が本当にあったのでしょうか。

宗春がようやく許されたのは、天保十年(1839年)のことです。

徳川十一代将軍・家斉の子である斉荘(なりたか)が尾張藩主になったのを機に、宗春は従二位権大納言を追贈され、尾張藩の歴代藩主として復権しました。

謹慎を命じられてから100年、亡くなってから実に75年が経過。

吉宗の倹約令に逆らい、名古屋を沸かせた8年間の代わりに、払った代償はあまりに大きいものでした。

なお、配流の年数でしたら67年間という松平忠輝の関連記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。

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参考文献

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    五十嵐利休

    武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として約30年活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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